【序幕】選抜、魚々島 洋 其の八




 ──まだ続けようというのか。

 呼気を整えながら、忍野は草原を渡る。先刻と同じ円の軌道だ。

 対面を維持こそすれど、洋に攻め出る気配はない。こちらも後の先狙いで螺旋に移らない。間合いを詰めるのに障害はないはずだが、忍野の草履は円の内側に踏み込めない。

 障害は敵ではなく、忍野の内にあった。

 ここまでの闘いにおいて、忍野は洋に二本取られている。空木の肉体あらばこそ継戦しているが、本来なら二度負けた相手だ。畏怖と、それを上回る屈辱。意地汚い決着は望まねど、《天覧試合》立会人の立場が白旗を許さない。

 洋の心意気には感じ入るところもある。しかし現状では嬲り殺しだ。いや、殺されぬのだからそれ以上かもしれない。

 ──臆するな、空木 忍野。

 数度、瞼を瞬かせ、忍野は自分に言い聞かせる。

 洋の実力は認めざるを得ないが、これは試験だ。合否を見極めるまで続けるのは立会人の責務である。

 そして、観念的な勝敗を置けば、有利なのは自分の方だ。 

 洋の取った二本はいずれも《鮫貝》の未知性に依るものだ。同じ手を食うことはもうない。《鮫貝》は底知れない武器だが、戦いが続けば、いずれ技は尽きる。不殺で凌げる実力差では流石にない。追い詰められているのは洋の方なのだ。

 呼吸が落ち着くにつれ、心も凪ぎ始める。

 武芸者として敗北は受け入れよう。しかし立会人として見極めを投げ出すわけにはいかない。勝利をあきらめるのは、見極めを投げ出すに等しい。

 その為にはあの神技的な防御術、《海蛍ウミボタル》を破る必要がある。

 一度は大刀で洋の背後を抑え、小刀との挟撃に持ち込めたが、この手はもう使えない。理由は同じく、未知性に依るものだからだ。背後に置いただけの刀に殺傷力などない。そして猪に近い重量の洋が本気で動けば、片腕で抑え込めるはずもない。  

 洋を止められたのは、背後の剣という見えざる恐怖があればこそだ。《鬼磯目オニイソメ》による妨害を確信し、対応しなかった可能性もあるが、いずれにせよ同じ手は愚策だろう。洋の策士ぶりは骨身に刻まれたばかりだ。

 しかし、大刀の制御は無駄だったわけではない。

 成果はあった。一瞬ではあるが刀身で洋の背中に触れたのだ。

 《海蛍》を発動し、突きを躱した直後の肉厚の身体から伝わってきた感触は、だった。見た目には静止していたにも関わらず、だ。

 例えるならエンジンやモーター。内部のみが激しく駆動し、ギアの操作一つで加速する仕組みだ。無論、本当に体内で何かが回っているはずはない。体内で動く大きな力のうねりが、触感として伝わって来たのだ。

 《海蛍》の強みとは、端的に言えばギャップだ。

 脂肪をたらふく蓄えた肥満体が棒立ちで攻撃を受ける。外すわけがない。その確信が、あり得ない速度の回避に裏切られ、驚きに変わる。驚きとは隙だ。そこに間合いを選ばぬ《鮫貝》のカウンターが滑り込み、完全な《後の先》が成立する。

 しかし、この世に無敵の技など存在しない。

 《海蛍》もそうだ。この短時間でわかる情報は限られるが、攻略の糸口は掴めた。

 一つ、外見に騙されない。あの鈍重そうな身体は敏捷に動く。避けられることを前提に技を組み立てる必要がある。

 二つ、胴体を狙わない。狙うに容易すぎるため攻撃を集めがちだが、その時点で洋の思惑通りだ。胴体に乗る頭部も同じく難しい。狙うべきは残された脚だ。機動の根幹を成す脚を潰せば、おのずと《海蛍》の命脈は尽きる。

 三つ、攻撃を読まれぬこと。いかなる研鑽の末か、洋は二刀の太刀筋をやすやすと読み取る。《海蛍》も寸毫の見切りを前提とするものだ。目と読み、二つの上を行かなければ《海蛍》は破れない。洋の意表を突くために必要なものとは。

 ──秘剣。

 浮かんだ結論は、するりと体に溶け込んだ。

 


 突如、足を止めた忍野が構えを変えるのを、洋は見守る。

 邪魔する気は毛頭ない。構えの変化は攻略の糸口を掴んだ証拠だ。用心はすべきだが《海蛍》をどう崩してくるのか、興味の方が先に立つ。

「さーて、どう来るかね」

 《海蛍》に弱みがあるなら、本戦前に知っておきたいところだ。相克の中でこそ技は磨かれる。

 忍野は右足を前に出し、右構えに転じる。前に出た右手の大刀の切っ先が鮮やかに回転し、腰の鞘へと吸い込まれる。

 納刀──しかし鯉口は切ったままだ。片手こそ添えぬものの、忍野の構えは明らかに居合術のそれだった。左の小刀は依然、顔前を守る配置。大刀を納めた分、防御は《砦の構え》に比べ劣るが、技の起こりを消すことに長ける居合を取り入れたことで、攻撃が読みづらくなった。

 さしずめ《やぐらの構え》というところか。少なくとも洋の知る構えではない。

 左肩が後ろになったことで、元よりリーチの短い小刀は攻撃には使えず、防御専用となる。警戒は大刀に絞られるが、忍野の目にある覚悟が気になる。

 盛り上げてくれるじゃねーか。

 《鮫貝》を握る手をズボンで拭った。この手汗は陽気のせいばかりはない。

 忍野が再び、周り始めた。堂に入った構えにダメージの影響は見られない。呼吸も落ち着いている。そして。

「次で決める、って顔してんぜ?」

 応えず、忍野が踏み込んだ。

 螺旋ですらない。一直線に洋に突き進む。

 瞬時に縮まる間合いに対し、洋も無警戒ではない。滑るように後退し、相対速度を減じている。防御こそしていないが、定位置に置かれた《鮫貝》からは、いつ《アゴ打ち》が飛び出すかわからない状況だ。 

 しかし、今の忍野に怯みはない。草を散らし、撃尺の間合いに踏み込む──その寸前、左手が開いた。

「!!」 

 手を離れた小刀が、空を裂いて洋の喉元に向かう。

 回転はしていない。手裏剣術で言う《直打法》だ。肘から先しか使わぬ手投げは威力も速度も落ちるが、起こりは小さく敵に察知されにくい。至近で見落とせば対応は不可能だ。

 しかし、洋は反応した。

 胴体のうねりに乗せて頭部を横にずらし、小刀の到着を待つことなく着弾点から脱する。警戒が功を奏した。小刀を投じる技は幾つかの流派に存在するのだ。

 そして当然、それだけには終わらない。

 間髪入れず、忍野が抜刀した。

 紫電と化した大刀が閃き、小刀を避けたばかりの首を逆から薙ぎ払う。全身の力を収束した、まさに会心の一太刀。この場に観客がいれば、全ての目が宙を舞う洋の首を探したに違いない。

 果たして、宙を舞ったのは、首ではなく毛束だった。

 洋の頭頂部の髪だ。身を沈め、亀のように首を引っ込めて掻い潜ったのだ。

 想定内だが、《海蛍》でなければ素首が飛んでいる。それほどの斬撃だった。

 洋は《鮫貝》を握りしめる。文字通り寸毫の差だが、忍野渾身の一撃を凌げた。後は──

 悲鳴のような金属音が耳を打ったのは、次の瞬間だった。

 左の太腿を貫く、熱く冷たい感触。

 避けたはずの小刀が、洋の脚に突き立っていた。




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