第199話 21-4 不審者との遭遇

 その日軽食を食べた後、リンジー女史と一緒に研究室に戻ると4人の学生が教授を待っていました。


「紹介しておくわね。

 みんな、日本から二週間の短期研修でやって来たユーナ・カヤマよ。

 仲良くしてあげてね。

 ユーナ、彼らは私のゼミの参加者で、左からマイク・デール、アラン・ザックス、エミリー・ラウェル、ターニャ・ロビンソンよ。

 全員が4年生なのよ。」


 因みに全員がミラクル・ユーナの顔と名前を知っていました。

 ネットの力、恐るべしですね。


 午後からは、早速、免疫組織化学染色の実習です。

 優奈は研修生ではあるのですが、基本的に予算の兼ね合いがあるので実際の染色はさせられないのです。


 但し、ゼミの学生がするところを或いはリンジー教授がするところをすぐ傍で見ることはできるのです。

 また自分では直接実行できなくても手伝いはできることになっているので、助けを求められれば手を出して構わないのがゼミでのルールでした。


 仮に優奈が1年間の留学の場合は、相応の予算をつけて完全な実地研修も可能でした。

 優奈は直ぐに皆と打ち解けて話しており、ゼミの進度にも何の問題もなく、却って要所要所で鋭い質問を投げかける優奈に皆が驚いている始末です。


 長く実地研修をやっていてもなかなか気づけない勘所かんどころに気づくというのは尋常ではありません。

 それを見ているだけで理想の形としてこうあるべきではないかという考えから、質問が出るというのは正に閃きそのものであり、羨ましい限りの才能なのです。


 しかもユーナは、手先が物凄く器用でした。

 フラスコへの滴下を為す場合でも、まるで適正値が最初から分かっているように迅速正確に行っているし、ガラス管のピペットで少量ずつ検体をマイクロウェルに配分する場合でも、非常に手際が良いのです。


 彼女をアシスタントにして染色作業を行えば、多分4人の誰かがアシスタントをするよりも三分の二か半分くらいの時間で終わってしまう可能性があるのです。

 作業のしにくいグローブボックスでも彼女がやればあっさりと済んでしまう。


 彼女は、バイオ検査若しくは実験要員としても十分な適性を持っていると思えるのです。

 そんなユーナを一番不器用なエミリーがしきりに羨ましがっていた。


 その日は5時まで実習作業をして、ゼミは終了したのです。

 日本では夏ですが、オーストラリアは冬の最中です。


 冬休みは9月かららしいので、今はさしずめ日本の11月終わりから12月始めぐらいに相当するのです。

 最低気温は10度を割ることもあるけれど、日中は15度から20度前後あるようです。


 その意味では神戸の初冬か春先と同じぐらいだと思われます。

 パースで降雪はないそうです。


 現在の日没は、午後5時40分頃、日本との時差は約1時間でパースの方が遅いのです。

 因みに東京や神戸では、この時間は午後6時40分になる筈です。

 夕焼けの中を優奈は、ソーンダイク邸に向かって歩いていました。


 オーストラリアは、人口の少ないところです。

 オーストラリア全体で2400万を超えるぐらいであり、それも東部海岸に偏っているのです。


 パースの人口は、162万人で神戸市の153万人よりも少し多い程度です。

 パース市域圏は、南北125キロ、東西50キロであり、市域としては5300㎢ほどありますが、凡そ1000平方キロ内に100万人を超える住民が住んでいるようです。


 従って1㎢当たりの人口は千人程度、ごく一部の都市中央部を除いては、住宅街のような人口密集地でも、平均すると百メートル四方に10人程度しか居ないことになりますから、日本で言えば過疎の町でしょうね。

 このために道路を歩いていても人通りは極めて少ないんです。


 道路を行き来する自動車も思いのほか少なく、東京近辺での道路の渋滞などは決して起こりそうもないような雰囲気です。

 実際には一応通勤ラッシュ的なものもあるようではあり、その辺は、まぁ、パース中心部に行くとまた事情は変わるらしいのですが・・・。


 一方で、マードック大学の構内にはものすごく駐車場が多いんです。

 ということはみんな車で動いているのかということになりますよね。


 マードック大学で1万5千人から1万8千人の学生を抱えているみたいですが、駐車場の数と大きさから言うと間違いなく数千台分以上の駐車スペースがありそうです。

 優奈も車のレンタルを正式に考える必要があるかも知れません。


 優奈はそのためというわけではないですけれど、春休みに日本で国際免許を取得しているのです。

 それに、ソーンダイク邸の前庭にはまだ駐車スペースがありそうです。


 現在は、ケヴィンさんが通勤で一台使い、アリスさんが買い物等で必要な場合に運転する車がもう一台ガレージに停まっているだけなのです。

 因みにガレージは三台分のスペースがありそうだし、広い庭にはパーキングのスペースも十分にあります。


 因みに、ソーンダイク邸のあるKardinya地区の住宅街は、おおむね500平米から千平米の敷地で平屋造りの家が多く、庭先の芝生が広いのが特徴です。

 ソーンダイク邸のように二階建ての住宅は数十戸に一戸程度しか見かけません。


 車の話に戻ると、実際問題として帰り道である1.6キロの間をストーカーあたりに狙われるのは至極面倒なことなのです。

 優奈としては、現地警察と揉め事を起こしたくはありません。


 徒歩で通学するにしても、正当防衛の証拠保全のためにドライブレコーダーのような装備が必要かもしれません。

 そんな風に考えている間に、道半ばで胡散臭そうな二人が前方に現れたのです。


 雰囲気からするに怪しげですから、携帯を出して、警察に連絡を入れます。


「済みませんが、トラブりそうなのでそのまま聞いていただけますか?」


 そう言って電話をつなぎっぱなしにしました。

 オペレーターが接続を切るならそれはそれで仕方がありません。


 どのみちこちらに責任はないんです。

 優奈は、悠然と前へ進む、男二人はにやにやしながら近づいて来て、言いました。


「よう、姉ちゃん、俺らちょっと女の子にあぶれててよぉ。

 ちょっくら、つきあってくれねぇか?」


 オーストラリアで田舎者という言葉があるのかどうかわかりませんが、西部オーストラリアの方言丸出しなので、パース付近に住んでいる男なのでしょう。


「お断りします。」


「ほ、つれねぇじゃねえか。

 いいから黙って俺らに付き合えばいいんだよ。」


「お断りします。

 警察を呼びますよ。」


「おう、呼べるもんなら呼んでみなよ。

 その前にそのきれいなお顔が傷つくぜ。」


 男はナイフをちらつかせた。


「なるほどナイフですか。

 明らかに脅迫ですね。

 認めますか?」


「へ、認めますかと来やがったぜ。

 そうだよ、こいつは脅しってやつだよ。」


「なるほど、では脅迫の現行犯ですね。

 お断りしておきますが、この電話は警察に繋がってます。

 もしもし、今の言葉聞かれました?

 私、路上で二人の男に襲われて、ナイフで脅されてます。

 あ、そうですか、警察が向かってる。

 何時頃着きますか?」


「ふざけやがって、こいつ、やっちまえ。」


 そう言って二人が襲い掛かってきましたが、優奈に歯向かうには余りに稚拙過ぎました。

 武道家ならばともかく、ただのチンピラにすぎないのですから、一瞬で二人は路上に伸びていたのです。


 残念ながら目撃者はいません。

 警察は10分ほどで着くそうですが、話になりませんよね。


 普通の女の子ならば警察が来る前にどこかに拉致されてますよ。

 まぁ、オペレーターが電話を切らなかっただけましだけど・・・。


 因みにオーストラリアでは、警察、消防など何でも緊急案件は「000」でつながります。

 優奈も「000」で電話したのですが、交換手はちゃんとつないでいてくれたようです。


「済みません。

 男二人が襲い掛かって来たので正当防衛を行使して二人とも伸しちゃいました。

 もし警察車両で運搬が難しければ、救急車の出動もお願いします。

 背中から道路に叩きつけましたので、気を失っているだけかとは思いますが、意識レベル300です。

 ちゃんと、息はしていますけれどね。

 それと、電話を切らずにいてくれてありがとうございました。

 もしよろしければお名前を教えて頂けますか。今度お会いできたなら改めてお礼申し上げたいので。

 私は、ユーナ・カヤマです。」


 途端にオペレーターの声が裏返りました。


「貴方、ミラクル・ユーナなの?

 何?何?

 今、パースに来ているの?」


「二つともイエスです。」


「うわぁ、凄い、凄い。

 今度機会があったならサインしてほしいなぁ。」


 お姉さん、すっかり舞い上がって名前を言うのを忘れてますよ。


「いいですよ、

 お世話になったからサインぐらいいくらでもします。

 でも、今は仕事中じゃないんですか?」


「ええ、勿論、脅迫にあった可哀そうな被害者とお話し中なんです。

 れっきとした仕事ですよ。」


「なるほど、・・・。

 でも襲った方もある意味で可哀そうですけれどね。

 狙う相手を間違えたみたいです。

 あと、この男達二人、息が臭いですね。

 薬物を使っている可能性が大です。

 この匂いだと・・・、麻薬の類かもしれません。」


「あら、ミラクル・ユーナって、探偵の真似事もできるの?」


「いいえ、たまたま獣医を目指して勉強中なので、薬物には結構詳しいのです。」


「あ、それで獣医学部のあるマードック大学へ来ているのかぁ。

 留学かな?」


「留学というよりも短期研修ぐらいですね。

 豪州に居られるのは2週間ほどですから。」


「あら残念、でもマードックに行けば逢えるかもしれないってこと?」


「ええ、まぁ、逢えることがあるかも知れませんね。」


 そのように無駄話をしている間に、警察車両が到着しました。

 言っちゃ悪いけれど、車の屋根にパトライトが無ければタクシーと見間違うような車両です。


 尤も、側面にPOLICEという文字はしっかり描いていますけれどね。

 警官が二人やってきて事情を聴かれました。


「オペレーターのお姉さんが一部始終を知っていますけれど、襲われそうな雰囲気だったので、予め緊急の「000」に電話をかけて、その模様を聞いてもらっていました。

 近づくなり相手は付き合えと言い、断るとナイフをちらつかせて脅してきました。

 脅迫の現行犯ですが認めますかと聞いたら、相手はああそうだと言ってましたね。

 十分に意識してやっていることで、揶揄からかっているわけではなかったと思います。

 警察に電話がつながっている旨を言って相手が逃げるのを期待したのですが、逆に相手が切れて襲い掛かってきました。

 で、止む無く、正当防衛で相手を伸しちゃいました。

 私には怪我はありません。

 オペレーターの方と話をしますか?

 まだつながってると思いますが・・・。」


 警官は電話を受け取ってオペレーターの名前を聞き、事情を聴いた。

 警官の口ぶりからどうやらオペレーターは、マルガリータさんというらしい。


「まぁ状況からして正当防衛に間違いなさそうだが、こいつらに事情を聴いて食い違いがあるとまた話を聞かにゃならん。

 身分証明書を見せてくれ。

 それから現住所を教えてくれるか。」


 優奈はパスポートを見せ、同時に今日作ってもらったばかりの仮学生証を見せた。

 宿泊先の住所を書いてソーンダイク邸にいるが、外部には内緒にしてほしいと伝えると警官が頷いた。


「何だ、ジェシカさんのところにいるのか。

 わかった。

 何かあれば連絡するから、今日は帰っていいよ。

 暗くなってからの一人歩きは危険なんだが、お前さんにはそうでもなさそうだな。

 むしろ襲う方が危ないみたいだ。

 まぁ、冗談はさておき、注意しながら帰るんだよ。」


 どうやらジェシカさんとも知り合いの人らしい。

 胸に付けている名札にはTed Patersonと記載されていました。


 それも併せて、ジェシカさんに車の話をしてみようと思う優奈でした。

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