第85話 10-8 お受験その他(2)

 東急インの前での騒ぎが収まったのが午後7時少し前頃であり、そんなことは全く知らない優奈は午後7時過ぎになって、1階にある『吉祥ダイニング』に降りて来ました。

 夕食を食べるためです。


 特段おしゃれをしているわけではないのですが、長い裾の薄い灰色スカーチョに淡いピンクのサマーセーターを着た優奈はスタイルがいいだけにひどく目立っています。

 ホテルにチェックインした時は、白いブラウスに黒っぽい濃紺のパンタロンとジャケットを着ていたのですが、よりゆったりとした衣装に着替えたのです。


 ウエィトレスが注文を取りに来ました。

 優奈がメニューからセットメニューを注文すると、畏まりましたと言ってから、優奈に言った。


「あの、先ほどは凄かったですよねぇ。

 皆さん、お客様を観にいらしていたんだと思いますけれど・・・。

 前の歩道が通行できなくなるぐらい人が集まっちゃってびっくりしました。

 こんなことは初めてなもんで。」


「ン、お客様って・・・。

 私の事?

 何で人が集まるの?」


「だってユーナさんですもの。

 皆一目見たくなるじゃないですか。

 私だって明日にはきっと友達に自慢していますよ。

 ユーナさんと間近で会って、話をしたって。

 きっとみんな羨ましがります。

 あ、いけない、厨房に注文を伝えなきゃ。

 少々お待ちくださいませ。」


 それから、違うウエイトレスが入れ代わり立ち代わり、優奈の傍を通ってゆく。

 そうして必ず優奈の顔を覗いて行くのである。


 憧れと羨望の眼差しである。

 前世でいやというほど味わったあの感覚は、正直言って今の優奈は嫌いなのです。


 前世では必ずしもそう思ってはいなかったのですが、今では虚像を見られていると思っているから、ある意味で悲しいのですね。

 アイドルは所詮造り物なのです。


 虚飾に塗まみれた演技を、観衆は何ら疑わずに本物と信じて憧れる。

 今の自分はアイドルだった前世と比べて虚飾には生きていないつもりなのですけれど、いつの間にか造られたイメージが独り歩きしているのかもしれません。


 ある意味で危ない話です。

 食事を終えて部屋に戻る際にも従業員の視線がとても熱いほどに痛かった優奈でした。


 翌日7時に起床、バイキングの朝食を摂って、8時半に吉祥寺駅へ、そこから10分足らずで武蔵境駅、武蔵境駅から5分以内で大学の入り口に達しました。

 武蔵境駅の南出入り口から大学正門までは直線で200mの距離しかありません。


 時間的には少し早いのですが、試験に遅れるよりはましですよね。

 9時半から試験が始まりました。


 教室には優奈を含めて四人の受験生がいるだけで、その中で女子は優奈一人でした。

 論文形式の課題は、「日本*医生命科学大学を選んだ理由」及び「愛玩動物」の文字を入れて2000字以内で文章にまとめなさいと言うものでした。


 各自には400字詰め原稿用紙5枚が配られました。

 余白は使っても使わなくても良いと言われています。


 制限時間は9時半から10時半まで。

 優奈は少し考えをまとめた後さらさらと書き始めたのです。


 日本語の文章としておかしくないように、句読点を付け、余白も相応に使いました。

 優奈は家のペットとして飼っていた紀州犬のシロが死んだ時の感情を文章に表し、その際に獣医を志したこと。


 獣医になるために獣医学部のある大学ならばどこでも良いと考える一方で、6年間も住む生活の場としての立地条件を考えると、この大学が首都圏に近いけれど相応の距離があって適度の文化施設にも恵まれており、学生生活を送るのに相応しいのではないかと感じたこと。

 獣医学の先端医療技術のデータベース構築に必要な高速コンピューターの導入に本大学が最も意欲的であること。


 2015年から継続している本大学田畑教授のIPS細胞を利用した治癒技術に関する一連の論文、それに木ノ内助教授のクワッカ症候群に関する考察の論文が興味を引いたこと。

 それらを含めてこの大学を選択した理由とした。


 最新の論文に触れることは有る意味で危険要素もあるけれど、同様の推薦状を持った他の受験者と差をつけるためにはそれぐらい構わないだろうとの計算尽くなのです。

 これらの論文はネットの中でも探そうと思えば探せるのですが、かなり専門的な内容の記述であり、普通の高校生には理解自体が難しい筈なのです。


 優奈は45分で書き上げ、その後は瞑想状態で静かに待っていました。

 小論文の後は、マークシート方式の選択式試験で数学と英語の問題でした。


 優奈は高校1年生の時点でTOEICの試験で満点を取っているのです。

 従って英語の試験には何の問題も無いのです。


 数学の問題も数ある問題集の中から選択された問題であり、問題を見た瞬間に答えがわかるものばかりでした。

 制限時間は45分でしたが、優奈は20分ほどで終了し、他の受験者の邪魔にならないように黙って答案用紙を伏せると残りの時間は瞑想をしていました。


 そんな優奈をテスト監視役の若手職員が不思議そうな顔で見つめていました。

 午前中の試験が終わり、午後の面接試験の部屋、待機場所、時間についての注意事項があり、受験生は一旦解散となったのです。


 昼食は、武蔵境駅の北口側にあるファミリーレストランのロイ*ルホストで済ませました。

 優奈の面接は午後二時からなので、1時間ほどは時間つぶしをしなければなりません。


 優奈は、*トー・ヨーカドーの西館にある大型書店に行き、専門書の在庫を調べてみました。

 残念ながら左程専門書の在庫が多いわけではないようです。


 医療関係の書籍は多少あるものの、専門書はやはり注文して取り寄せになるのだろうと思われます。

 少なくとも半分以上は洋書の筈なのです。


 ペット医療については、かなり日本も進んでいるのですが、いわゆる家畜や動物園などの獣という意味合いでは生態学を含め英独仏が進んでいるのです。

 また特異な生態系があるオーストラリアも独自路線で進んでいます。


 米国およびカナダは、広大な自然の中で野生動物に関心を持っているため、そうした分野に特化して進んだ部分と、西部開拓時代に馬及び馬車の文化を築いたために馬に関する獣医学については相当に進んでいるほか、風土病に関する研究も進んでいるようです。


 従って、専門書では英語、フランス語、ドイツ語を駆使する必要があるかも知れないのです。

 論文もネットにかなり掲載されているのですが、興味を引きそうな話題は結構優良サイトに取り込まれているようです。


 大学間の相互ネットではもう少し踏み込めるはずですが、一般に公開されている情報は意外と少ないようです。

 医学・獣医学とは関わりの無い学術書の立ち読みで時間を潰していると何故か周囲に人だかりができていました。


 皆スマホを構えて優奈の写真を写しているようなんです。

 でもこちらの邪魔をしない限りは、敢えて顔を隠す必要も無いだろうと放置していました。


 周囲を無視して近くにあった洋書を調べ始めました。

 残念ながら恋愛物と推理小説、それにSF物が多かったですね。


 書籍で言うならば、優奈はどちらかというと歴史物が好きなのです。

 そうは言いながら仮に英国史の原書があったにしても、日本人で読む人というのは極めて稀でしょうね。


 そんな本をもうけにさとい書店が置いているわけもないのです。

 そうした本は、どうしても必要があれば古書店などで探すしかないようですね。


 吉祥寺は古書店が多いことでも知られているのです。

 こちらに来るようになったら古書店にも通うことにしましょう。


 そう思っている優奈でした。

 午後1時半になったので優奈は書店を出て、大学の方へ向かいます。


 背後から相当数の人が優奈の後についてきているようなのですが、ここは無視するしかありません。

 優奈が大学の敷地に入ると、流石にそこまで追いかけては来なかったようです。



 面接は三人の先生方を相手に始められました。

 のっけから細かな質問がなされました。


「君の小論文では、本学の教授と助教授による論文が引き合いに出されているが、何処で知ったのかね。」


「ネットの中で検索中に見つけました。」


「ふむ、・・・。

 ネットで一般の人が見ることのできるのは、英文の筈だがそれを読んだということかな?」


「はい、その通りです。


「では、サウラー理論を知っているかね?

 田畑教授の論文には何度か繰り返して出てきているはずだが・・・。」


「サウラー理論とは、米国ボストン大学のサウラー教授が唱えた学説で、IPS細胞にも相性があって融合同化できない細胞が稀に存在するという推論ですが、未だに証明はされていないものです。」


「ほう、何処でそんな知識を身に付けたのかな。

 本学でも5年生あるいは6年生になって初めて勉強する機会があるような知識なのだが・・・・。」


「ボストン大学のサイトから入れる場所に、サウラー教授の論文が掲載されていましたのでそこで知りました。」


「ボストン大学の?

 フム、他の大学ではどんなところを覗いたりするのかね?」


「英国ではオックスフォードとグリニッジ、フランスのパリとモンペリエ、ドイツのベルリン、フンボルトそれにハノーヴァーなどをよく見ます。

 米国ではUCLA、マサチューセッツ、プリンストン、ハーバードでしょうか。」


「ウム・・・。

 君はTOEICが満点の成績の様だが、フランス語とドイツ語も理解するということかね?」


「はい、人並みには理解できるのではと思っています。」


「今一つ、本学に入ってからも陸上競技を続けるつもりかね?」


「学業の邪魔になるようであれば辞めますが、私の陸上競技は生活の糧のためではなくあくまで趣味の範囲です。

 ですから、両立できる限り、続けたいと考えています。」


「本学には馬術部があるのだが、そちらには興味はないのかね?」


「第二校舎の方に厩舎があるようですね。

 たまたまホノルルへ行ったときに牧場で初めて馬に乗りました。

 乗馬を指導してくれたカウボーイの男性からは筋がいいと褒めて頂きました。

 馬は、体格は大きいですがとても可愛いと思います。

 馬術部に入って馬術競技をせよと仰るのなれば試しても宜しいかと思いますが、それもあくまで趣味の範囲と心得ております。」


「なるほど、趣味の欄には器楽演奏も入っているが、歌を歌うのも趣味の範囲かな?」


「はい、但し、歌にしても器楽演奏にしてもそれを生活の糧にしようとは思いません。」


「なるほど、若い子たちが騒ぐわけだ。君にはある種の魅力とカリスマ性があるな。

 少なくとも17、8の小娘が持てるものではないように思えるのだが・・・。

 いずれにしろ、私の個人的見解を言っておくと、君は本学に是非とも入学させたい人材だよ。

 これ以上の質問はないと思うがどうかね?」


 最後の質問は他の先生に投げかけられたものでした。

 二人の先生も笑みを浮かべながらゆっくりと頷いていました。


 優奈の面接はこうして終わりました。

 最後に黙っていた先生の一人に言われました。


「君が来年4月に入学するのを楽しみに待っているよ。

 それまで、元気でな。」


 どうやら優奈の入学は、ほぼ決定したような言い方でした。

 優奈は丁寧にお辞儀をして教室を出たのです。


 時間は午後2時30分を少し回っていました。

 帰りの新幹線は午後5時過ぎの東京発です。


 それまで2時間ほどは、また暇をつぶさなければならないようです。

 取り敢えず、東京駅まで向かうことにしました。


 スーツケースは吉祥寺のホテルのフロントに預けてありました。

 それを受け取って、東京へ向かうことにしたのです。


 吉祥寺へ着いても、駅から何人かの若者が付いて来ています。

 ホテルのフロントで荷物を受け取り、そのまま駅へ向かうと、更に人が増えていました。


 ストーカーのような連中に愛想を振りまくわけにも行かないので、無視してそのまま切符で改札を通りました。

 関東ではSUICAでのようですが、関西ではICOCAであり、それぞれ互換性があります。


 武蔵境と吉祥寺の間はICOCAで済ませたのですが、切符はホテルのある吉祥寺と神戸間を買っているのです。

 駅の中にまで追っかけもついてくるのですが、これは仕方がありません。


 中央線快速電車では、東京駅まで一緒になりそうなのでちょっとげんなりしてしまいます。

 東京駅で途中下車、コインロッカーに荷物を預け、軽く走って一旦追跡を振り切りました。


 東京駅は広いのですが、一旦丸の内方面に出て、皇居前広場を散歩、二重橋を見て桜田門を見て、警視庁の建物を横目に、お堀の脇を歩いて東京駅へ戻りました。

 4キロ足らずの距離をゆっくりと歩くと1時間20分ほどかかり、新幹線のホームで待ってもいいぐらいの時間になっていました。


 コインロッカーの前に行くと数人たむろしているのがいたのですが、無視してスーツケースを取り出し改札口へ。 

 流石に新幹線の改札口の中まで追いかけて来る者は居ませんでした。


 午後5時10分東京発の新幹線で新神戸着が午後8時ごろ。

 荷物があるので新神戸駅からはタクシーで家まで帰ることにしました。


 新神戸駅から家までおよそ3キロ、15分ほどで到着しました。

 吉祥寺でも武蔵境でも追っかけ組がいたようですが、何事もなく戻れたことで、ほっと溜息が出ましたね。


 10月2日、進路指導の先生に受験の状況について報告をしました。

 感触としては入学できそうなことを伝えると先生も大層喜んでくれました。


 神城高校から日本*医生命科学大学へ推薦入学手続きをするのは初めての事らしく、担当の先生も幾分不安であったようです。

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