第311話 28-6 動物病院の開業

 2026年10月10日土曜日、今日はYUNA動物病院開業の日です。

 普通のお店が開店する時に店先に飾られるような花輪は有りません。


 建設会社、製薬会社、医療機器メーカーなど色々と関係先から申し入れはあったのですけれど、全てお断りしました。

 新たな門出ではありますが虚飾は不要なのです。


 不断の努力の積み重ねで十周年が迎えられたら、そのときには改めて祝うことにしましょう。

 朝9時半からの診察開始なのですが、9時過ぎの待合室にはけっこうなお客さんがいました。


 60畳ほどの待合室はかなりの広さがあると思うのですけれど、2人掛けの座席の両サイドに小ぶりのケージやケージの置台を用意した特注の座席30席がほぼ満席状態なのです。

 ここに来られた皆さんは、それぞれ移動用ゲージに入れたペットを連れています。


 受付でもらったナンバーカードを胸につけているので順番がわかりますね。

 優奈は診察室のモニターで待合室の様子を確認しながら、「ほうっ」とため息をつきました。


 入り口のセンサーで引っかかった重篤な患畜はいませんが、気になる症状のペットが二匹いました。

 緊急を要する場合は優奈が診察順位を変えますが、今の段階ではそこまでの緊急性は無いようです。


 優奈はそばに控えている林さんと北条さんに伝えました。


「では、本日の診療を始めましょう。」


 二人は揃って「はい。」と言ってキビキビと動き出しました。

 記念すべき患畜第一号は、1歳になったばかりのダックスフントのベティさん、ちょっと落ち着きのない子でしたけれど、優奈がベティさんの頭に触れてテレパスで話しかけると直ぐに落ち着きました。


 病院に来た理由は下痢なのですが、どうやら飼い主のやんちゃなお子さんが食べさせたササミのソテーが原因の様です。

 ベティちゃんには改めて食べてはいけないモノを教えておきました。


 飼い主にも勿論厳重注意です。

 動物の場合、普通は本能で食べてはいけないモノを避けるのですけれど、飼い主を信頼しているペットによっては稀に起こり得ることなのです。


 秘密裏にベティちゃんの体液のクリーニング(浄化)を行い、飼い主に見える様に手早く胃洗浄を行い、整腸剤を与えたらすっかり元気になりました。

 初見から処置までが早いので随分と飼い主さんに驚かれたようです。


 因みに飼い主さんは灘区に住む優奈の隠れファンのようでした。

 自宅近くに行きつけの動物病院はあったようなのですが、わざわざ自家用車でポートアイランドまで出向いて来たようです。


 そうして二番目が気になっていた患畜の一匹なのです。

 持ち込まれたのは体長50センチほどのグリーンイグアナでした。


 このイグアナ君も、食べてはいけないモノを飲み込んでしまったようです。

 直ぐにYUNA式3Dスキャナーにかけて、飼い主にわかるように画面に表示させました。


 YUNA式3Dスキャナーの良いところは、検体が動いても構わないことなんです。

 普通のCTスキャナーやMRIの場合は、検体が動いては困るので一般に固定するか動かないように患者さんに言うのですが、患畜の場合は中々に言うことなど聞いてはくれませんので固縛してしまうかあるいは麻酔を掛けてしまいます。


 YUNA動物病院でも麻酔ガスを送り込める大小のケージを用意していて、必要に応じて患畜に麻酔を掛けることが可能です。

 グリーンイグアナも手術が必要でしたのでスキャナー検査の後でケージごとパックの上で麻酔を掛けています。

イグアナ君のお腹に入っていたのは、ナイロン製のネットなんです。


 飼い主の気づかないうちに餌の入っていた袋ごと飲み込んだようで、餌は消化されていましたが、ネットは消化されずに残っており、これが胃の幽門を閉塞しているのです。

 放置すれば食物残渣が詰まってしまって死に至ります。


 飼い主に了解を得て、麻酔を掛けた上で腹部切開の上、内部を閉塞していたネットを除去しました。

 縫合した後は慎重を期して1日だけ入院してもらうことになりました。


 ペットの病気などの場合、その多くは飼い主が異常に気づきます。

 普段と異なる行動を取った時に飼い主がおかしいと気づき、獣医に相談しに来るのです。


 目で見てわかるような体型の異常では無く、異常な動きがあったり、動きが全くなかったりすることで飼い主が何となく気づくモノなんです。

 飼い主がそうしたことに鈍感である場合は、手遅れになる場合もあり得ます。


 イグアナ君の措置は初見から30分で終了しています。

 腹部の切開手術なんですが、血液を含む体液の損耗はほとんどありません。


 優奈の手術が速い所為もありますが、切断面に特殊な処理を施して体液流出を防いでいるからです。

 このために術後の回復も速いのです。


 もう一件の気になる患畜は、12匹目の患畜になったチンチラです。

 毛の密度が高いので絹のようなモフモフ感が味わえる動物ですが、持ち込まれたチンチラの色はシナモンと呼ばれるベージュに近い灰色です。


 チンチラは、齧歯目チンチラ科チンチラ属に分類されていて、リス、ネズミ、ヤマアラシなどの遠い親戚ですね。

 エルちゃんと名付けられたこのチンチラは、どうやらダニを媒介とした疥癬症に罹患しているようです。


 エルちゃんに聞いてみると、一ヶ月ほど前にハクビシンが家に侵入してきたことがあるようで、そのハクビシンが持ち込んだダニを媒介として感染した模様です。

 実は家人も疥癬症に感染している可能性があるのですが、幸い飼い主は大丈夫のようですけれど、他にも家族が居るようなので感染の可能性を伝えると共に、家の中の消毒を徹底するよう飼い主にはお願いしました。


 飼い主にも家に野生の動物が入ったりしませんでしたかと尋ねると、そういえばイタチのような黒い細長い動物を見かけたことがあると答えてくれました。


「もしかすると野生のハクビシンかも知れませんが、特にハクビシンの場合は病原菌の温床になっている場合が多いので注意をしてください。

 エルちゃんもその獣から皮膚の感染症をもらってしまったかも知れません。

 まず普段使っているケージの消毒を徹底してください。

 一応当院で持ち込みケージの消毒を実施しますが、継続して、家で使われているケージなどの消毒に留意してください。

 エルちゃんの綺麗な毛並みが維持できなくなります。」


 優奈がそう言って注意すると、飼い主の奥さんは縦にブンブンと頭を振って頷いてくれました。

 治療の方はダニ駆除のための薬液スプレーと罹患した皮膚に抗生物質の軟膏をすり込むことで終わりです。


 お薬も薬局で購入できるモノです。

 生憎とYUNA動物病院の近くには薬局はないのですが、徒歩10分の圏内に3つほど薬局がありますし、飼い主の住居の近くの薬局でも構いません。


 処方箋を出して、同時に薬の用法もプリントアウトして渡すようにしています。

 その都度動物病院に来てもらってもいいのですが、経費負担を抑えるには飼い主が手間を掛けることが一番いいようです。


 開業当日のお客様は締めて42匹で、お昼の休憩を挟み夕刻5時半過ぎまで掛かって診療を終えました。

 いずれにせよ、YUNA動物病院はとても良いスタートを切れたようです。


 ◇◇◇◇


 10月24日土曜日は、兵庫県獣医師会の月例理事会があったようです。

 優奈も一応会員ではありますが、協会の役員ではありませんから招請もされていません。


 特段の懸案事項や議題があったわけではなく、理事会メンバーの情報交換が主体のようです。

 ですが優奈の件は話題に上りました。


 自前の病院を持ったのと住所が確定したので、神戸市獣医師会、兵庫県獣医師会、日本獣医師会には開業情報を含めそれぞれ必要事項を通報しておいたのです。

 神戸市内の三宮、元町、北野界隈には結構動物病院がありますけれど、ポートアイランドにはこれまで動物病院はなかったことと建物の規模の大きさで、理事会関係者の話題になったようです。


 神戸市内の主要な動物病院は、概ね間口二間から三軒程度の施設が多く、基本的にビルであっても一階部分のみを利用しているケースがほとんどなのです。

 そんな中で建坪だけでも500坪に近い大きな病院施設は、ある意味弱小小売店が並ぶ界隈の近隣に大手スーパーのモールが突然出店するほどの脅威なのです。


 大きさだけで言うならば関東一円に多い獣医大学の附属病院に匹敵する規模なのですから無理もありません。

 尤も現状で対応できるのは優奈と二人の看護師だけですので、対応力に問題があってさほどの脅威にはならないはずなのですけれど、見栄えや評判に左右される点では、この業界も同じですから同業者の進出には警戒感を持たれることになるようです。


 理事会メンバーのほとんどが『ポッと出の金満新人獣医がとんでもない動物病院を作った。』という認識だったので、どちらかというと優奈に対する罵詈雑言に近い類の感想が大勢を占めていたのですが、そんな中で佐々木副会長が苦言を呈しました。


「話題になっている加山さんについては、私もお目にかかったことはないが、一時ミラクル・ユーナの名でアスリートとして、また音楽家として名を馳せた人物ですな。

 この3月に日本❆医生命科学大学を極めて優秀な成績で卒業し、獣医師免許を取得した人物です。

 臨床獣医としては、確かに成り立ての新人ではあるが、・・・・。

 先般、東京の学会で日本❆医生命科学大学の学長と隣り合わせになり、彼女の話を漏れ聞いたのだが、在学中の成績は定期的な試験で常に満点をとっていたそうで、その能力は極めて高く付属動物病院のベテラン獣医もでさえも教えを請うほどだそうです。

 特に2023年から2024年にかけてオーストリアでの1年間の留学中に提出された彼女の論文は、世界中の獣医学会から絶賛を浴びており、同時に彼女が開発したワクチン等の医薬品は製品化されてYUNAの名が冠されていることもあるようです。

 また同じく斬新なアイデアで作り上げられた医療検査機器等は商品化されつつありますが、動物だけではなく人間に対しても使用可能な性能を有している上に、国内の名だたる医療精機でも簡単には真似できず、中核部分は完全にブラックボックス化しているために、生産台数が限定されているようです。

 尤も、その性能は極めて高く中央学会でのお墨付きです。

 恐らくは件の動物病院にはそうした最新鋭の機器が設置されているのじゃないかと思います。

 機器のうちのいくつかは私の病院でも導入したいと考えているのだが生憎と受注生産方式の順番待ちで納品は早いものでも1年ほど先になるらしい。

 いずれにしろ、単なる獣医大学の卒業生と甘く見ていると足元を掬われることにもなりかねないので注意される方が宜しいでしょう。

 彼女の論文は数多の学会にも提供されており、閲覧は可能なはずですから一度ご覧になると良い。

 彼女の凄さが少しはわかるはずです。

 まぁ、学生時代にでさえ、ワクチン等の製造利益から恐らくは十億円を超える収入もあったでしょうから、あれほどの病院も簡単に建てられたのでしょう。

 これらの収入源は今後も確保されているようなので、少なくとも彼女の場合は、資金面で経営難に陥ることはないはずです。

 彼女は、当獣医師会にとっても金の卵となる人物です。

 彼女については、不用意に陰口などは叩かないようご注意申し上げておきます。」


 その言葉をきっかけにすっかり静まりかえる会議室でした。

 どうやら事前に優奈の情報を知っていたのは佐々木副会長だけだったようですが、この情報開陳の所為せいでちょっとだけ同業者にも警戒され始めた優奈のようです。

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