【序幕】魚々島 洋 —海と山と— 其の二
《神風》には四つの意味がある。
神道の神風。特攻隊の神風。駆逐艦の神風。
そして四つ目は、《禁裏》の特務部隊──《神風》。
元寇の故事に倣い、現存する道々の輩より選ばれた強者が、天皇直属で護国の任務に就く。活動は非合法だが、そもそも彼らは法の外の住人だ。選ばれた一族には種々の恩恵が与えられるが、何よりの報酬は名誉、すなわち闇社会のロイヤルブランドという勲章である。
その選抜が行われるのが《神風天覧試合》だ。
全国からスカウトされた輩の代表が、武をもって《神風》の座を争う。魚々島と畔は常連であり、初代から続く栄誉を譲り渡したことはほとんどない。
「一年待たされた、洋くんの本番ですね」
「陸に上がってからは五年だ。それでもギリ間に合ったってとこだが……」
洋の浮かない表情に気づき、青沼は手を止めた。
「魚々島と畔は《天覧試合》で共同戦線を張る。
元寇から続く慣わしだ。それはいい。
「他に何か問題が?」
「あるだろ。喫緊の大問題が」
洋はトドのようにカウンターに突っ伏し、呻いた。
「いきなり現れた妹と、同居生活開始だぞ?
どうすりゃいいんだ、妹なんて。
陸で暮らすために女の扱いは覚えたが、妹なんざ完全に想定外だ」
「はははぁ、なるほど」
意外な洋の狼狽ぶりに、青沼は思わず相好を崩す。
「笑ってんじゃねーよクソ。情報ねーのか情報屋」
「生憎ですが、お取り扱いがございません」
「あんたはどうなんだ。兄弟姉妹は?」
「ぼくは末っ子ですね。兄と姉がいます」
「参考にならねえ」
「いやいや、自分がされた対応なら答えられますよ」
「ふうん。で、どんな感じだった?」
「仲はうーん……まあ、そこそこですかね」
「なんだよそれ」
「前言撤回します。兄弟仲を語るのは難しい」
「参考にならねえ」
うんざりした顔で洋は扉を一瞥する。シャワーを終えた蓮葉がいつ出てくるか、わかったものではない。
「まあ、最初はぎくしゃくして当然でしょう。
家族の関係なんて、長い時間をかけて育まれるものだと思いますよ」
「正論だけどな。オレが知りたいのは、最初の一手なんだよ。
最善かどうかで、今後の関係も変わって来るだろーが」
「ここに案内するまでは、どうしたんです?」
「ろくに話してねえ。ランニングで流してきた」
「とりあえず、一人の女性として扱ってみては?」
「そりゃ他人行儀って奴じゃねーか?」
「仕方ないでしょう。初対面なんだから」
「なんて言えばいいんだろな」
洋は頭を抱えた。しどろもどろな自分に腹が立つ。
港では普通に話せた。ただの畔だと思ったからだ。美女でも凄腕でも化け物でも、気後れする洋ではない。だが「お兄ちゃん」と呼ばれてからは。縋るようなあの目を見てからは──
その時、奥の扉が唐突に開いた。
二人がスツールごとのけ反ったのも無理はない。飛び込んできたのは、純白の裸身だった。大理石の肌に張り付くのは黒髪だけ。下着の一枚も身に着けていない。
ヒュ! 弾指を待たず伸びた白線が、青沼の視線を塞ぎ、静止する。
「──見たか?」
「申し訳ありません。あ、コメントは差し控えます」
「くっそ、油断してた……
おい、なんで裸なんだよ! 服着ろ服!」
後半の声は蓮葉に投げつける。無論、振り返らずにだ。
「……服、ない」
計らずも披露された完璧な女体美にそぐわぬ幼い声音に、洋は安堵を覚えた。そう言えばまだ、年齢も聞いていない。
「デカいバッグ持ってたろうが」
「着替え、忘れた」
「……冗談だろ、おい」
思わずつぶやいたのには、理由がある。
洋の持つ畔のイメージは《汎用女型生体兵器》だ。魚々島が喧嘩バカの頂点なら、畔は生体改造されたエージェント。戦闘以外にも多様な教育を施され、畔の規律を絶対厳守する。ケアレスミスなど、電波時計が狂うよりありえない。
だが
「冗談?」
「ああくそ。オレの服貸してやる。ちょっと待ってろ……
違う、ここでじゃない。洗面所に戻れ!」
ようやく引っ込んだ蓮葉の背中に、洋のため息が広がった。
「ラブコメでありますよね、こういう展開」
「だから、妹だってーの」
「しっかりお兄ちゃんしてると思いますがねえ」
「嫌味かよ」
「率直な感想ですよ。
ただ、確かに奇妙ですね。見た目は立派ですが、中身は幼いというか。
それに態度も……本当に初対面です?」
「こんな美人、見たら忘れるわけねーだろ」
「ふうむ。気にしすぎですかね」
「オレも色々気になるけどな。おっと着替えだ」
洋くん、と青沼が呼び止める。
「兄に必要なのは、自分が兄という自覚だけですよ」
「……あるじゃねーか、情報」
「今、思い出したんですよ」
青沼は片目を閉じ、立ち上がる。
洋とのつきあいは、もう一年にもなるのだ。
「自覚ならある……つもりだがな」
「それなら大丈夫。後はお互いを知るだけです」
「知るだけ、ねえ」
「焦らずに、ですよ。
コーヒーご馳走様でした。あとは若いお二人で」
「だから、妹だっての」
肩を竦め部屋から消える洋を笑顔で見送ると、青沼は廃スタンドを後にした。
まだ湯気の漂うシャワールーム。ガラス戸の外には細長いスポーツバッグと、口の開いた学生カバンが置かれている。
少女の手にあるのは一枚の写真だ。白黒だが、状況ははっきり見て取れる。背景は海と空。偉丈夫とぽっちゃりした少年が肩を組んでいる。男は笑顔だが、少年はぎこちないそれだ。
写真を裸の胸に押し当て、蓮葉は祈るように目を閉じた。
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