第198話 21-3 白豪主義の洗礼

 翌朝7時に朝食を戴いて、日本では滅多に着ないパンツスーツに、タートルネックのセーター、ミドルヒールブーツ、超ロングのダウンコートに手袋、髪型はロングのストレート、キャスケットを被ってお出かけです。

 カバンはアタッシュケースも持ってきているけれど、今日は赤茶のトートバッグであり、衣装を含めて色は全て茶系統に統一している。


 ソーンダイク邸から大学まで歩いて20分とはかからない。

 8時10分には大学に入って、リンジー教授の研究室へ向かったのです。


 マードック大学は豪州一と呼ばれる広大な敷地を有しています。

 事前にマップを貰っていなければ、迷うことになったかも知れません。


 8時25分に研究室の前に着きましたが、入り口の扉をノックをしても反応がありませんでした。

 しかしながら、優奈の背後から声をかけられたのです。


 声をかけて来たのは、年の頃がジェシカさんと同じくらいなのですが、若々しく見えるスレンダーな女性でした。


「貴方、ユーナ・カヤマ?

 私がリンジー・フェルトンよ。

 マードック大学へようこそ。」


「あ、初めまして、ユーナ・カヤマです。

 お世話になりますが、よろしくお願いいたします。」


「うん、任されたよ。

 貴女の事は、日本のサキジマ教授やドイツのヘルムート教授から聞いているわ。

 大変な才媛のようね。

 でも、今日は少し意地悪な教授三人が階段教室で貴方を待ち構えている。

 まだ時間はあるけれどゆっくり歩けば、9時近くにはなるから話しながら行きましょうか。」


 リンジー教授は、何が飛び出すかわからないとしながらも、予想される問題の幾つかを話してくれました。

 まぁ、残念なことにリンジー教授の予想は外れてしまうのですが、それでも優奈にはきちんと切り抜けられるだけの基礎知識は十分にあったので、左程心配はしていないのです。


 むしろ優奈がいくつか質問すれば彼らが立ち往生するのではないかとさえ思っています。

 二人は9時少し前に階段講堂につきました。


 講堂には数人の立会人が来ているようですが、当の三人の教授はまだ来ていない様です。

 リンジー教授は、その場に来ていたレイバン・マクブライド獣医学部部長を紹介してくれました。


 その上で、階段教室の底部に用意されている椅子に座って待つようにと指示したのです。

 優奈がコートを脱ぎ、傍にあった小さなワゴンにトートバッグと共に置いてから、椅子に座って待つことしばし、ようやく三人の教授が姿を現しました。


 学部長まで早々と来ていたことに驚きつつも、彼らは足早に最前列の席に着きました。


「さて、これから約2時間をかけて短期留学を望む君の能力を確認する。

 仮に質問の意味が分からなければ何なりと尋ねて宜しい。

 わかったかね?」


 一人の教授が早口でまくし立てた。

 英国訛りならまだしも、典型的な豪州南部アデレード当たりの訛りのようです。

 あるいはわざとそれらしく話しているのかもしれません。


「はい、わかりました。」


 凛としたその声に三人の教授は驚いたようだ。

 優菜の言葉は、完璧なキングス・イングリッシュだったからです。


 これまでこれほど綺麗なキングス・イングリッシュで英語を話す日本人を彼らは見たことが無かったのです。


「君は日本人かね。

 外国人の血が混じっていることはないのかね。」


「私は、日本人です。

 日本人のルーツとして、モンゴリア及び東南アジア更に北方の希少民族の血が混じっていることは否めない事実と思いますが、少なくとも私の家系で56代までの血筋には外国人の血が混じったという証拠はありません。」


「君の直系の先祖を56代まで遡れるということかね?」


「はい、系図から言えば凡そ1400年前にまで遡れます。

 それ以前は日本に帰化した朝鮮民族の血が多分一部に入っています。」


 豪州では精々200年前までしか遡れない家系が多いのです。

 元々は流民の島であり、家系や系図など英国に置いて来ざるを得なかった者がほとんどなのです。


 尤も、囚人以外の初期の開拓者は英国の農民であったということまではわかっていても、それ以上を辿ることはかなり難しいことなのです。

 ために、人種よりもそうした歴史の重さで、まず威圧を覚えた教授たちでした。


 自己紹介もせずに口頭試問を始めるあたり本来は大変に無礼なのですが、優奈も名乗る機会をそもそも与えられていないのであえて論じないことにしているのです。

 何れにしろ、ある意味での威圧感に対抗するように、一人の教授が言いました。


「命の尊厳というものをどのように捉えているか簡潔に答えなさい。」


 命題自体が非常に曖昧な質問の上に、尋ねたのはフランス語による質問でした。

 正直なところお世辞にも上手とは言えないフランス語です。


「大変失礼ですが、ただ今の質問の回答は英語、フランス語何れにすべきでしょうか?

 或いは別の言語での回答をお望みでしょうか?」


「フランス語ができるならばフランス語で、但し、我々にわかるようなフランス語でお願いする。」


 これも曖昧な指示ではあったが、彼がフランス語をよく介していようがいまいが、委細構わずに優奈は見事なフランス語でまくし立てたのです。


「私は、命の尊厳という言葉には疑問を覚えております。

 命は大事にすべきものですが本来尊厳に関わるものではありません。

 尊厳という言葉は、国家のような法人あるいは自然人に対して向けられる言葉であって、命という抽象的な概念に向けられるべき言葉ではないと考えております。

 私のフランス語はお判りいただけたでしょうか?」


「うむ、言いたいことはわかったが・・・。

 では別の言葉で問う。

 人の命と動物の命どちらを優先すべきかね。」


「人の命を優先すべきです。」


「ほう、動物の命など無視してよいというか?」


「そうではなく、優先順位をお尋ねの様でしたので、その順位をお答えしたまでです。」


「我が国は動物の保護政策を取っているのだが、これについてはどう思うかね?」


「動物の保護政策はそれなりに意味あるものだと考えています。

 但し、人の命との優先順位で動物の命が勝るとは思いません。

 日本では340年ほど前に当時の為政者が生類憐みの令という命令を出して人々に守らせるよう強制しました。

 本来の意味は生きとし生けるものすべてを大事にして無駄に命を奪うなという意味合いでしたが、実施の段階では、例えば犬を殺した者は死罪にするという過酷な刑罰になりました。

 特に四囲の状況から真にやむを得ない場合であっても何らその事情が考慮されないという例がまかり通り、野犬が人を襲って来ても身を守ることすらできないという状態になってしまいました。

 後の世の人は悪法と決めつけていますが、本来の趣旨からいえば、とても大事な話です。

 ですが、一方ですべての命を守るべしと際限なく広げますと、人は生きて行けなくなります。

 例えば、肉は生きていた動物のもの、麦や米は生きていた植物のものであり、われわれ人間は命を食わずして生き永らえません。

 仏教ではその人の罪を業といい、人間が生きて行く限り負わねばならぬ宿命のようなものだと説いています。

 私は仏教徒でもキリスト教徒でもなく、人の道を様々に説く宗教を信じてはおりませんが、そのことわりは心得ているつもりです。

 逆に私からお聞きしてもよろしいでしょうか。」


「ん、どのような質問かね?」


「キリスト教徒は食事の前にお祈りを捧げますが、それは神に対してであって、供された命に対する感謝ではないと聞いています。

 その場合、動物の命は大事にするが、家畜や植物の命は大事にしなくても良いという意味合いなのでしょうか。

 もしよろしければ、未だ人徳に至っていない未熟者の私にその違いの理を私にわかるように教えてはいただけませんでしょうか?」


 残念ながら三人の教授に宗教観にも似た動物愛護精神と食材として命を奪うことの矛盾を簡単に説明はできなかった。

 したがって彼らにできる道をとった。


 すなわち逃げたのである。


「そのような説明は、この場にふさわしくないだろうな。

 貴女が、此処にいる間に種々の書物を読んで貴方なりに理解し、それを先達に披露することでその考え方の誤り若しくは訂正を助言できるだろう。」


 ◇◇◇◇


 その後も様々な分野で質問が繰り出されたが、優奈は難なく答え、根拠を示せというと書籍の名、筆者の名前を上げ、場合によっては研究論文まで引き合いに出して教授たちを完全に黙らせた。

 傍で傍聴していたリンジー女史は、終始微笑を絶やさずに言葉の応酬を楽しんでいた。


 改めてユーナという人物が類まれな才能を有する人物であることが分かった。

 サキジマ教授は、ユーナという女子学生は既に日本の獣医学部の6年間で学ぶべきこと全ての知識がある筈であり、足りないのは経験と技術だけだと言い切っていた。


 確かにこの質疑応答の中で見せた知恵の閃きはなまなかのものではない。

 一般大学の学ぶべき事柄全てもその頭脳に収まっているのだろうと思うのである。


 さもなければ流暢なフランス語で宗教談義などできるわけもない。

 彼女は豪州の歴史にも通じていたし、様々な文献にも通じているようだ。


 一連の問答の中でリンジー自身が分かったのは、獣医学や生命科学に関する部分が主なのだが、20歳に過ぎない学生からに自分の知らない研究論文まで引用されたのは初めての経験である。

 サキジマは、優奈のことをかつてない才能を有する驚異の特待生だと言い、ヘルムート教授は、優奈が獣医学の天才でもあるが、レオナルド・ダ・ヴィンチにも似た万能の天才でもあると評していた。


 正しく、その一端を垣間見た気がしたリンジー女史であり、その天才に何を教えるべきかと嬉しい悩みを持って微笑んでいるのである。

 何れにしろ、三人の教授の目論見は完全に崩されてしまった。


 彼らは能力のないアジア人は教育するだけの価値がないから、従者として使えるだけの知識を与えればいいのだと常日頃から差別を公言していたのである。

 だが、彼ら以上に知識を持った若いアジア人女性が現れた今、彼女に価値がないとは到底言えないだろう。


 何しろ、彼らがどう言いくるめようと、若いアジア人女性にすべての課題で完璧に言い負かされてしまったのは、そこに立ち会った教授陣によってしっかりと認識されていた。

 ミラクル・ユーナは、満点、否、120点の得点で教授たちを完全に論破したのである。


 こうして優奈のパースでの短期留学が始まったのです。

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