【序幕】空木 忍野の選抜
【序幕】選抜、魚々島 洋
ここ数日の洋の日課は、キャッチボールだ。
相手はもちろん蓮葉である。大阪に居を移して一年、貯金を頼みに修行三昧の日々を送ってきた洋だが、一人で行える訓練は限られる。パートナーを得て最初に始めたのが、このキャッチボールだった。
場所は廃スタンドの敷地内。昼下がりのこの時刻、外は春の日差しに満ちているが、フェンスの内側は適度な日陰となり、人目も避けられる好環境だ。そこで8メートルほど距離を取り、ボールをやり取りする。グラブこそないが、いたって普通のキャッチボールである。
「いやあ、壮観ですねえ」
けれど、二人を眺める青沼の感想は的外れではない。
二人の間を行き来する、ボールのサイズが違うのだ。
ボーリング用のマイボール。
このボールはその昔、廃スタンドの倉庫で発掘されたものだ。重量は16オンス(7.25キロ)。時折、洋がダンベル代わりにしていたが、この使い道は青沼にも予想外だった。
重さ、硬度に加えサイズ的にも扱いづらい剛球を、文字通り手玉に取る二人の筋力、とくに握力は圧巻だが、青沼が注目するのは剛ではなく柔、二人の柔軟性だ。
《膝で勢いを殺す》という技術は、あらゆる球技に通底するが、この二人は使える全ての関節でそれを行う。極上のクッションで剛球を受け止め、衝撃を分散・吸収する。あまりに自然で、普通のキャッチボールに見えるほどだ。
自然といえば、二人の表情もそうだ。洋も蓮葉も互いを見つめながら、無言のやりとりを愉しんでいる。この兄妹にとっては正真正銘、ただのキャッチボールなのかもしれない。
「あんたも混ざるかい?」
「遠慮しときますよ。腕は商売道具なんで」
「そりゃあ残念」
直撃すれば頭蓋が砕けるだろう剛球を涼しい顔で受け止めると、洋はおもむろに握りを変えた。
球の穴に三本の指を差し入れ、だらりとぶら下げる。手の位置はズボンポケットの前だ。
青沼は気が付いた。あれは《鮫貝》の構えだ。ここから放つ一撃必殺の《
洋の変化を察してか、蓮葉が大きな目を瞬かせた。
次の瞬間、ボールが発射された。
手首の返しのみで放たれたとは思えないその速度。強烈にスピンしながら膝元に迫るそれを、蓮葉はこともなげに摘み上げる。三つの穴に指を差し入れて。
「見切りますかね、あの回転を」
青沼の嘆息を他所に、蓮葉は動きを止めない。
手首と前腕がしなり、肘の下で円錐を描く。振り回されたボールは蓮葉の前で一周し、速度を落とすことなく投げ返される。まるでボール自らがUターンしたようだ。少なくとも青沼の目にはそう見えた。
同回転、同軌道、同速度。戻された剛球を、洋もまた三本指で把持してみせる。
その顔が綻ぶ理由は、キャッチだけではない。
洋の仕掛けた技比べに、蓮葉が応じてくれたからだ。まだ日の浅い兄にとって、妹と育むコミュニケーションが嬉しくないわけがなかった。
捉えた球の勢いを殺さず、さらに速度を加えながら、洋は縦にボールを振り回し、アンダースローで投げ返した。
軌道は放物線。屋根付近から、蓮葉の頭上へ落ちてくる。
蓮葉は一歩前に進むと、背に回した手でキャッチしてのけた。
背後から現れたボールを見て、青沼は驚いた。
球は三本指で掴まれていたのだ。蓮葉に振り向いた様子はない。高速で回転する剛球、その小さな穴三つを、目視せずに捉えたというのか。
思わず見やった洋の顔にも、驚きの色が浮かぶ。
果たして、洋に蓮葉と同じ真似が出来るのか?
流れるようなアンダースローで、剛球が投げ上げられた。
同条件の返球が、洋の頭上に落ちてくる。
青沼が固唾を飲んで見守る中、洋は神妙な面持ちで手を上げ──普通に、ボールを受け止めた。
絶句する青沼をよそに、洋が一瞥したのは正面のフェンスだ。
「悪かったな、待たせちまってよ」
「……それでは、失礼します」
フェンスの影から現れたのは、一人の若者だった。
まず目を引くのは、その美貌だ。フェンスの隙間から差し込む後光を差し引いてなお余る、
場違いな美形の登場に目を丸くした洋だが、その服装も負けず劣らずだった。
中肉中背に纏うは、白地に桜吹雪の道衣と葡萄色の袴。腰には大小二振りの日本刀。江戸時代から時を越えて来たと言われても納得の出で立ちである。流石にちょんまげではないが、後ろ頭で束ねた長髪もそれっぽい。アイドル時代劇にありがちな着せられ感がないのは、和風な顔立ちの賜物だろう。
「まさか、その格好で歩いてきたんじゃないだろな」
「車を使いましたが、何か?」
狐につままれたような気分になる青沼だが、この若者が何者で、目的が何なのかはすぐに予想できた。
「抜き打ちって話じゃなかったか?」
「盗み見の無作法、お許しを。
お二人の修行を拝見するのも、審査の内と考えました故」
「何だ。いつ襲ってくるか、楽しみにしてたのによ」
若武者は改めて洋と蓮葉を見やり、一礼した。
「お初にお目にかかります。私、
今期《神風天覧試合》の立合人を務めさせていただきます。
それに畔代表の畔 蓮葉殿のご両名でお間違いありませんか?」
「間違いねーよ。そっちが蓮葉だ」
洋の対応は若干ぞんざいだ。顔面偏差値の差が影響しているかもしれない。
「いつでもやれるぜ。ここで始めるかい?」
「ご自宅を汚すには忍びなく」
「汚す気満々ってわけか」
「無礼ついでにもう一つ。人払いを所望いたします」
「蓮葉もか?」
「抜き打ちの程なれば。蓮葉さまには、また改めて」
「わかったよ。蓮葉、ここで待ってろ。絶対ついてくんなよ」
洋の念押しに、蓮葉はへの字口ながら頷いた。
「海辺に人気のない原っぱがある。そこでいいかい?」
「お任せします」
「少し歩くぜ。って、その格好か。まあいいけどよ」
「この格好が何か?」
「……まあ、いいけどよ」
話し声は遠ざかり、ほどなく聞こえなくなった。
「洋くんなら、大丈夫ですよ」
出入り口を目で追う蓮葉に声をかける青沼だが、蓮葉の反応は野生の雌鹿に等しい。一瞥の後には身を翻し、跳ねるようにして奥に引っ込んでしまう。
「うーん。おにいちゃん子ですねえ」
青沼は肩を竦めた。すでに何度も顔を合わせているが、少女が慣れる様子は一向にない。
「あんな子が洋くんと互角以上……ですか」
最後のキャッチボール。青沼には、洋の逃げに思われた。
それだけで判断するのは早計だが、洋が驚くほどのパフォーマンスを蓮葉が見せたことは間違いない。さすがは《畔の水妖》というところか。
根拠はもう一つある。
あれだけ練習熱心な洋が、蓮葉と対戦稽古をするのを見たことがないのだ。ヤクザ に喧嘩を売るほど飢えていた洋にとって、願ってもない修行相手だというのに。
「テストに影響がないといいんですがねえ」
直前にケチがついた恰好だが、正直、不安は感じない。試験で苦戦するようでは《神風》などおぼつかない。これは洋の口癖でもある。
試合を見たい気持ちは無論あるが、リスクが高すぎる。相手は正真正銘の侍である。好奇心で殺されるのは猫だけで十分だ。
「ま、私は私の仕事をやりましょうかね」
青沼が取り出したのは、一枚の古びた写真だった。
背景は海と空。偉丈夫とぽっちゃりした少年が肩を組んでいる。男は笑顔だが、少年はぎこちないそれだ。
洋の兄、魚々島
洋の依頼を受けて一年。捜査の進展は一切なかったが、《神風天覧試合》が始まれば手掛かりがつかめるかもしれない。
魚々島 航は、先代の《神風》だったのだ。
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