第92話 11-4 特訓(3)

 そうして今日は表題こそI will show youだが、韓国系米国人歌手*ileeの韓国語の歌を歌わせようとしていた。

 優奈は韓国語の発音について美空に何も教えない。


 自分の耳を信じてCDに合わせて歌えというだけである。

 何度も何度も繰り返して失敗しながらも、10時を過ぎたころには何とか形を成してきたのにはさすがに恐れ入った。


 優奈は決して無理を言っているわけではない。

 今の美空にできることを要求しているだけなのだ。


 三日前の美空なら絶対にできないだろうが、今の美空ならば、かろうじて優奈の要求に応えられるのである。

 光台寺には美空が言っていた言葉が蘇って来た。


<多分ユーちゃんは私に色々な歌を歌わせることでユーちゃんと同じように何でも歌える歌手に育てたいのかなって思うんです。

 もしかしたら違うかもしれないけれど、少なくともそのための基礎を今やっているんだなと感じてるんです。

 この基礎ができなければ横浜慕情は歌えない。>


 美空はその基礎を固めつつあるのだと始めて認識した。

 そうして優奈が今日初めての細かな指示を出した。


 優奈自身が手本を示しながら、美空に歌わせた。

 そうして最後には、頭から歌わせて優奈がデュエットで音を合わせたのである。


 スタジオ内に綺麗なハーモニーが流れ、そうしてあっという間に歌い終わっていた。

 優奈が微笑みながら言った。


「ミーちゃん、ここまでよく頑張りましたね。

 明日からさらにレベルが上げられますよ。

 明るいうちは横濱慕情のレッスンです。

 暗くなってからは、ミーちゃんに歌いながらドラムをたたいてもらいます。

 ドラムセットを叩いたことは?」


 美空が驚きの表情を見せながらぶんぶんと首を横に振った。


「無くても結構。

 ドラマーになってもらうつもりはありません。

 ミーちゃんに音楽のテンポを知ってもらうためのレッスンですから。」


 優奈がさらに続けた。


「それと最終日の日曜日は予定を変えて午前中だけにします。

 ここは24時間開いてますからね。

 朝は7時から始めて正午までには終わります。

 光台寺さん、明後日の午後の新幹線の切符を手配しておいてください。

 時間的には余裕を持って、4時以降が良いのかな。

 ミーちゃんも折角神戸に来たのやから、観光の一つもして行くと良いでしょう。

 北野の異人館がお勧めです。

 ご褒美にウチが案内役を務めますよ。」


「それは、レッスン終了ということですか?」


「今のところ卒業見込みというところですが、多分間違いはないでしょう。

 少なくとも、横浜慕情を歌えるだけの歌唱力はついたと思います。」


 美空はそれを聞いて嬉しいはずなのに、逆に何となく寂しい気持ちでいっぱいだった。

 11月23日土曜日は、午後1時からレッスンが始まった。


 最初に昨日の復習がてら、韓国語の歌を歌う。

 最初から優奈はデュエットで音を被せて来た。


 美空は優奈と歌えることがこれほど幸せだとは思ってもいなかった。

 優奈の音の組み合わせがとてもきれいであり、美空もその音を真似したかった。


 そうして二回目の歌の時には、優奈が原曲のメロディを歌うので美空が優奈の真似をして音を被せなさいと言われた。

 優奈の音は美空の脳裏にくっきりと残っていた。

 だから優奈に合わせられた。


 二度目も上手く歌えた。

 そうして三度目に優奈が言った。


 今度は貴方の感性で良かれと思う音を被せなさいと言われた。

 そのために優奈が一度独唱した。


 美空はその間に必死で優奈の歌う音に似合う音を探した。

 そうして再度のデュエットが始まり、美空はその難題に見事に答えた。


 同じ歌を5度唄って復習は終わった。

 時間にしてわずかに15分ほどである。


 それから優奈が言った。


「さて、いよいよ横浜慕情です。

 最初にミーちゃんの感性で歌ってみなさい。

 どんな歌い方でも構いません。

 伴奏はとりあえずカラオケの音です。

 だからあなたがこれまで歌っていた編曲と同じはず。」


 優奈がそう言うとCDのスイッチを入れた。

 聞きなれた美空の横浜慕情の伴奏が流れる。


 カラオケバージョンの場合は、レコーディングヴァージョンとは、オーケストラの布陣が若干異なるのだが、まぁ、さしたる違いはない。

 美空は作曲家に教えられていた歌い方を捨てた。


 優奈に自分の感性でと言われたからである。

 これまでの美空は指導してくれた作曲家の先生に言われた通りの歌い方をしていたのだ。


 だが優奈とのレッスンで様々な歌を練習したことにより、それぞれの歌手が種々の工夫をして自分の歌にしていることに初めて気づいた。

 美空は自分の持ち歌に何の工夫もしていなかったのだ。


 音の出し方、ビブラート、息継ぎ、音の長さ等々、少し変えるだけで歌の感じがまるで変わることを他人の曲を自分で歌ってみて初めて分かった。

 同じ歌を何度も繰り返して歌ったからこそ分かったことである。


 歌詞の意味を考えつつ、どのように表現するかが歌手としての自分の仕事なのだと自覚した。

 美空は初めて自分の意志で歌い方を変えた。


 それがマネージャーの光台寺には今までとまるで雰囲気が変わったように感じて驚いたものだ。

 美空の歌い方に未だに幼稚ではあるもののある種の色気を感じた。


 歌い終わって、優奈が尋ねた。


「一度唄ってみてどうやった?」


「難しいですね。

 日本語ってこれほど難しいものなんですね。

 歌にする時どのような感じにするかを迷ってしまいました。

 この歌は失恋の歌なのに、私まだ恋を知らない。

 だから失恋をどう表現したらいいのかよくかわからないんです。」


「今はそれでいいと思う。

 ミーちゃんが恋をして失恋をしたなら歌に深みが出て来るだろうと思うけれど、今はラノベに出て来るような恋を考えて、それで失恋した時を思い浮かべるだけでいい。

 ミーちゃんもウチも経験していないことを表現するなんて絶対にデケへん。

 でもその頭の中にある恋への想いを表現することはできる。

 作詞家も一々自分の思い出を語っているわけやない。

 自分にある思い出を美化して、形を変えて表現しているんやから、作詞家の想いを代弁する必要はあらへんのや。

 自分の思いのたけをぶちまけて、それが聞く人に伝われば後は向こうが勝手に考えてくれる。

 でも、伝わらなければただの雑音や。

 間違ってもええやん。

 自分がどう思うかを一生懸命歌って、後は聞いてる人に評価してもらえばいい。

 そんなとこで、もう一回行ってみよか?」


 再度カラオケの伴奏が掛かった。

 美空の歌声が響いた。


 今度は自信溢れる歌となって光台寺の胸にも響いた。

 光台寺は一瞬自分の初恋と失恋を思い出していた。

 美空の歌う歌詞に重みが増していた。


「うん、さっきよりようなった。

 このままでもいいとは思うけれど、ウチの編曲で歌ってみる?

 今ならミーちゃんもそれなりに歌えるはずや。」


 美空は躊躇しながらも頷いた。


「ほなら、主旋律と伴奏を一緒に弾くからな。

 取り敢えず聴くだけにしてぇや。」


 優奈がエレクトーンを見事に弾いている。

 主旋律と伴奏が入り混じっている。

 弾き終わって優奈が言った。


「今度は伴奏だけにするよ。よう聞いとってや。」


 伴奏だけのメロディが流れると何か異様な感じがした。

 さっきの主旋律が入った音は横浜慕情という感じがしたのだが、伴奏だけだと全く雰囲気が違う。


 弾き終わると優奈が尋ねた。


「さて、ミーちゃんのさっきのカラオケを伴奏にしたものと何が違うと思う?」


 美空が言った。


「テンポが違います。

 カラオケも私のレコードも8拍子だけど、今のは8拍子とは違う。

 ユーちゃんが歌っている時の動画ではわからなかったけれど、伴奏だけなら16?

 いえ、多分・・・12拍子。」


「そうや、12拍子の伴奏や。

 だから歌い方も12拍子なんやけれど、普通の人はなかなか気が付かへん。

 普通の音楽の楽譜に12拍子は余りないなぁ。

 だから、譜面に落とそうとして皆間違える。

 4拍子かあるいは8拍子に替えるのが多いなぁ。

 次に多いのは16拍子やけど、流石に早すぎておかしいと感じる。

 しゃぁなくて8拍子にするんやけど、それでは曲想にも会わない歌になってしまう。

 作曲家の先生は元々8拍子で考えていたんやし、本来はそれが作曲家の意図するところやろうね。

 でも、うちは、若い人向けの曲やったら、よりテンポの速い12拍子のほうがええと思う。

 だから、勝手に編曲し、12拍子の伴奏に歌を合わせただけや。

 ミーちゃんももっと速いテンポの歌のつもりで歌ってみたらええ。

 さっきの韓国語の歌のように早いテンポをイメージできたら歌えるはず。

 それと音符の長さに注意してな。

 うちは原曲とは変えて歌ってる。

 それはうちの感性や。

 だから必ずしもミーちゃんの歌い方に合ってるとは思わへん。

 ミーちゃんはミーちゃんの歌を歌えばええ。

 じゃぁ、いくでぇ。」


 優奈が伴奏し、美空が歌った。

 優奈の歌とは違う横浜慕情があった。


 カラオケの伴奏で歌った横浜慕情もいいけれど、やっぱり、拍子の違う横浜慕情がすごくいいのである。

 だから、聞いた人は優奈の歌が好きになる。

 ましてや歌唱力が無かった美空と比べれば雲泥の差がある。


「うん、ええ感じやないかな。

 もっと歌いこむ必要があるけど。

 取り敢えずはそれでいい。

 で、ミーちゃんに楽譜を渡しておこう。

 フルオーケストラ用の楽譜や。」


 優奈は小さなUSBメモリーを美空に渡した。


「❆イベックスやったらこれを読めるDAWソフトを持ってるはずや。

 一応CUBASE9を使つこうてる。

 譜面に印刷もできるし、パソコンで走らせれば電子音でオーケストラの真似事もできる。

 レコーディングの時のオーケストラに合わせて作ってるんよ。

 但し、12拍子やからね。

 慣れんと演奏できん人も出て来るかも知れんなぁ。

 そんな時は、ファルゴーの交響曲「雷神」と同じリズムをティンパニーで叩いてもらえばいいはずや。

 それでもわからん人はオーケストラの団員から外れてもろうた方がええかもなぁ。

 但し、この譜面を使って新たに録音したり、演奏するつもりやったら、きちんと作曲家の先生に了承を取ってからにしてな。

 でないと著作権に引っかかるよ。」


「あ、でも、ユーちゃんの編曲ですよね。

 貰ってもいいんですか?」


「ウチは、音楽を生活の糧にしようとは思うてへん。

 単なる趣味や。

 使うのに承認が必要というなら今あげる。

 だからミーちゃんの物にして勝手に使つこうたらええねん。」


 そうして横浜慕情のレッスンがなおも続いた。

 美空が歌い、優奈が意見を言う。


 そうやって少しずつ美空の歌い方が変わって行った。

 夕方5時になって夕食に出かけ6時からレッスンを再開する。


 美空に託された新たな課題は、演歌であった。

 美空に演歌は似合わないし、演歌は売れない分野でもある。


 またもCDに合わせて歌えというが、おまけも着いた。

 ドラムを使って適宜の音を出しなさいと言われたのである。


 曲は、小林幸子の「雪椿」、美空は聞いたことも無い曲だったらしい。

 演歌の節回しとドラムの扱いに若干苦労していたが9時頃には何とか様になるようになってきた。


 それまで余り口を挟まなかった優奈が細かい指導を始めた。

 主として言葉の発声の仕方と演歌独特のビブラートの分であったが、それらの指導を受けるとてき面に演歌らしくなってきた。


 その上で優奈は自分の感性でこの曲をどう歌うか色々と試行錯誤してみなさいと言った。

 それから1時間頑張って、その日はお終いだった。


 日曜日は朝7時から正午までの予約をしてある。

 ボディガードも今日から工藤さんに代わっていた。

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