【序幕】魚々島 洋 —海と山と—
元寇。
島国日本における、数少ない本土侵略の歴史である。
1274年の文永の役。1281年の弘安の役。
当時、中国大陸を支配していた元ことモンゴル帝国は、二度に渡って大軍を送り込み、北条時宗率いる鎌倉幕府がこれを迎え撃った。大陸の異質な戦術に苦戦するも、時ならぬ暴風雨が洋上の元軍を襲い、二度の勝利をもたらす。元朝の野望を挫いたこの奇跡は後に《神風》と呼ばれ、護国の象徴とされる──
広く知られる元寇の物語はこのようなものだ。
だが最新の研究では、この説はもはや主流ではない。
当時の記録にあたれば、暴風が勝敗を決したという記述は見当たらない。大陸側の資料ですらそうなのだ。特に文永の役は十一月と判明している。台風とは無縁の季節だ。
現在の研究では、文永の役における神風とは寒冷前線に過ぎず、鎌倉武士の奮闘あらばこそ元軍を敗走せしめた、と考えられている。それが寺社による加持祈祷の成果として喧伝され、広められたとも。
他方で、鎌倉幕府が元寇の後、寺社に三度の徳政令を発して恩義に報いたという記録もある。もし神秘的な現象が皆無であれば、このような対応は
果たして《神風》は存在したのか、しないのか?
歴史の闇は黙して語らぬままだ。
「本物の妹って、どういうことですか?」
廃業して久しいガソリンスタンドのラウンジルーム。
片付いてはいるが飾り気のない空間で、カウンターのスツールに腰かけた青沼は怪訝そうに訊いた。丸眼鏡に口ひげの四十男。くたびれたモッズコートの中身は、腕力とは無縁の痩身だ。
首肯した男は、青沼と足して二で割れば平均値と思われる肉付きのよさである。サスペンダーで吊り下げたジャージ姿。二十代前半と若いが、背は拳一つ分、青沼より低い。この廃スタンドの主、
洋と青沼のつきあいは、もう一年にもなる。
ここに引っ越した日、洋が一掃した暴走族に拉致されていたのが青沼だった。アングラライターを名乗り、識る者の限られる魚々島の名に食いついた青沼を洋は評価し、情報屋として雇ったのだ。
以来、二人の契約はトラブルなく続いている。一番の依頼こそ果たされぬままだが、それが困難なのは洋も承知の上だ。
青沼は週の半分ほどここを訪れ、調査報告や裏社会のゴシップを落としていく。寝泊まりすることも多く、半ば居候のような関係になっている。
「今、
「血縁上、ですか。洋くんの兄弟は、例のお兄さんだけだと思ってましたが」
「俺だってそう思ってたさ。さっきまではな」
カウンター越しに、洋が腕組みした。
「生き別れの妹ってことですか? それが何故、畔に?」
「あー、どっから説明すりゃいいかな」
洋は窓の外に視線を移す。すでに空は白み、鳥のさえずりが聞こえてくる。この一帯は工場地帯だ。昼と夜の騒がしさは砂漠の気温ほどにも違う。話は手短に済ませたいところだ。
「魚々島と畔は縁が深いんだよ。鎌倉時代から続いてる。
きっかけは元寇だ。知ってるよな、元寇」
「知ってますよ。ゆとり世代じゃあるまいし」
「前にも言ったが、魚々島ってのは船上で生活する道々の
給湯室で湯を沸かしながら、洋はコーヒーサーバーを用意する。
「日本列島、津々浦々を回遊して、陸には必要最低限しか接触しない。
漁じゃなく力のために海籠りしてきた筋金入りの戦闘民族、それが魚々島だ。
《海坊主》なんてあだ名がついてた時代もある」
「ふむふむ」
「対する畔は、山奥の水辺に棲む輩だ。
山住民族だと
川や沼にまつわる神話や怪談は、大半が畔由来らしい。ヌシとか河童とかな。
そんな人外の
「人外って、どういう意味ですか。
人ならぬ妖怪や魔物が、本当に存在すると?」
「うーん、そこはオレも半信半疑なんだがな。
ただ、《人間以外》は見たことないが、《人間以上》は何度かある。
畔が全員そうだからな。《半妖》程度はゴロゴロいる。
思うに、人間離れした能力の持ち主が迫害され、行きつく場所だったんだろ。
それが歴史の陰でひたすら《種の改良》を続け、現在に至ると」
「なるほど。面白い分析ですねえ」
「ま、畔のことは《歴史のある
覆面の戦闘員じゃなくて、
「確か、畔は女性しかいないんですよね?」
「そーゆーこと」
洋はサーバーに豆を敷き、ポットの口を回しながら、湯を注ぐ。
芳醇な香りが狭いラウンジを満たし、青沼は思わず鼻を鳴らす。
「さて、魚々島と畔は海と山。接点なんぞどこにもない。
それが交わったのが元寇の戦場だった」
「ふむふむ。メモ取って構いません?」
「いいけど記事にはすんなよ。畔に消されるのがオチだ」
「承知してますよ。あくまで私的好奇心ってことで」
「よろしい。さて、よくある元寇の定説ってのは、こうだ。
鎌倉幕府は元軍に劣勢となるも、奇跡的に二度の神風が吹き、勝利する。
だが少なくとも、オレらに伝わる歴史はそうじゃない。
神風なんざ、ちくとも吹いちゃいなかった。
元軍を潰したのは、海上の船を夜襲した魚々島と畔だったのさ。
証拠もねえ、一族の口伝だけどな」
「ふむふむ。しかしなぜ海と山が、いきなり合同作戦を?」
「たまたまらしい。偶然のなりゆきってやつだ。
道々の輩ってのは《上ナシ》がルールだ。
統治者として崇めるのは時の天皇陛下だけ。武士や政府なんざ認めねえ。
畔が動いたのは、天皇家の勅令を受けたかららしい。
ルートは不明だが、妖怪てのは案外、神社や貴族と縁があるからな。
化け物の手でも借りたいって状況だったんだろうよ」
ようやく、コーヒーカップが運ばれてきた。
青沼はメモする手を止めず、香りを楽しむ。
「もちろん魚々島だって《上ナシ》だ。
勅令があれば動いたと思うが、流石の勅令も海の上じゃ届かない。
戦いになったのは、たまたま鉢合わせたってだけだ。
大昔から雑なんだよ、魚々島は」
「ちょっと待ってください。相手は元の船団ですよね?
そんな大軍に、いきなり勝負を挑むんですか?」
「シャチの群れを追いかける連中だぜ。むしろ大喜びだよ」
平然と言ってのけると、洋はコーヒーを啜った。
「さて、魚々島と畔は鬼神の働きで、元軍を敗走に追い込んだ。
歴史書をあたると、あちらさんにも諸事情あったらしいが、まあ詳細は省く。
歴史的な勝利だったが、歴史に記されることはなかった。
幕府、寺社、道々の輩、全員に都合が悪いんだから当然だ。
影働きは《神風》の手柄になり、寺社がかっさらった。
だが、魚々島と畔の武名は時の天皇まで届き、《神風》の称号を拝領した」
「もう一つの《神風》というところですね」
「こっちが元祖なんだよ。少なくともオレらの歴史じゃな」
メモを取る手を止め、青沼が顔を上げた。
「魚々島と畔の関係は、そこから始まったんですね」
「ああ。この縁を機に、海と山の化け物は交流を始めた。
縄張りも手段も異なるが、両者の目的は同じだった」
「強さ、ですね」
「個の強さの追求、な。軍隊を目指すわけじゃない」
洋は右手を広げ、握りしめてみせる。
「その為に魚々島は海に挑み、畔は血をいじり続けた。
俗世を捨て、道徳や倫理に縛られない点も同じだ。
何より互いの強さを認めた結果、両者は交わることにした」
「交わる……試合とかですか?」
「文字通りの意味さ。
魚々島は男系民族で、畔は女系なんだぜ。
お互いを認めりゃ、やるこた一つだ。
定期的に交流の場を設けて、子作りに励むんだ。
試合もやるが、それも
「えらく脳筋な婚活ですねえ」
「理には適ってるぜ? 血統を高めながら、お互いに過疎化を防げる。
それに畔は美人が多い。若い奴らは修行に身が入る。いいこと尽くめだ」
洋には、自分も若いことを忘れがちなところがあると、青沼は思う。
「なるほど。話が見えてきましたよ」
「そう。生まれた子供は、女なら畔になり、男なら魚々島になるんだ。
つまり蓮葉の片親、もしかすりゃ両親はオレと同じなんだよ。
詳しいところは聞いてねえけどな」
「顔は似てませんでしたけどねえ」
失礼、と付け加えながら、青沼は少し前に引き合わされた少女の美貌を思い出した。彼女は今、シャワーを借りているところだ。
「そういうシステムなら、他にも姉妹がいそうなものですね」
「そうだよなあ。でも正直、考えもしなかったよ。
子作りといっても夫婦になるわけじゃない。
下品な言い方すりゃ、魚々島は種をまくだけだ。
だから子供が生まれても、オレらには報されない。
渡されるのは、物心ついた男子だけ。そこでやっと誰の子か聞ける。
そういう風習で生きて来たから、今の今まで、疑問すら浮かばなかった。
血縁を頼む畔なんて前代未聞だ。少なくともオレは聞いたことがねえ」
「それは……確かに変ですね」
洋がクッキーの缶を取り出し、むさぼり始める。図体に相応しい食べっぷりだ。
青沼は続けた。
「畔が嘘をついている可能性は?」
「意味あるかそれ? どのみち(バリ)は(ボリボリ)よて」
「食べるか説明するか、どちらかにしてください」
「悪い悪い……どのみち畔は来る予定だったんだ。
連絡なかったんで、最初は面食らったけどな」
「そちらは間違いないんですか?」
「確認したよ。間違いない」
コーヒーを飲み干し、洋は目を
「オレと同じ、《神風天覧試合》の候補者だ」
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