第205話 21-10 ラコルプログ菌対策(1)
優奈の秘密基地での実験は続いていました。
既に、レジーナ教授に言われたレポートは完成し、これまで判明している情報については要領よくまとめているので、市役所又は保健省などの公的機関に知らしむべき事項には、ほぼ漏れがないと思われます。
問題は対策が何も無いということなのです。
仮に、ディンゴが保菌体であるとすれば、HIVのように生殖活動によってまん延する可能性もあるのです。
大学で説明した際は、雌の場合に増える可能性があると言いましたが、体液接触は性行為によっても起き得ることを思い出したのです。
死んでいればいいけれど、雌雄に関わらず、保菌体のディンゴが生きていれば間違いなく増殖する恐れが高いのです。
放置すればオーストラリア中にまん延することになりかねません。
これは早急に何とかせざるを得ないでしょう。
一応、月曜日にはそのレポートを提出するのですけれど、できれば今一つ対策の指針になるものを見つけておきたかった優奈でした。
優奈は、仮想空間の中で様々な実験を繰り返しました。
仮想空間であれば、何が起きても仮想空間を放棄するだけで菌は消滅させられるのです。
この方法は、異常増殖や、飛沫によって皮膚から浸透するような突然変異を惹起される場合の防護にも有効であり、セキュリティレベルから言えば、そうした指定のない「V」若しくは「VI」に相当するであろう堅固な砦の中で実験を繰り返したのでした。
優奈は、顕微鏡を使わずしても菌を見分けることができます。
従って、化学物質、合成物質、有機物、もしくは酵素がどのように作用し、菌がどのように反応するかを逐一確認できたのです。
それらの実験を複数の仮想空間で一度に行うことによって、より効率を高めたのでした。
オルニチンが菌の活動を阻害することを見つけたのは、そんな実験の中の一つでした。
あくまで阻害であって、菌そのものを殺すまでには至っていません。
しかしながら、変質したラコルプログ菌の活動を一気に百分の一程度に抑え込むことができたのです。
とにかくオルニチンに出会ったラコルプログ菌は間違いなく、動きを遅くするのです。
また、腐敗に伴うアンモニアを尿素に置き換えた結果、ラコルプログ菌の活動がやや減ったようにも見えました。
尿素を与えてもラコルプログ菌は何の変化も見せないのですが、逆に高濃度のアンモニアガスに触れると活動を活発化させるすることが分かりました。
但し、アンモニアガスだけでは何の反応も示さないことから、ラコルプログ菌はアンモニアガスを取り入れているわけではなく一種の触媒として利用していると考えられそうでした。
優奈はそこからオルニチンの分子構造を一つずつ外し、もしくは追加する方式で実験を絞って行きました。
C5-H12-N2-O2が化学式であり、ある意味で同位体を造るようなものなのですが、あくまで結合は炭素結合又は水素結合と考えられるので、炭素分子を切り離すことで、未定義の有機物質を生み出す実験なのです。
何度か繰り返すうちにNH2を切り離し、C4-H10-N1-O2を生成、それにシアン化合物を加えた新たな合成ペプチドでラコルプログ菌が死滅することが判明したのです。
結果として退治はできるのですけれど、シアン化合物は猛毒ですので人体には使えません。
種々の試行錯誤の実験を繰り返した中で生まれたのが、時限性バクテリアでした。
このバクテリアは生体細胞内で増殖するけれど、桿菌のみを食料として食べるバクテリアなのです。
このままでは生体にとって有為な桿菌まで食べてしまうので、嗜好性を与えるのに随分と苦労しました。
最終的に出来上がった対抗生薬はラコルプログ菌のみを掃除し、一掃すると自ら分解して消滅するタイプの水性バクテリアでした。
従って、注射等で体内に入れてやれば自然に繁殖し、いずれ死滅するんです。
但し、これを公表するにはどうしたらいいのかで、困ってしまいました。
種々考えた末に、リンジー教授の実験室で作ってしまうことに決めたのです。
第一にオルニチンが取り敢えずの病状進行を抑えられる可能性をアンモニアガスとオルニチンの特性から推論を積み上げて、半ば無茶ぶりを承知の上で論じ、次いでラコルプログ菌の根絶に桿菌食性バクテリアを利用する事を提唱した追加レポートを9日(火)に、リンジー教授に提出したのです。
リンジー教授はレポートを読んでため息をついた。
「よくまぁ、短期間にこれだけのものを考えたこと。
確かに試してみる価値はあると思うけれど、大学の研究予算はどこも抑えられていてね。
薬学部ならこの手の研究もしているけれど、今、オーストラリア全体の景気が低迷しているこの時期だからねぇ。
製薬会社の気を引く案件なら、サポートもしてくれるだろうけれど、単なる可能性の段階じゃぁ・・・。
特にあなたの場合は、研修生扱いの短期留学生だから、このレポートにしても推論ばかりで信用性に乏しいわ。
私の名前で出したところで、これまで製薬部門で実績のない教授じゃ、誰も話を聞いてくれないでしょうしね。
対抗薬ではなく、ラコルプログ菌の話なら別だけれどね。
何とかしなくてはという意識は私もあるけれど、獣医学部の製薬研究なんてほとんどゼロに近い。
何処かでスポンサーでも見つけないと、ウチの研究室ではまず無理ね。」
「スポンサーが居れば大丈夫ですか?」
「ええ、まぁね、・・・。
私の研究範囲からは外れるけれど、オーストラリアではラコルプログ菌の第一発見者になっているから、それなりの理由もつく。
でも、少なくとも薬剤開発ともなると10万ドル単位の金がかかるからね。
それに試行錯誤の連続だから、長期間の実験と検証が必要よ。
そうねぇ、開発に最低でも1年、試験治療若しくは実験治療で1年、人体への安全性確認で1年、最低でも3年はかかるし、専従のスタッフが必要よ。
そんな長期のスポンサーを探すのはとても難しいわ。」
「ええ、そうでしょうね。
でも、この実験室にある器材で作ってしまえば、それを薬学部に持って行って、後はあちらに任せるということでなら如何でしょう。
ウチが製薬会社のように大量に造る必要はありません。
料理のようにレシピを教えて、後は専門家に任せればいいんです。
最初のレポートにも記載しましたが、仮に保菌体のディンゴが生存しているならば生殖活動でHIVのようにディンゴという種にまん延します。
そうなってからでは、人間の被害が出ることも避けられません。
ディンゴ自体は、かなり地域住民の中にも入り込んでいますからね。
完璧な野生とそうではないものの見分けは難しいです。
いずれにせよ発症した場合に病の進行を抑える抑制剤、病の元であるラコルプログ菌を根絶する対抗薬を開発しておかないと、悲劇がパースを襲います。
で、肝心のスポンサーの件ですが、取りあえず、10万ドルを私がこの研究室に提供します。
ラコルプログ菌の対抗薬研究というひも付きですが、最大100万ドルまで寄付する用意があります。
開発し終わったなら、そこでお終いですけれどね。」
「まぁ、ユーナ、貴女、学生でしょう?
そんな大金一体何処から?」
「ミラクル・ユーナと呼ばれたのは、ロンドンの世界陸上が最初でした。
世界陸上ではスポンサーがついていましてね。
金メダルや世界記録を出すと報奨金が出るんです。
税金を差し引くと100万ドル程度になりましたけれど、結構大きな金額を貰えちゃうんです。
で、私の口座には今のところ使い道のない大金が結構沢山あるんですよ。
先日出場したソウルマラソンでも優勝賞金は8万ドル、世界記録を出したので更に50万ドルが上乗せされました。
税金が引かれて実際にもらった額は30万ドルを少し上回るぐらいです。
ですから決して後ろめたいお金ではありません。
研究室に寄付しても税金控除にはなりませんし、ひょっとすると、寄付金であっても贈与税の対象になるかも知れません。
ですから正規の手続きで寄付金として受け取っていただかないと困ります。」
「あらあら、事務方を間に入れないといけないみたいね。
企業ならともかく、個人からの献金なんて、やり方を知っているのかしらねぇ。」
「手続きは事務部に任せて、取りあえず、研究室の名前で物品を請求したいと思いますが宜しいでしょうか?
私も、16日には帰国せねばなりませんので、できればそれまでにお薬を作っておきたいんです。」
「一週間で?
流石にそれは無理と思うけれど・・・。
まぁ、取りあえず、物品の購入は進めてもいいわよ。
但し、保証金ぐらいは欲しいなぁ。」
優奈は、リュックからANZ Branch Kardinya Parkの発行した10万豪州ドルの小切手をリンジー教授に手渡した。
「じゃ、これが保証金です。
教授を信用してお渡しします・
昨日、カルディーニャ・パーク・ショッピング・センターにあるANZ銀行の支店で振り出してもらった小切手です。
何処の銀行でも間違いなく保証してくれるはずです。
これで事務局と交渉してください。
私達は手分けして、実験機材や薬品などの手配を行います。
最近は料金先払いも多くなりましたから、今日発注したなら事務局にも今日明日中に確認の電話、もしくは振込先の指定が来るかもしれません。
お早めにお願いします。」
くすっと笑ってリンジー教授が言った。
「いつの間にか、主導権がユーナに移ったみたいね。
いいわ、スポンサーの言うことだもの、できるだけのことは致しましょう。
ゼミのみんなもよろしくね。
時間との勝負よ。
4人とも私の教え子だから優秀だけれど、ユーナが居なくなったら薬の開発はてき面に遅くなると思った方がいい。
15日までの1週間がタイムリミット。」
優奈の予め用意しておいたリストに従って、納入先ごとにネットでの予約若しくは電話での受注をはじめました。
ゼミ組の4人にとっては名も知らぬ器材や薬品もかなり含まれていたけれど、それを一々確認するまでもなく、優奈を全面的に信用して作業を続けたのです。
大学の信用で直ぐに荷を発送したところについては、明日以降に順次届くことになるようです。
前払いが必要なところは、以降の事務局での働き如何となります。
何れにしろ、翌日から研究室の一部模様替えが始まり、オルニチンの実験については直ぐにも開始され、その効能が確認されました。
その上で市販のオルニチン・サプリメントで最も効果の高いものを選定したのです。
こちらは現金を持って薬局で買い出しなのです。
仮に発症者が出た場合、取りあえずの病状進行を抑制する手段は確保できました。
実際の動物実験や人体実験は薬学部にお任せすることになるが、元々市販のサプリメントですから、人体に対する特段の影響はないはずなのです。
全ての器材と薬品の手配がついたのは、11日午後のことでした。
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