第93話 11-5 別れと出直し
日曜日、東京へ戻る便は、美空と話し合って午後4時過ぎの新幹線にしている。
昨日の美空の歌を聴く限り、所期の目的は達していた。
正直なところこれほどまでに美空が伸びるとは光台寺も思っていなかった。
光台寺の聴いている限り、❆イベックスに所属する歌手の誰よりも美空は上手になっていると思うのだ。
それが売れる、売れないはまた別の話ではあるのだが、優奈は自分の思いのたけをぶつけて観衆に良し悪しを判断させろと言っていた。
確かにそうなのだが、光台寺の経験からして今の美空の歌ならば間違いなく売れると判断している。
今朝の食事はコンビニ弁当である。
スタジオに持って行っても食べられるようにおにぎりにしているのである。
飲み物は黒紅烏龍茶にトマトジュースである。
優奈が持ってきてくれるのは特級のプーアール茶にトマトジュースを混ぜた物だが、優奈の家のお手伝いさんが毎日準備してくれているらしい。
優奈は今日も午前6時半にはロビーで待っていてくれた。
今日は、葉山女史は来ないのだが代わりに横山さんという神城高OGが来ている。
ボディガードの工藤さんも朝が早いのに待っていた。
5人でスタジオ*48に入り最後のレッスンが始まった。
1時間近く昨日の演歌の続きを行った。
美空の演歌も相当の評価を受ける段階に入っていた。
間違いなくカラオケ大会なら優勝できるレベルであるし、本家本元にも負けていないと思われるのである。
次いで、優奈が課したのは高度な課題であった。
初見の譜面を見て歌いなさいと言うものだった。
譜面は優奈が用意してきたものである。
優奈が言った。
「この曲は、昨夜ウチが造ったばかりの曲やから、誰も知らない曲の筈や。
これが初見で歌えて初めて歌手としては一人前やね。
だから、ミーちゃん、貴女はまだ一人前とは言えんなぁ。
今日は無理やとしても、いずれ初見の譜面が読めるように精進してな。
そのために今からそのやり方を教えるよって。」
それから正午までの間、優奈は美空に説明し、美空は言いつけに従って必死に試みていた。
最初に譜面を読むのだが、その際に音を思い浮かべて頭の中にメロディに形作るのだそうだ。
美空が一生懸命に頑張っているが、頭の中で途中で音が消えてしまいメロディがつながらないらしい。
譜面のオタマジャクシが音となって脳裏に描けるようでなければ、前へは進めないのだそうだ。
何度か繰り返して譜面の一部をそらんじてしまうと、優奈が別の譜面を取り出してやり直しをさせる。
あくまでも覚えるのではなくそこにある音符を読まなければいけないらしい。
優奈はそれが必要な理由を説明した。
「脳裏に描いたメロディは千変万化如何様にも変えられる。
そやから、譜面を見ただけで主旋律である歌曲に如何なる伴奏が相応しいか、あるいは、いかなる歌い方が相応しいかを見出すことができるんや。」
優奈は、譜面を見るとイメージによる音の動きを見て、歌い方を決めるのだそうだ。
それは人が歌っている歌にデュエットで音を被せる際にも使える。
聞いた音からイメージを膨らませ、どの音がいいかを瞬時に判断する。
従って優奈は知らない歌でも多少遅れながらも即興でハーモニーを奏でることができるという。
今日できないことはわかっていても、今後の課題として美空に続けてほしいことの一つだそうだ。
それから正午近くまで、美空は必死に頑張り、優奈もそれに付き合って種々の助言をしていた。
最後に優奈が曲を一つプレセントしてくれた。
若い女の子の初恋を綴った歌である。
優奈が伴奏をしながら歌った。
テンポが良くてリズム感に溢れるいい曲だった。
そうしてそれを楽譜に落としたものと今の演奏を録音したUSBを渡してくれた。
終了時間は11時50分であった。
それから5人で食事に行くことになって、二台のタクシーに分乗して、北野に向かった。
三日も前に優奈が今日のランチを予約してくれていたようだ。
新神戸駅の近くであり、異人館が立ち並ぶ区画の端にもあたる。
今日は日曜日なので観光客が多かった。
そうして若い女性が特に多い場所でもある。
レストランSt. Jorge Japanは、一方通行の道路に面しているので東急ハンズの辺りでタクシーを拾って三宮駅の北に延びる道路を山側に登ってから右折するのだが、その右折箇所からは異人館通りと呼ばれて観光客の姿が特に多い場所なのである。
タクシーがその中を突っ切って来るのだから、それがよくわかる。
予約段階で既に料理は頼まれていた、
ランチではあるがコース料理である。
お魚も出て肉も出るから本格的な洋食になる。
5人で楽しく食事をした。
寡黙な工藤が優奈に質問をした。
「ユーちゃんは、確か古武術の鬼一揚心流の宗家と聞いています。
貴方の腕があれば護衛は不要だと思うのですが、何故我々を雇う様にしたのですかな。
雇い主はキヨちゃんかもしれないが、どうも提案者は貴方の様だ。」
「工藤さん、パトカーが見える場所では犯罪が起きにくいということを知っておられますよね?」
「ええ、プレゼンス効果というやつですな。
警察という存在感が犯罪を未然に防止する。」
「私では、そのプレゼンスにはならないんです。
工藤さんがいることで虫よけになります。
実際のところ問題が起きても対応はできると思っていますが、面倒事に巻き込まれるのが困るんで、それを避けるためなのが第一の理由。
後、気づいているかもしれませんがミーちゃんはバリバリのアイドル歌手で、今はお忍びで神戸に来ていますけど、それをマスコミに知られたくないので目立つお人に塗り壁になってもらったんです。
変装したこの四人の中に護衛対象がいるとは普通は考えません。
だから工藤さんも奇妙な連中のお仲間の一人と考えられています。
中でも一番目立つのは黒一点の工藤さんや斎藤さんで、他の四人はわき役として視線からそれるんです。
それで、無理を言ってお願いをしました。」
「ふむ、なるほど。
ユーちゃんはなかなかの策士のようですね。
正直なところ、我々にそんな利用価値があるとは思っていなかった。
まぁ今後とも、機会があったなら電話をしてみてください。
ユーちゃんが絡む仕事なら最優先で受け付けます。」
「あら、スポンサーのあたしじゃダメなの?」
光台寺さんが
「ダメというわけではないんですが、我々の活動拠点は関空から大阪、京都、神戸までなんですよ。
ミーちゃんの根拠地は東京でしょう?
遠距離に出張する仕事は地の利もないので難しいですよ。」
「ふふ、冗談ですよ。
でも、阪神方面に来て本当に必要になったらお願いするかもしれません。
少なくとも警備保障のガードマンよりは頼りになりそうだから」
デザートと食後のお茶が出ているテーブルに笑い声が響いた。
食事の後は徒歩で異人館通りを西方向へ、あちらこちらに昔ながらの姿をとどめる洋館が散在している。
そうして観光客の多くが歩く場所でもある。
そうした異人館を散策しながら美空と光台寺は久々の休息を味わっていた。
食事以外はほとんどスタジオとホテルにこもりっきりの7日間。
長いようで短かった。
今こうして、普通の観光客と同じように風景を楽しみながら散策できるなんて夢の様だった。
神戸に着いた時はそれこそ必死の想いだった。
優奈に会って、その日から受けたレッスンは地獄にも等しい厳しいものだった。
でもそれをいつの間にか乗り越え、当初は思いもつかないレベルにまで自分が引き上げられた時運命を感じた。
優奈に出会い、優奈に引き上げられたからこそ今の自分がある。
今はどんな歌でも自信を持って歌える。
未だ優奈のレベルには達していないし、今後もたどり着けないような気がする。
でも自分で進むだけの力は与えてもらった。
自分と同じ年齢の背の高い美少女。
変装で今は隠しているけれど、爽やかでありながら匂い立つような華やかな優奈が美空は大好きだ。
そうして美空の恩師になった女性でもある。
美空は優奈に尋ねた。
「ユーちゃんは私の先生だけれど、これからもお友達として手紙やメールを出してもいいですか?」
「もちろん、ミーちゃんはウチの大事な友達の一人やから。」
美空はとても嬉しそうに微笑んだ。
午後四時過ぎ、美空と光台寺は3人の見送りを受けながら、東京行きの新幹線に乗った。
新幹線が動き出して間もなく、美空が言った。
「さぁて、明日からが勝負ね。
今までの分を取り返さないと。」
くすっと笑って光台寺が言った。
「そうね、スケジュールを立て直すことから始めなきゃね。
それに、ユーちゃんのプレゼント曲、あれを何とか次の目玉にするよう上に掛け合ってみるわ。
とってもいい曲だしね。ミーちゃんの声にも合ってると思う。」
光台寺は目まぐるしく東京に戻ってからの動きを考えていた。
結局、優奈は、駅伝近畿大会には顔出しもできなかった。
一応マブダチの理子には事情を話して納得はしてもらっている。
近畿大会では神城高は健闘し、京都*南に次いで僅差2位の成績だった。
優奈不在でも結構レベルが高いレースができることを示していた。
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