【序幕】選抜、魚々島 洋 其の七




「行くぜ」

 実戦ではありえざるの後、洋が《アゴ打ち》を放った。

 見事に起こりを消してるが、自らタイミングを教えているのだから意味はない。

 腰からまっすぐに走る白線の方向は斜め上、忍野の顔面だ。

 両目を垂直に目指す攻撃は、線でなく点で処理されるため、きわめて距離を測りにくい。かつて洋に倒された半グレたちが、簡単に鼻下の人中を打たれた理由もこれだった。予備動作のない《鮫貝》から見えざる攻撃が繰り出されるのだ。素人には対処のしようがない。

 だが、忍野は素人ではない。まして攻撃を予告されている。

 《アゴ打ち》の着弾点が顔だと読んだ瞬間、体を開いた。上半身を左にずらし、白線の軌道から顔を避難させた。

 それは同時に、垂直ゆえに生じた認知障害を正す。点は線に戻り、忍野の目は白線を捉えた。

 前傾姿勢の効用か、より強く速い。だが、対応を許さぬほどではない。

 絶対の自信をもって、忍野の小刀が振り下ろされた。

 刃が鋼を弾く音、斬って落とす感触。

 確信した未来を否定したのは、外ならぬ忍野の眼だった。

 小刀の軌道の寸前で、白線の先端が停止したのだ。

 飛び道具ではありえないが、相手は《紐付き》だ。手元で抑えれば止まるのは理解できる。しかし何の意味があるのか? 紐付きのボールを止めたところで、狙えるのは寸止め程度だ。次の攻撃に繋ぐべくもないではないか。

 否。宙で静止した《鮫貝》の白線が動き出す。伸長した状態を維持したまま、体躯からだごと繰り出された洋の腕に連動して。

 屹立した白線の先が、深々と喉笛に突き立った。

 嗚咽のような声を漏らしながら、忍野は草原を転がった。二刀を取り落とさないのは流石だが、敵から距離を取るのがやっとだった。嘔吐えづき、息を荒げ、鯉のように口を開閉させながら、草いきれの中でのたうち回る。

「──《鬼頭魚シイラ》」

 それは、飛魚を餌とする大型肉食魚の名だ。

 飛来する《飛魚アゴ》に飛びついた自分も、格好の獲物だったに違いない。

 ──まさか、《鮫貝》で突きを繰り出すとは。

 苦悶の中、忍野は自らの分析の甘さを呪った。せいぜいが刃のついた鎖分銅の亜種だと思っていた。軽量な分、攻撃力を軽視さえしていた。

 思えば一般的なメジャーの帯も、柔軟性と直立性を両立させたデザインだ。5メートル長の維持は通常は困難だが、特注品である《鮫貝》と洋の技量をもってすれば、十分に成立する。想定すべき攻撃だったのだ。

 加えて《シイラ》が突いたのは、初撃を躱した後の喉だ。

 それは停止の後、軌道を変えて突けることを意味する。

 弱点に思われた《紐付き》だが、軌道修正できる飛び道具となれば話は違う。おそらくは《アゴ打ち》でも同じ操作が可能なのではないか。

 《鮫貝》──底の知れない武器だ。

 冷水のような戦慄を覚えながら、忍野はひたすらに呼吸の回復を待つ。この身に生まれて以来、苦痛は日常だった。どんな痛みも見知っている。どの程度で治まるか熟知している。

「普通の相手なら今ので終わるんだが。これでも合格はくれねーんだよな?」

 白線が宙を踊り、洋の手元に吸い込まれた。

 追撃の気配はない。その目は忍野の窮状に無遠慮に注がれ、一挙一動をつぶさに観察している。

「左様……で……ござい……ます」

 まだ息を乱しながらも、忍野は立ち上がった。

 洋の予想よりかなり早いが、返事の方は予想通りだ。

 洋は思わず破顔した。クソをつけたくなる真面目ぶりだ。だからこそ殺す気になれない。

 とはいえ達人の二刀流は、手加減を続けられるほど甘くない。

 殺す以外の結末。例えば気絶や捕縛はどうか?

 勝てはする。するが、忍野は敗北を認めないだろう。

 結局のところ、殺せるかどうかが合否の基準なのだ。そしてどちらかが死ぬまで、この《試験》は終わらない──

 ああ、そうか。そういうことか。

 気付きが不敵な笑みになり、じわり広がる。 

「オーケー、続けようか」

 空の青、草の緑、暖かな日差し。血風にそぐわぬ、のどかな春の空気。

 遠方に響く汽笛を背に、洋は改めて忍野と対峙した。

 


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