【序幕】魚々島 洋、畔 蓮葉を調える 其の四
全長2メートル近い漆黒の大鋏。形状は刈込鋏に近いが、サイズは倍以上だ。
畔の武器だが、見るのは洋も初めてだった。そもそも鋏を武器にする者など、古今東西、少なくとも洋は聞いたことがない。
六階の降り口を通過し、軽自動車が再び姿を消した。
組み上がった大鋏を頭上に持ち上げ、試すように蓮葉が一振りする。分厚い刃が唸りを上げ風を裂いた刹那、蓮葉は屋上から跳躍した。
軽やかに、鋏の一部であるかのように。
もはや滑空と呼ぶべき距離を飛び、スロープの外壁に取りつくと、長い手足を蜘蛛のように使って階下に潜り込む。ちょうど五階降り口の真上に張り付く形だ。
「化け物かよ、あいつ」
漏れ出たのは悪口ではない。最大の賛辞だ。
何気ない挙動に滲む高等技術。同じ武人だからこそわかるレベルの高さ。
序の口でこれならば、本気を出せばどこまでやれるのか。
一周した軽自動車が再び戻って来た。五階降り口に差し掛かる。
音もなく蓮葉が天井から舞い降りた。車の屋根に被さると同時に、大鋏を突き立てる。助手席の上の位置だ。
スロープの天井が低いためだろう。大鋏の柄は畳まれ、蓮葉も短く構えている。もう一つ異なるのは支点だ。最先端の穴に移動している。鋏の刃はニッパーのように短くなり、助手席の幼女には届かない。
青いスカートをはためかせながら、車がコーナーを曲がっていく。速度は速いが、加速する様子はない。
「まだ気付かれてねーのか」
蓮葉の着地は、猫以上に体重を殺している。音はおろか振動すら車内に伝わっていないはずだ。鋏が屋根を破る音は流石に消せないが、鋭い切っ先に力を集約させ、一瞬で貫くことで最小限に抑えている。運転席の窓が開いたままなのは幸運だった。多少の異音はエンジン音で掻き消されるはずだ。
「おっと、置いてかれる」
洋も階下へ身を躍らせた。一階、二階と降下し、ウイステ四階窓の外側に取りつく。何気なくやってるが、こちらも離れ業だ。ここならスロープの最後まで、車の動向が追える。
──あいつ、あそこからどうやって救い出すつもりだ?
幼女を傷つけない前提では、窓ガラスを破るのは悪手だ。後部席の窓から入るのが一番だが、運転手に手を出せないとなれば、何が起こるかわからない。その気はなかったが、洋の注文の難易度はかなりのものだ。
四階スロープを車が戻ってきた。これ以降に駐車場はなく、従って降り口もない。つまり他の車が乱入する可能性はない。
腹ばいになった蓮葉の手元に、洋は瞠目した。
屋根が半円状に切り裂かれている。片方の刃を突き立てたまま、もう片方を小刻みに動かして進むさまは、さながら缶切りのようだ。
無論、鋏で可能な芸当ではない。缶切りが出来る形に組み替えたのだ。
状況に応じて形を変える武器──それはおそらく、敵に対しても。
にわかに自動車の運転が変化した。
流石に異常に気付いたらしい。狭いスロープで壁にぶつかるのも構わず、速度を上げてくる。
だが時すでに遅し。屋根に開いた丸穴から鋏が差し込まれ、幼女を抑えるシートベルトを断つ。左右に激しく振られる車体の上で難なく作業を終えると、黒い刃は親鳥のように幼女の襟を摘み、穴から取り出した。
「たいしたもんだ。オレも負けてらんねぇな」
屋根から離れた蓮葉が危なげなく着地するのを見届け、洋は指を窓から離した。
自由落下に任せ、一気に二階まで降りると再び張り付く。丸い影が施設の外壁で揺れ、停止する。
背中越しにスロープを見やる洋の手に、鮫貝が出現した。
対面を軽自動車が降りてくる。傷だらけの側面は運転手の心情そのものだろう。運転も無茶苦茶だ。とにかく逃げたい一心に違いない。
距離6メートル。恐怖に彩られた男の顔を一瞥した後、洋は鮫貝を放った。
シュルル! 繰り出された白線が、開け放しの窓から運転席に飛び込む。
鮫貝を持つ手が、宙に字を描くように動いた。生を得たように《爪》──白線の先端が躍り、運転手の首に絡みつく。
下る車に釣られ、みるみる白線が引き出されていく。
男の目が見開かれるのと同時に、洋は鮫貝をロックした。
腕の力は不要だ。走行中の運転手の首に100キロ超の荷重がかかれば、
鈍い手応えとともに、解き放たれた白線が宙を舞った。
「──《
反動を利して、洋が壁からスロープに飛び移った時、最後の坂を下った車の激突音が轟いた。
スロープで合流した蓮葉は、大鋏の先に幼女をぶら下げたままだった。
「おまえな。狩りの獲物じゃないんだからよ」
慌てて少女を下ろす蓮葉に洋は嘆息した。傷つけるなという約束通りではある。
口封じのテープもそのままだが、少女が嗚咽を続ける今、外すべきかどうか。
警備員に見つけて欲しいところだが、自分たちが見つけられては困る。
「怪我なかったか?」
膝をついて尋ねる洋に頷くも、幼女は泣き止まない。
「ま、ひとまず作戦成功だ。助かったぜ相棒。たいしたもんだ」
立ち上がり、妹を労う洋に、ふいに大鋏が突き出された。
「──《
躊躇うようにか細い、蓮葉の声。
それが妹の武器の名であると、兄ははたと気が付いた。
見つめあう二人を見上げる幼女の瞳に、雨上がりの虹が映り込んだ。
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