【序幕】選抜、魚々島 洋 其の十



 

 常吉臨港緑地は、茜の色に包まれていた。

 太陽は天空の座を降り、西の舞洲まいしまの向こうに隠居している。横殴りの光は青みを失い、世界を赤く染め上げていく。

 絶景と名高い、大阪の夕焼けの時間だ。

 草原に転がったまま、忍野はそんな空を見上げていた。

 見上げるしかできない。立つことはおろか、首を回す力すら残されていない。底の底まで絞りつくされた。

 無手で仕合う洋は、まさに圧倒的だった。

 忍野とて素人ではない。空木流には無手の技もある。得物がなくとも十分に闘えるだけの研鑽を自負している。

 しかし、それは並の武芸者相手の話だ。

 始めてすぐに理解した。まず打撃が通用しない。斬撃すら見切る《海蛍》相手に、突き蹴りが通用しないのは道理だ。足の負傷の影響も感じさせず、仮に当たっても分厚い肉の鎧に阻まれ、決定打を見込めない。

 残された戦法は投げや関節技だ。密着を前提とするこれらは《海蛍》といえど避け切れない。退がれば刀を取り返される今の状況ならなおのことだ。

 だが、そこはまさに洋の土俵だった。

 組みつくまではいいが、一方的に投げられる。こちらの崩しや技などお構いなしで、手がつけられない。

 これも《海蛍》の応用だ。体内に複数の動力があるように、瞬時に重心が切り替わる。こちらの崩しは封じられたまま、常識外の角度と速度で引き回され、地面に叩きつけられる。まるで暴れる冷蔵庫だ。人力で御せるものではない。

 それでも数時間。受け身を取っては立ち上がり、挑み続けた。

 床が草でなければ、何百回と死んでいる。

 対する洋は、刀を守るハンデがありながら、一度も土つかずの横綱相撲だ。

 空木の身は打撲も骨折も治す。少しの休息で疲労も消える。  

 得物がなくとも、持久戦で後れを取るはずがない。そんな思惑は確かにあった。

 実際、地面に転がった身体にダメージはない。疲労だけだ。体力的にはまだ立ち上がれる。

 しかし今。現実として、忍野は指一本すら動かせない。

 ──そうか。これか。

 無傷であるはずの忍野を縛るもの。

 それは、数多の投げで骨身に刻み込まれた、絶望と敗北感だった。

 ふと、冷たい感触が頬に触れた。

「飲めよ。不死身でも死んじまうぜ?」

 動かぬ視界を覗き込むように、洋の顔が現れた。頬に当てていたペットボトルを開け、傾ける。

 顔を打つ水の冷たさに、忍野は思わず跳び起きた。

 洋は満足げな顔で水の残るボトルを手渡すと、自身ももう一本を口にする。

 赤銅色の船が、黄金の運河を渡っていく。しばし言葉もなく、二つの影は夕焼けと船を見つめていた。

「──私の、負けです」

 洋が目を丸くする。

 それを見た時、全身を重く縛る鎖が溶け落ちたように感じた。

「いいのかい?」

を与えられました。

 魚々島 洋殿──《合格》です」

 傷一つ残らぬ空木の身体。

 それにこんな形の致命傷があろうとは。忍野自身、思い至らぬことだった。

「そりゃ助かったぜ。

 傷はともかく、腹が減っちまってよ」

 洋の言葉に、盛大な腹の虫が唱和する。

「今夜のメシも美味く食えそうだ。

 何なら、あんたも食ってくか? ご馳走するぜ」

「──ご迷惑でなければ、是非」

「マジかよ」

 頭を下げた忍野を見て、逆に洋が驚いた。   

「正直、癒着がどうこうで断られるかと思ったぜ」

「《天覧試合》まで間がありません。

 今夜にも蓮葉殿を審査する必要がございます。

 食事を頂けるならまことに重畳。それに──」

 忍野はまっすぐに、洋を見上げた。



「蓮葉殿について、洋殿にお願いしたい儀がございます」



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