【序幕】魚々島 洋、畔 蓮葉を調える 其の二
ウイステの施設は七階建てである。
一階は食料品、二階は衣料。三階は家電と生活用品で、四階はキッズフロアとレストラン。それより上は屋内駐車場になっている。
開店と同時にドアを潜った二人が、最初に向かったのは二階だった。
蓮葉が今着ているのはブレザーの制服だが、これは昨夜、海に潜った際に着ていたものだ。着替えがこれしかないと判明し、慌てて洗濯機と乾燥機に突っ込んだのだが、やり方が悪かったか、目に見えて型崩れしてしまった。
ただでさえ衆目を集める妹を、これ以上悪目立ちさせたくはない。客の少ない開店時に来た理由の一つである。
「おまえ、好きな服とかあるか?」
「好き?」
問い返され、洋ははたと困った。畔の教育が選択の自由を摘むのか、それとも蓮葉が特殊なのか。ともあれ、この場で服を選ぶ役回りは自分らしい。
「オレが選ぶ……つってもなあ」
逆自慢になるが、コーディネートのセンスなど皆無だ。自分の服すら機能性で選ぶくらいである。ましてや女物だ。好ましい女性の服くらい言えるが、人に選ぶとなれば話が違う。第一、自分の好みを妹に押し付ける兄という構図はどうなのか。
「お客様、何かお困りですか?」
悩む気配を察してか、年配の女性店員が近づいてきた。
これ幸いと、洋は店員にコーディネイトを一任することにした。無知な兄妹が考えるよりプロに任せた方が話が早い。もし蓮葉がNGを出しても、趣味がわかるという意味では前進だ。
「本当に私が選んでよろしいんですか?」
「ああ、頼むよ。オレも妹も服のことよくわからなくてさ。
金ならあるから、とりあえず普段着で十着くらい揃えてくれ」
金があるのは嘘ではない。《天覧試合》に備えて、大阪に来るまでの四年間、合法非合法問わず貯めた軍資金だ。蓮葉の面倒を見ながらでも、数年は遊んで暮らせる額である。
最初は目を丸くした店員も、何か事情を察したのか、快く引き受けてくれた。
「妹さんスタイルいいから!何でも似合いますよ!」
サイズを測り、店舗を問わずフロア中を駆け回って服を集めてくる。太っ腹な注文のせいか、店員もいささか興奮気味だ。
「おい、着替えてから出てくんだぞ」
さっそく揃った服を手渡され、怪訝な表情のまま試着室に向かう蓮葉に、あらかじめ念を押しておく。
服を受け取り、着替えて、お披露目する。同じ数だけ「似合う」と言わされる。男性的拷問の洗礼を洋も受けたが、嘘を言わずに済んだのは幸いだった。
店員のセンスもあるのだろうが、確かに何を着せても映える。声をかけるたび、ぎこちなく綻ぶ蓮葉の笑みに、ついつい洋も目じりが下がってしまう。
十着を選び終えたところで、下着も用意すべきことに気が付いた。
さすがにこちらは近づく気になれず、同じ店員に一任してコーナー外で待機する。トラブルに見舞われたのはその直後だった。
試着室に入った蓮葉が、言いつけ通り、着替えてから出てきたのだ。
裸足で兄の前に飛び出した妹の背に、店員の絶叫がこだました。
「さっきのは肝が冷えたぜ。まったく」
衣類の買い出しを済ませた二人は、四階のフードコートに移動し、早めの昼食を取っていた。
店はMの看板で有名なハンバーガーチェーン。洋は四人前、蓮葉は二人前を平らげたところだ。本来の注文は洋に五人前だったが、食べ終えた蓮葉の物欲し気な表情を察して、少し分けてやった。女としては大食いの部類だが、昨夜の闘いぶりを思えば破格の低燃費ではある。洋を見つけるまで、何日も食べていないのかもしれない。
音を立ててストローを吸う蓮葉を見ながら、洋はこの精神的幼女にどう注意するべきか、頭を痛めていた。
シャワーと試着室の件で確信したことがある。
蓮葉には恥じらいが足りない。足りないどころか欠落している。
実のところ、これは畔としては当たり前だ。
畔は恥を
他の畔と蓮葉の違いは、おそらくそこだ。
社会に潜むには常識が必須である。世間的な羞恥は教育課程に含まれたはず。しかし蓮葉はそれを学んだ様子がない。一般人を装う教育が施されていないのだ。
蓮葉のこの件については、いずれ畔の連絡役に問いただしたいところだ。とはいえ回答がどうあれ、現状は改善するわけではない。
洋が躾けるのが一番早い。それは間違いないのだが。
──どこまで言うのが正解なんだこれ。
洋とて魚々島という名の《異邦人》である。五年の経験があるとはいえ、
例えばスカート丈や露出に対して、妹に口を出す兄というのは普通かどうか。
今、蓮葉が着ているのは青を基調にしたワンピースだ。肩は出ているがスカートは膝丈。露出は控えめといっていい。足元はグラディエーターサンダル。初夏を意識したコーディネイトだろう。
これは店員が選んだ一着だが、もし洋が選んだとすれば、妹に好みの服を着せる兄という構図になる。これは、兄妹の普通を逸脱してはいないのか。
──いや、下着や裸は流石にNGだろ。
だが、蓮葉は《畔⦆だ。性を武器にするのは《畔⦆の常套手段だ。例えば昨夜に港で使った《濡れ女》。接吻で相手を操る妖技も、妹と知った後で見れば複雑な気分になるが、それを禁じるのは身勝手ではないか。戦闘と日常は分けて考えるべきか? いやそれは《常在戦場》の理念から遠ざかりはしないか?
世間へのカモフラージュという意味で、恥じらいは間違いなく必要だが、ならば家の中なら許されるのか? 二人きりの時なら?
──やめよう。脳が煮えてきた。
洋は頭を振り、席を立った。
「デザート買ってくるわ。おまえもいるか?」
こくこくと頷く妹に手を上げ、洋はレジに向かう。
実際、妹のいる兄という存在は、そこらの線引きをどうしているのか。経験者の知己がいればいいが、思い当たる相手もいない。本気で青沼に調査依頼すべきかもしれない。
両手にソフトクリームを持って戻った洋は、片方を蓮葉に手渡すと、おもむろに口を開いた。
「なあ蓮葉。
おまえが畔ってのは重々承知の上で言うんだが。
人前でそのなんだ。肌を見せる……いや見せちまいそうな時はだな。
周囲に人目があるか、気をつけてからだな」
ふいに蓮葉の瞳から、大粒の涙がこぼれた。
「うおっ? いや待て、悪かった!
オレは怒ってんじゃねーんだ。ただ陸で生きてく上での心得をだな。
兄として教えておくべきと思って……うん?」
ソフトクリームを舐める少女の勢いだ。
「そっちかよ!」
思わず突っ込み、洋はシートに肥満体を投げ出した。
思えば洋も、陸に上がったばかりの頃は地上の美味に衝撃を受けたものだ。それが肥えた理由でもないが、飯が美味ければ食が進むのは道理だ。海の魚々島に比べれば、山の畔は陸の食事に慣れているものと思っていたが、蓮葉を見るにそうでもないらしい。あるいは少女と氷菓という組み合わせの妙か。
フードコートで涙する美女の姿は瞬く間に衆目を集めるが、洋はすでに悟りの境地だった。もとより美女と野豚のペアの時点で注目は必至なのだ。実害がなければそれでよしだ。
「アイス、好きか?」
「初めて食べた……蓮葉、これ好き」
「言っとくが、専門店のアイスはもっと美味いぞ」
「ほんとに?」
「ほんとだ。今度連れてってやる。ハンカチ買ってからな」
とりあえずまた一つ、蓮葉を知ることが出来た。
今はそれでいい。
妹の笑い泣きを見ながら、洋はそう思うことにした。
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