【番外】魚々島 洋 —潜窟の夜—
一条の白線が、闇を貫いた。
眉間をしたたかに打ち抜かれた男が、声もなく崩れ落ちる。
白目を剥いた男の体が、斧を入れられた幹のようにゆっくりと傾ぐ。その傍らで、シュルシュルと白線が宙を滑る。
それは、先端に鉤状の金具を備えた帯状の器具だった。
指ほどの幅の白い帯は極薄で、金具は直角。軽快な音を奏でながら離れた手中へ巻き戻るさまは、誰もが知るだろうあの文房具を想起させる。広くはメジャー、正確にはコンベックスの名を持つ、掌サイズの測定器だ。
──カシュリ。
掌に握られた本体に先端の金具が戻る。
同時に、荒くれの顔面が床に着地した。コンクリートを叩く金属音。首筋を飾る禍々しいアクセサリが、主人に代わり緊急警報を鳴らす。
弾くように灯った照明に闇が駆逐され、取り残される影一つ。
そこはガソリンスタンドだった。個人経営なのか、さして広くはない。四角に張り出した屋根、中央に太い円柱、給油機は二つ。ともに錆と埃が目立ち、長く人の手が触れた気配がない。何より三方を囲う工事用フェンスが、この店の状況を物語る。廃業後に放置された建物。ガソリンスタンドの廃墟であれば納得がいく。
一方で、納得とは無縁の部分もある。例えば敷地内に並ぶ二十台近いバイク。どれも旧車で空力度外視の悪趣味な装飾が施されている。いわゆる族車だ。
スタンドのガラス扉から、強面の男たちがぞろぞろと現れる。数はほぼバイクに等しい。どの顔も若いが、手にした凶器はどれも必要以上に本格的だ。
凶悪な集団に対峙するのは、床の影が円になるほど肥えた男だった。
年齢は二十歳ほど、背丈は165センチほど。年は荒くれたちと大差ないが、背は見る限り一番低い。
「よう。大勢で出迎え、ごくろうさん」
群れなす強面を前に、呑気な第一声が響いた。両手はズボンポケットの前。丸顔には満面の笑み。畏怖も警戒も感じ取れない。
「オレの名は
ワケありの格安物件て話だったが、なるほど、
面倒な仕事を後回しにするのは、どこのケーサツも同じだな」
複数の視線が倒れたままの仲間に、次いで魚々島を名乗った男に向かう。群れがゆっくりと広がり、男を中心に輪を描いた。手慣れた動きだ。
輪から一歩進んだ金髪の若者が、煙草をふかし、問う。
「そんで? おまえ、何しに来たんや」
「決まってるだろ。掃除だよ」
周囲に充満する怒気に臆した風もなく、丸顔が即答した。
「ネズミを片付けちまえば優良物件だ。
全員叩き出してやっから、遠慮なくかかって来な。えーと……」
対峙する胸の刺繍に目を止め、冷笑する。
「……《
膨れ上がった怒気の風船に、その一言が針を刺した。
退がる金髪──ヘッドの吉田 文殊に代わって進み出たのは身長2メートル弱の巨漢、伊東 幹人だ。圧倒的な高みから魚々島を見下ろし、雄叫びもろとも鉄パイプを振り下ろす。さながら海辺の西瓜割り。真っ赤に爆ぜるはどちらも同じだ。
その手を、電流が駆け上った。
確かに男を捉えたと見たパイプの先が、コンクリートの床を叩いたのだ。容赦ない一撃は容赦ない反動に変わり、麻痺した指からパイプを奪い取った。
まさか、と伊東は思う。
この距離、この状況。この西瓜同然の
まさか避けられた、とは思い至らず、男は崩れ落ちた。
下顎を打ち抜いた白線が、蛇舌の如くシュルリと戻る。
魚々島の回避を見た者は皆無。反撃を見た者はほぼ皆無。
伊東の馬鹿がパイプを空振り、何故か倒れた──周囲にはそう見えた。
「《アゴ打ち》って技なんだが、こいつの顎の話じゃない。
言われても意味わからんだろうがな」
故に魚々島の説明も、沸騰する怒気への差し水にさえならない。
伊東の隣りにいた染谷が、無言でバールを振りかぶる。横殴りの凶器が唸りを上げ、西瓜の側頭部に食い込む。食い込んだはずが、手応えはない。
固唾を飲んだのは染谷の対面、魚々島の背後に陣取っていた
一人を集団で囲むリンチはチームの常套手段だ。吹き上がった馬鹿はたいてい腕が立つ。不良には
特に
どんな腕自慢でも凶器は怖い。囲みを突破しなければジリ貧だが、立ち向かうには覚悟が必要だ。故に間合いを取り、隙を伺い、覚悟を決めてから勝負に出る。
だが集団はそれを許さない。引けば背中を、待てば多方向から襲いかかる。覚悟を決める暇すら与えず、嵐のように呑み込んでしまう。互いに素手なら反撃の目も残るが、凶器で囲めば絶対だ。負けはありえない。
それが厚孝の信仰だった──今宵、この時までは。
見よ。横振りのバールが直撃する刹那、抜けるように頭を下げるさまを。暖簾を潜るような気安さで染谷の懐に入る動きを。名状しがたい感情に総毛立つ自分を。
虚を突かれたのは、染谷の横に立つ者も同じだ。
包囲された者が挑む際には必ず隙が伴う。挑まれた者以外がそこを突けばこそ包囲は盤石となる。
しかるにデブ男は今、染谷に密着中だ。バールの空振りで前方に泳いだ上半身が、我知らず、
次の瞬間、染谷が横殴りに吹っ飛んだ。
おそらくは肘打ち──倒れ伏した伊東を越え、背中から集団に突っ込む。ブレイクショットよろしく散らされた若者たちは、もはや包囲の呈を成してはいなかった。同時に逆側にいた時枝も膝をつく。人知れず仕事を終えた白線がシュルリと戻る。
「これで五人。あと十五人ってとこか」
魚々島を除く全員が、ふいに夜気を覚えた。桜の咲く季節だが、夜はまだ寒い。先刻まで、そうは思わなかったはずなのに。
──このデブ、人間じゃねえ。
ようやく危機感を共有した《審判邪眼》だが、統率の役には立たなかった。憤激する者と、恐怖にすくむ者。この時点で戦力は二分されたまま、戦いは乱戦に突入した。
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