【番外】魚々島 洋 —潜窟の夜— 其の三
「……撤退や。全員、倒れたやつを起こして逃げろ」
「バイクも忘れんなよ。置いてかれても困る」
デブ男に追撃の意思がないことを感じ取り、男たちに安堵の空気が漂う。真夜中の撤収作業が始まる中、吉田だけは魚々島との対峙を崩さない。
「……何者なんや、おまえ」
「《
「それ」吉田が男の手元を指さす。
「ただのメジャーやないやろ」
「色々改造してるが、基本構造は一緒だぜ?」
太い指が戯れに白線を引き出し、シュルリと戻した。
「オレは《
「
「使わなくても勝てるからさ。それに後の掃除が面倒だ」
傲慢な言い草だが、認めざるを得なかった。
それにしてもこの男。二十人もの暴走族に囲まれ、凶器を振るわれながら、朝のラジオ体操を終えたような清々しさである。逆に襲った方が毒気を抜かれている始末だ。思わず苦笑する。
「……《アゴ打ち》のアゴて、
肉付きのいい顎が、意外そうに縦に動いた。
「へえ、驚いたね。魚好きか?」
「近所に海遊館があるゆうだけや。
《ウミボタル》も《ノコギリ》も魚関係やろ。なんでや?」
「海の生まれだからな」
「漁師か?」
「似てるが違う。魚々島は海に住んでるんだ」
「住むて。住んでどうすんねん」
「鍛えるんだよ。生まれた時から山籠もりならぬ《海籠り》さ。
先祖代々何百年も、サメやクジラを相手にしてな。
日本近海を回遊する知られざる海洋民族。それが《魚々島》だ。
荒唐無稽な話だし、信じなくても別に構わねぇけどな」
「……信じたるわ」
未来から来たサイボーグと言われても信じたかもしれない。それほどまでに、この男の戦闘力は規格外だった。人ならぬ人生を過ごしてきたという話の方が説得力があるほどに。
「その海洋民族が、なんで大阪に来たんや」
「漁師は生きる為に海に出る。魚々島は腕試しに陸に出る」
何故か遠い眼差しで、魚々島はつぶやく。
「おまえも、なかなかのもんだったぜ。あそこで消火器は予想外だった。
無傷で済ませるつもりが、おかげで粉まみれだ。
ちゃんと頭を使ってる辺り才覚がある。腕っぷしより軍略の方面でな」
「嫌味かよ」
「本気だよ。オレもまだまだってことさ。
おまえくらいのが毎晩襲ってくれたら、いい修行になるんだがな」
「はあ?」
吉田はまじまじと男を見た。どうも本気のようだ。
「お礼参りだよ、お礼参り。
オレはこのスタンドに住むつもりだ。夜討ち朝駆けで襲って来い。
人数、手段、道具、何でもありのお得プランだ。
代わりに人死にだけは出ないよう手加減してやる。どうだ?」
ふざけんなよ、と言いかけて止めたのは、どっちがふざけているかわからなくなったからだ。武闘派の族がたった一人に尻尾を巻く。これ以上ふざけた話もない。
「……次は覚悟しとけよ。《鬼デブ》」
「なんだそりゃ。
「せいぜい首洗っとけ。その太ェ首を」
かしら、と呼ぶ声に振り返れば、すでに撤退の準備は済んでいた。爆音と排気ガスの煙が立ち昇る中、最後に問う。
「おまえ、あの記者の知り合いか?」
「記者?」
「違うのかよ……まぁええ。後は好きにせぇや」
それ以上説明することなく、《審判邪眼》は廃スタンドを引き上げていった。
吉田の言葉の謎は、ほどなく判明した。
取り散らかされた廃屋の奥。元は倉庫であろう一室から、椅子に縛られた中年男が見つかったのだ。
「いやあ助かった。どうなることかと思いました」
猿轡を解かれた男は、口ひげを丸めて破顔した。
青沼と名乗る。職業はフリーライター。アングラ系が専門で、時折その手の雑誌に記事を載せているという。
チーマー界隈で頭角を現す《審判邪眼》を取材していたところを、廃スタンドに拉致されたらしい。黒縁眼鏡に人好きのする顔だが、見た目通りの単純な人物でもなさそうだった。
「トトジマ? もしかして、あの魚々島ですか?」
驚いたのは、青沼が魚々島の名を知っていたことだ。
「マスコミ関係じゃ、あんたが初めてだよ」
「はははは。とはいえ、本物に会うのはぼくも初めてです。
《道々の
「オレらは《上ナシ》だ。国籍もない。有名にされちゃ困るぜ」
「わかってますよ。詮索は個人の趣味に留めます」
口元に指を立てる青沼を、洋は値踏みするように見つめた。
「青沼さん。あんた、裏の情報は拾えるかい?」
「情報屋の真似事くらいなら出来ますよ。
これでもアングラ一筋で三十年やってるんで」
「オレは昨日、大阪に来たばかりだ。こっちの事情に疎いから情報源が欲しい。
それに調べてもらいたいこともある」
「ふぅむ。内容と報酬次第ですね。危険手当はあります?」
「報酬をケチる気はないさ。危険の方はオレが引き受ける」
「なるほど。悪くない話ですね」
縛られていた椅子に座り直し、青沼が口ひげを掻いた。
「その調べて欲しいこととは、何ですか?」
「
魚々島 洋が答える。色のない、厳かな声で。
「──兄貴を殺した奴だ」
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