第91話 11-3 特訓(2)
5人はスタジオを出てホテルに向かった。
時間は11時過ぎ、酔っ払いがあちらこちらにいるのが目についた。
二人をホテルに送り届けると優奈も葉山も阪急三宮駅に向かい、鎌田とは駅で別れた。
鎌田は波止場町にある❆iss FM Kobeに勤務している独身24歳であるが、大倉山近辺にアパ-トを借りて住んでいるらしい。
翌日、優奈が一荷物もある着替えを持って通学、学校の帰りには阪急三宮へ直行、三宮駅の化粧室で着替えと変装を済ませて、ホテル・カイルへ向かう。
阪急三宮駅のコインロッカーには、優奈の制服が収まっている。
帰宅時には制服に着替えて、変装衣装はコインロッカーに収まっていることになる。
ホテルの部屋で暫く歓談した後、午後5時頃にロビーで関空GPFの斎藤卓という人物と会った。
今日から当面金曜日の24時までの契約で、美空の警護を担う人物であった。
身長はさほどでもなく、優奈よりも少し高い程度で180前後であろう。
だが、横幅が凄く広いのである。
優奈は衣服を通してかなり鍛えられている筋肉をうかがい知ることができた。
正しくボディガードである。
彼は毎日夕方5時にはホテルのロビーに現れて、以後ホテルに戻るまでの警護を依頼されている。
土曜日と日曜日は正午から23時までの契約のため、別の人物が来ることになっている。
今のところ予定に変更がない限り工藤俊介という男性が来ることになっているらしい。
間もなく葉山女史も現れ、5時10分過ぎになって少し早い夕食に出かけた。
6時から11時までの特訓を継続するためには、この時間帯で食事をするしかないのである。
今日は簡単にホテルのお隣のビル6階で中華料理のバイキング。
6時までに食べて特訓を開始するためである。
二日目、民謡を1時間続けた後、優奈は新たな課題を美空に与えた。
*香の「I believe」と*ライア・*キャリーの「Without you」を徹底して真似をさせたのである。
優奈はポータブルCDを持ち込んでアンプとつなぎ、二つの曲を流したのである。
その曲に合わせて美空は歌を歌わねばならなかった。
しかも*香の「I believe」は、*香の歌う歌ではなく城*海の歌う「I believe」であった。
美空はわけもわからず悩んだものの、今は優奈に頼るしかないと考えひたすら盲従した。
優奈が注意を与えるとそれに合わせて歌を変え声量を変え、テンポを変えた。
全く異なるタイプの二つの歌は美空を混乱に陥れていた。
特に「Without You」は、自らの限界まで高音を出し、なおかつ声量を上げなければならなかった。
優奈は時折、特別な飲料を美空に与え、1時間に一度はバナナを1本の半分だけ食べさせた。
二つの歌を優奈の持って来た録音CDに合わせて歌うとそれだけで異常に体力を消耗し、5回連続すると立っていられないほど疲労するのである。
その都度優奈が10分間の休憩を与えてバナナを食べさせ飲料を飲ませる。
不思議に美空は復活する。
11時も間近になった頃、美空の声に微妙な変化が生じたようだった。
光台寺のようにいつも美空のそばで聞いていなければわからなかった変化である。
優奈が満足そうに頷いた。
「うん、これなら日曜日までには東京に返してあげられそうやね。
今日はこれでお終いや。
明日は、また1時間はこれと同じ曲ね。
そうして明日出す課題はもう少し厳しいかな。
でもミーちゃんならできる。」
そう言って優奈は後片付けを始めた。
その日ホテルに戻ってから、光台寺がベッドに寝転んでいる美空に言った。
「もう、二日経ったけれど、まだ、横浜慕情の歌を歌っていないね。
何時になったら教えてくれるのかしら。」
「キヨさん。
私ね。
この二日のレッスンで感じたことがある。
私、一応作曲家の緒方さんに教えてもらっていたじゃないですか。
最初は一生懸命だった緒方先生ですけれど、・・・。
二か月ぐらいすると急に意欲が無くなったみたいで、何となく教え方がゾンザイになって来たんです。
理由がわからなかったけれど、今は何となくわかります。
先生には時間が足りなかったんです。
週に二回、2時間だけのレッスンです。
でも昨日と今日のユーちゃんのレッスンは合わせて9時間にもなります。
二日で半月分のレッスンよりも多い時間をやってるんです。
でも、私、週に二回のレッスンでは、前のレッスンで受けた注意を結構忘れていました。
ステージや放送の出番があって、暇が無いから復習する余裕も無かった。
1週間たって先生のところに行ったら多分かなりのところが元の木阿弥になっていたんだろうと思うんです。
多分先生は、それでやる気をなくしたんじゃないかって・・・。
先生が依頼されたのは半年の間だけのレッスンです。
先生にはお弟子さんも多いからプロダクションでもそれ以上のお願いは控えたんだと思います。
でも、それだと、全部で24日分の48時間しかレッスンができないんです。
二か月でその三分の一の16時間もやってそれほど進捗が認められなければ、一人前にするのは無理だと思われたんでしょうね。
だから、時間内でできる範囲のレッスンに留められちゃったんです。
でも、ユーちゃんは違います。
どう言ったらいいのかわからないけれど、多分私のベースを根底からひっくり返して、真っ白な生地に何かを描こうとしているんだと思うんです。
だから『何故こんなこと』をと思うほど、民謡をやらせたり、リズムの違う歌を交互に歌わせたりしているんだと思うんです。
ほら、私とキヨさんでユーちゃんの動画を何度も見たし、聞いたじゃないですか。
ユーちゃん、呆れるほど違う歌を歌い分けていた。それも元歌の歌手以上の上手さで。
多分ユーちゃんは、私に色々な歌を歌わせることでユーちゃんと同じように何でも歌える歌手に育てたいのかなって思うんです。
もしかしたら違うかもしれないけれど、少なくともそのための基礎を今やっているんだなと感じてるんです。
この基礎ができなければ横浜慕情は歌えない。
ユーちゃんが暗黙の裡にそれを言ってると思うんです。
だから、私、絶対に横浜慕情を歌えるようになってみせます。
ユーちゃんが自分の時間を潰してまでやってくれているレッスンなんだから仇やおろそかにできません。
ましてや、こんなに毎日続けられたら、いくら忘れっぽい私でも忘れる暇もありゃしない。
本音を言えば、今日はきつかった。
歌を歌うって物凄く体力を使うことを初めて知りました。
でも何とかやり終えて、ユーちゃんから何とかなりそうって言われた時が一番幸せだった。
キヨさんにも迷惑かけますが、明日も私は頑張ります。」
そう言ってにっこりと笑った美空であるが、10分もしないうちに寝息が聞こえ始めた。
どうやら本当に疲れ果てたようだ。
光台寺は予備の毛布を引き出して、そっと美空の身体にかけてあげた。
それにしても美空のすっぴんの肌が綺麗になっているのには驚いた。
これまでは化粧をしていたこともあって目立たなかったが、ニキビなどが結構あったのだが、この二日でそうしたものが見えなくなっていた。
彼女は運動をしているわけではないのだが、6時から11時までのレッスン中にかなりの汗をかいているのには気づいていた。
別にスポットライトが当たっているわけでもないし、部屋の暖房が効き過ぎているわけでもない。
じっと座っているだけの光台寺などはむしろ寒いと感じるぐらいの温度に優奈がエアコンを設定しているのである。
歌うことがそれほどに運動量があるとは思ってもいなかった光台寺にとっては新たな発見でもある。
まぁ、実際にぶっ続けに5時間も歌わされたら下手なワンマンショーの二日分である。
疲れないわけがない。
教える方も良くまた細かい注文を付けるものだと思う。
正しく高校生ができる力量をはるかに超えているし、いわゆる歌謡界の先生方でも優奈ほど的確に指導できる者はまず居ないだろうと思われるのである。
彼女を❆イベックスに取り込むことができれば凄いことになると改めて気づいた光台寺である。
翌日も優奈のレッスンが午後6時から始まった。
葉山女史ことシーちゃんがトイレに立ったのを見越して、光台寺もトイレに入った。
そうして出て来た葉山女史を捕まえて聞いた。
「シーちゃん、教えてくれませんか。」
「ン、何を?」
「ユーちゃんって、凄いじゃないですか。
芸能界に入ったら絶対に売れるし、多分指導者としても能力があると思うのだけれど、・・・。
ご本人に芸能界に入る意思はないんですかねぇ。
何なら、❆イベックスのオーディション部門に話を通しますけれど。」
途端に葉山女史が首を振った。
「そんなことユーちゃんの前で言ったら、レッスン放り出して家に帰っちゃうよ。
彼女が芸能界に入ることは金輪際ない。
そのガードのために私たちがいるんだから。」
「あの、私たち…なんですか?」
「そう、マスコミや芸能プロダクションのあざとい攻勢からユーちゃんを守るために、私たちOGが6人、いや7人がおるんよ。
彼女が芸能界を希望しているなら、もう4年以上も前に入っているわよ。
それだけのチャンスも力量もあったはずなんだから。」
「4年って、そんなに前?
中学生の頃からですか?」
「ええ、一時は奇跡の美少女ってタイトルでネットに写真が載っていたわね。
百年に一人の美少女ってのが副題だったかしら。
今でも検索すればきっと出て来るわよ、
観ればユーちゃんだってことがすぐわかるはず。
その時は、多数の芸能プロダクションが勧誘に動いたらしいけれど、全部討ち死に。
親御さんは本人の意思に任せるというタイプなんだけれど、当の本人がもの凄く嫌がっているもので会わせてさえも貰えなかった。
彼女は当時と同じ考えだから絶対にその話はしちゃだめよ。ミーちゃんが泣くことになる。」
光台寺は多少血の気が引いたまま頷くしかなかった。
その日のレッスンはオペラだった。
JPOPの美空にはさすがに無理だろうと思ったのだが、サラ・ブライトマンの歌に合わせてAVE MARIAを歌い始めた時には光台寺も唖然とした。
ソプラノの声が左程無理なく出せているようなのである。
しかも音程が安定しており、ビブラートもこれまでになく綺麗なのである。
光台寺ならば120点でも出すほどの歌唱であるが、そんな美空に容赦なく優奈の檄が飛ぶ。
彼女自身が手本を見せ、美空の欠点を暴き出す。
今日もまた、何度も美空が大量の汗をかき、声がかすれるまで歌を歌わせられている。
そうして優奈がバナナを差し出し、飲料を飲ませているのだが、光台寺は昨日よりもその頻度が落ちていることに気づいた。
理由は不明だがおそらく美空に耐久力がついてきているのだろうと思った。
美空のレッスンは5日目に入り佳境を迎えていた。
昨日もまたレッスンが変わった。
美空はBeyonseのHaloという一見するとスローなのにアップテンポの歌を要求されている。
これまでは手製の歌詞を渡されていたのだが、それもなしにいきなりCDを聞かせ、真似して歌えという。
音階は勿論だが言葉も音としてとらえ、真似しろと言われたのである。
美空も高校生だから多少の英語はわかるが、とてもネィティブのスピードにはついて行けない。
だが、優奈は英語を聞こうとするなという。
英語ではなく音楽としての音として聞きなさいという。
光台寺はそんな無茶なと思ったが、1時間、2時間と経つうちに美空は徐々にビヨンセの歌に馴染んでいった。
10時半を回った頃にはビヨンセの歌とほとんど変わらない英語で美空が歌っていた。
それでも優奈から細かく厳しい指示が飛んでいた。
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