第203話 21-8 クレアの舞台

 結局事情聴取などで二時間近くロスしてしまい、ジェシカ達三人は少し遅いランチを最寄りのレストランで食べたのです。

 その後三軒のデパートを梯子はしごし、周辺の専門店を見て回りながら、ジェシカ夫人とアリスの衣装選びにお供しました。


 そのご褒美というわけでもないのですが、その日オーストラリアでも有名な歌手のワンマンショーがパース・コンサートホールで催されており、その指定席券を三枚持っていたので、アリスが優奈を誘ってくれたのです。

 元々は、ジェシカ、アリスそれにケヴィンの三人で行く予定で三か月ほど前にチケットを購入したのですが、生憎とケヴィンは今日からアデレードへ二泊三日で出張する仕事が入り、優奈にそのチケットが回って来たのでした。


 今日のコンサートの主役は、クレア・ベルハムという32歳の女性歌手であり、自分で作詞作曲をし、ピアノも良くする人気の歌手であり、女優でもあるのです。

 年齢が近いのでアリスの大好きな歌手の一人なのだそうだ。


 席はステージから少し離れた正面やや斜めのB席であり、特上席ではないけれど、歌や演奏を聴くにはとてもいい位置にある席でした。

 土曜日の公演は、3時から5時の間で、食事前のデートスポットにはちょうど良い時間帯なのです。

 優奈達がホールに入ると、1500名ほど収容できる客席が9割方埋まっている状況を見て取れ、クレアの人気の高さが分かりました。


 公演が始まり、クレアの弾くピアノに合わせて歌うバラードから披露されました。

 クレアは金髪痩身の女性であり、美人です。


 彼女はピアニストであり、女優でもあるけれど、POPSの歌手としてもそのソプラノ系の歌声が特に評価されているのです。

 今日は背中を大胆に見せる真っ赤なドレスのステージ衣装で観客を魅了しています。


 開演して1時間半ほど経って、歌の合間のトーキングの最中にクレアは話題を変えました。


「ところで、私はショーの始まる前に、いつも今日のお客様はどんな方がいらしてるのかなとこっそりと見ることにしています。

 そうして今日はお客様の中にとても有名な人物が来ていらっしゃるのを見つけてびっくりしてしまいました。

 その方はとても音楽に造詣の深い方でもありますが、それ以外の分野でも世界に名を馳せた方なのです。

 今日の一番のハプニングはその方をステージに引き込むことなんです。

 ショーが始まる前にマネージャーやバンドリーダーにもお断りしました。

 今日は私の好きなようにやらせてね。

 ステージにお客様の一人を引っ張り上げるからと。

 で、突然のことで大変申し訳ないのですが、ミラクル・ユーナことミス・ユーナ・カヤマ、どうぞステージにお越しください。

 少しお話をし、できれば私と一緒に一曲なりとも歌を披露し、或いは演奏を聞かせて頂きたいのです。

 こんな我儘は生涯に一度だけです。

 どうか、どうか私の願いをかなえてください。」


 ステージ上でクレアは、優奈を見つめながら、手を差し出して哀願した。

 やむを得ず、優奈は苦笑しながら隣のジェシカ達に断ってから立ち上がりました。


 直ぐにステージ上のスポットライトの一つが向けられて、優奈を浮き上がらせました。

 優奈は半コートを脱いで、座席にハンドバックと共に置き、お客様に謝罪しながら通路に出たのです。


 その間にも周囲から驚きの声と共に拍手が起きています。

 優奈がステージに上がると待ちかねたようにクレアが近づき、軽くハグした。


 彼女はハイヒールを履いているので優奈よりもわずかに背が高いぐらいだけれど、ほぼ同じ身長であろう。


「初めまして、そうしてありがとう。

 私の勝手なお願いを聞いてくれて。」


「初めまして、クレアさん。

 まさかステージに引っ張り上げられるとは思いませんでした。」


「そう?

 でもこれが初めてではないですよね。

 神戸でもソニンのステージに上がったでしょう?」


「あの時は、直接会って事前に承諾を求められましたから・・・。」


「でも、リハーサルも何もしないで即興でソニンの歌に合わせた力量は凄いものよ。

 だから私も期待しています。

 ユーナ、私の歌を何か知っていれば嬉しいのだけれど、何か知っていますか?」


「クレアさんの歌は何曲か知っていますが、今日まだ歌っていない中ではDear lifeを知っています。」


 クレアは破顔した。


「私の最も好きな歌の一つよ。

 もう少し後で歌う予定だった。

 でも、ユーナ、貴方とデュエットで歌いたい。

 歌ってくれますか?」


「一生懸命、合わせてみます。」


「嬉しいわ。

 もう一つ、何かあなたの器楽演奏も聞かせて欲しい。

 貴女の演奏はとても素晴らしいし、曲に合わせて編曲をするのがとても素敵。

 私の感性にもぴったりと合うし、本来の曲のイメージがより深まるの。

 貴女が楽器ならば何でも扱えるとネットにはあった。

 バックにいるバンドから好きな楽器を借りて、何か聞かせて?」


「うーん、・・・・。

 仕方がないですね。

 では、クレアさんのピアノとの二重奏ということで、シューマンの【子供の情景】から“トロイメライ”は如何でしょう?」


「知っているけれど、楽譜なしで弾けるかしら?

 随分と前に弾いただけなの。」


「クレアさんなら大丈夫です。」


 優奈は後ろを振り返って言った。


「申し訳ないのですが、バンドの方、バイオリンをお貸し願えましょうか。大事に扱いますので。」


 バイオリンの女性奏者が苦笑しながら頷き、優奈にバイオリンを渡してくれた。


「では、最初に二重奏を、その後、Dear lifeをデュエットで歌いましょう。」


 クレアは特段の打ち合わせもなしに目で合図して、演奏を始めた。

 ピアノの優しいタッチでトロイメライの美しい音が広がって行く。


 ついでバイオリンが、そのメロディーを追いかけるように流れるのである。

 フーガ又はカノンであるが、トロイメライでそのような演奏をした者は居ない。


 だが、ものすごく合うのである。

 ピアノとバイオリン、全く違う音色でありながらこれほど似合う二重奏もないだろう。


 掛け合いが面白く、尚且つ曲のイメージを最大限にまで深めてくれる。

 クレアは舌を巻きながらもピアノ曲を演奏するのに手いっぱいである。


 ついついバイオリンの音色にひかれてピアノを間違えそうになってしまうのである。

 そうして最後の楽章はフーガを止めて異なる和音の伴奏で見事に締めくくった。


 恐ろしいほどまでの編曲才能と技量である。

 クレアのピアノの技量を読み切った上でのフーガであり、きっちりと合わせるところが凄いのである。


 仮に優奈が出だしで、クレアがフーガで追いかけるとしたならば、二週間程度の時間があっても合わせることができるかどうか自信がない。

 演奏時間としては3分までない短い曲であるが、クレアがこれほどピアノ演奏に気遣ったことはなかった。


 背中にはたっぷりと冷や汗を掻いていたものの、一方で演奏が終わったときの達成感はこれまでに味わったことのないものだった。

 会場の拍手に挨拶を送りながら、優奈はお礼を言ってバイオリンを持ち主に返していた。


 そうして優奈は手にマイクを持ってピアノのそばに寄り添っている。

 クレアは歌曲も相当の覚悟で歌わねばなるまいと感じていた。


 下手をするとユーナの絶妙な重唱で音程が狂ってしまう可能性すらある。

 デュエットは本来相手の歌い方を十分に承知してこその重唱である。


 ユーナはクレアのDear Lifeを知っているかもしれないが、クレアはユーナの合わせ方を全く知らないのである。

 自分の歌をいつも通りに歌えばいいとは思いつつ、漠然とした不安にさいなまれながら、クレアは伴奏のピアノを弾き始めた。


 クレアが歌い出すと間もなく、ユーナは絶妙なハミングで和音を重ね始めた。

 そうしてすぐにハミングからクレアの歌に合わせて歌い出す。


 本当に涙の出るほど綺麗なハモり方であり、和音であった。

 クレアの口調と正確に一緒のタイミングでの歌は、時に一つの音を歌い、その時はまるで一人が歌っていると錯覚させるほどの絶妙な合わせ方であった。


 クレアは歌いながら高揚してくる自らの感情を抑えられなかった。

 このデュエットをいつまでも続けたいと感じさせる何かがユーナにはあった。


 ネットではわからない生の迫力の違いでもあった。

 クレアは歌いながらも至福感で一杯だった。


 やはり、ミラクル・ユーナは音楽でもミラクルであったと結論付けた。

 演奏が終わり、クレアは立ち上がり、ユーナを抱きしめた。

 オレンジとバラの香りを僅かに感じさせる仄かな芳香を味わいながら、クレアは囁いた。


「ありがとう。

 私の人生の中でも最も輝ける瞬間に貴方がいてくれた。

 貴女と私の信ずる神に心からの感謝を捧げます。」


 拍手喝采の中、優奈とクレアは抱擁を解き笑顔で別れた。

 その後15分ほどで公演は終了した。

 拍手と喝采に包まれながらクレアの公演は幕を閉じたのでした。


 ◇◇◇◇


 その後ジェシカ夫人とアリスは、優奈を連れて最寄りのバルタザールというイタリア・レストランに向かったのですが、コンサートホールからかなりの人数がぞろぞろと三人の後をついてきたのでした。

 バルタザールには、ジェシカ夫人が予約していたので、当然に席は確保されていたけれど、ついてきた人は100人ほどもいたので、時ならぬラッシュになって店先に行列を作ってしまいました。


 バルタザールは、精々50人ほども入れば一杯なのです。

 まして、予約客も入っているので、ついてきた人たちで店に入れたのは僅かに10名足らずでした。


 店に入ってきた人たちは、盛んに優奈を視野に入れて写真を撮っている様子です。

 余り他所の人に迷惑をかけないでいて欲しいと願う優奈であり、そのうちに店の人が注意を促してスマホを向ける者はなくなったけれど、一方で他のお客様も優奈の存在に気づいてしまいました。


 優奈は周囲から珍しい動物でも見るような視線にさらされているのです。


「ユーナ、やっぱりあなたがいると私たちまでみんなの注目を浴びてしまうようだね。

 きっと、一緒にいる女二人は何者だっていう話になっている。」


「済みません。

 ジェシカさんやアリスさんにまでご迷惑かけて。」


「まぁ、仕方がないよね。

 ある意味で有名税みたいなものだから。

 マードックではさほどでもなさそうな気がするけれど、やっぱり追っかけみたいなものはあるの?」


「ええ。

 ネットにマードックに私が居るらしいという情報が出た翌日、大学構内を余所者がうろつくようになって、・・・。

 二日ほどしたらセキュリティ上も問題があるということで、敷地内では大学の身分証明書を持たない人物は用件を聞かれ、場合によっては退去させられるようになりました。

 私もその間は通学以外ではできるだけ外に出ないようにしていました。」


「おやおや、大学でかくれんぼかね。

 それもひどい話だね。

 学問の場であるべきが、狂信的ファンの溜り場ってのも問題だよ。」


「まぁ、あまり気にせず出歩けばいい。

 どうやら悪いことをする人達じゃなさそうだし。」


 美味しいイタリアンの食事を戴いて、それから皆で夜景の綺麗なエリザベス・キーの景観を楽しみつつ電車の駅に向かったのでした。

 驚いたことに、三人の後を先ほどよりは少ないけれど、結構な数の人たちがついてくるんです。


 電車に乗ってからも数は減ったものの、20人程度はストーカーじみた人たちがいました。

 ほとんどがカップルなので、やましい気持ちはないと思うのだけれど、ユーナは一応の留意はしていました。

 マードックでも駅を一緒に電車を降りた人たちですけれど、ユーナたちが駐車場で車に乗り込むと、流石に追いかけられなくなりあきらめた様子です。


 ◇◇◇◇


 翌日、ネットにはコンサートからの一挙手一投足までが大公開状態でした。

 写真だけではなく、コンサートの動画も音声付きで流れています。


 ジェシカさんとアリスさんの写真も載って、7日夕刻にはケヴィンさんからわざわざ電話が掛かって来たそうです。

 ケヴィンさんも、まさか、ネットでお母さんやアリスの顔が見られるとは思っていなかったそうですよ。

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