第94話 車での旅は準備と覚悟が大事

 車に揺られること3時間半、旅館に到着したのは昼を過ぎた頃だった。

 前の方にしていた座席を後ろに下げてから車を降りた汐音しのん

 彼女は急いでドアを開けようとする美月みつきを見てニヤリと笑うと、リモコンでロックをかけてしまう。


「も、漏れるぅ……」

「汐音さん、悪ふざけは勘弁してください!」


 実は美月、30分ほど前からトイレを我慢しているのだ。ようやく旅館に到着してトイレに行けると安心した矢先のこれである。彼女の膀胱は既に限界だ。


「ごめんごめん♪ ほら、行ってきていいよ〜?」


 ロックが解除されると同時に扉を押し開け、下腹部を押さえながらダッシュする美月。

 莉斗はそんな妹の後ろ姿を見つめながら、間に合ってくれと心の中で祈った。


彩音あやねさん、大丈夫?」

「うっ……酔い止め持ってくればよかった……」


 一方、彩音の方は下からではなく上から何かが出そうになっている。

 車が止まってもまだ頭がクラクラするようで、背中を擦りながら駐車場横のベンチまで連れて行ってあげた。


「水持ってくるから待ってて」

「あ、ありがと……うっ……」


 小走りで車の中へと戻り、扉のところに置いてある飲みかけの水を手に取る。

 ちゃんと『あやね』とペンで書いてあるのを確認し、急いで彼女の所へ戻ろうとして、莉斗はふと足を止めてしまった。


「すぅ……すぅ……」

「熟睡だね」


 唯一車の中に残っているミクは、出発して30分後には眠ってしまっていた。

 何だかんだ一番はしゃいでいたし、人に色々と言っておきながら彼女自身も昨晩は楽しみで眠れなかったのかもしれない。

 少しクスリと笑った莉斗は幸せそうな寝顔のミクの頭をポンポンと撫でてから、なるべく音を立てないようにそっとドアを閉めた。


「彩音さん、お待たせ」

「助かるよ。うっ……莉斗君大好き……」

「無理してまで言わないで。僕が嫌々言わせてるみたいになっちゃうし」


 冷たい水が喉を通った後の彼女は、ほんの少しだけ顔色が良くなったように見える。

 一応ここは日陰になっているものの、夏らしい気温をしているから長くいるのも良くないだろう。

 彼はそう判断すると、彩音を背中に乗せて歩き出した。……が、すぐに背後から呼び止められてしまう。


「り、莉斗くん〜?」

「……あっ」


 振り返ってみると、そこにはトランクから出した4人分の荷物を必死に抱える汐音さんの姿があった。

 そうだ、彩音さんだけじゃなく荷物も運ばないといけないのを忘れちゃってたよ。


「2人分持ちますね」

「いやいや、しののんがアヤちゃんを運ぶよ〜♪」

「……お姉ちゃん、何か企んでない?」

「ふふふ、女の子同士はノーカン―――――――」

「まだそんなこと……うぷっ……」

「ちょ、彩音さんを刺激しないでください! 僕の上で吐いたらどうするんですか!」

「責任取ってアヤちゃんが君に純潔を……」

「さ、捧げないからね?! げほっげほっ」

「お願いだから彩音さんはもう喋らないで!」


 大慌てで荷物と彩音を旅館へと運びに行く2人。

 その数分後、誰もいない車内で目を覚ましたミクは、置いていかれたと思って一人で泣いてしまうのだった。


「あれ、ミク泣いてる?!」

「な、泣いてないわよ!」

「ごめん、色々あって後回しになっちゃって……」

「……手、握ってくれたら許す」


 その言葉を聞いて莉斗がギュッと抱きしめると、彼女は「そういうとこ……好きなの……」とまた泣き出してしまい、2人が車から出ようとしたのは更に10分後のことである。


「……あれ、開かない」

「ど、どういうこと?」


 彼らは知らなかった。抱き合っている様子をこの車の持ち主によって目撃され、「私の妹以外となんて許すまじ!」と意図的に閉じ込めれてしまったことに。

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