第49話 気持ちの境界線

「撮影中はなるべく動かないこと。あと、声も出したらダメだかんね〜♪」


 そんな感じで注意事項を伝えられてから、お風呂場にてASMR撮影が始まった。

 今回の動画はシチュエーションものらしく、汐音しのんは床屋で髪を洗う人の役をする。

 莉斗りとは声こそ発しないものの、反応を見るために素直な表情を見せて欲しいと頼まれていた。


「おはこんばんちゃ、しののんだよ〜♪」


 聞き覚えのある最初の挨拶から始まり、泡が飛んでも大丈夫なようにタオル一枚姿でマットの上へ横になった莉斗の髪を濡らしていく。

 ちなみに、汐音に準備段階からずっとTシャツ1枚(ズボン履いてない)で膝枕されているせいで、彼は幸せがエクス〇ロージョンしそうな危機的な状態なのである。


「ゴシゴシ、ゴシゴシ……気持ちいいですか〜?」


 カメラに写るのは彼の髪と汐音の手だけなのに、やけに表情筋が緊張してしまった。

 それが撮影によるものなのか、耳の近くに設置されたマイクに向かって発される囁き声のせいかはわからない。

 ただただ、憧れのしののんの撮影を一番近くで感じられることに終始心を躍らせていた。


「はい、じゃあ今日はここまで! ばいちゃ〜♪」


 開始から30分強ほど経って、汐音はカメラの電源をオフにする。少し残念だけれど、この至福の時間はもう終わりらしい。


「お疲れ様です」

「おっと、まだ起き上がらないでね〜」


 体を起こそうとする莉斗の頭を押さえ、再度自分の太ももに後頭部を埋めさせる彼女。

 彼は少し驚きつつも、自分の髪の状態を認識して大人しく言うことを聞いた。


「まだ泡を流してないからさ〜♪」

「それくらい自分で出来ますけど……」

「じっとしててくれたご褒美だと思ってよ〜」


 汐音はシャワーヘッドを手に取ると、弱めにシャワーを出してそれを自分の手に当てる。

 そして水が適温のお湯になってから、目に水が入らないように注意しつつ泡を流していった。


「はい、これで綺麗になったかな?」

「あ、ありがとうございます……」

「どうした少年、顔が赤いぞぉ〜♪」


 からかうようにケタケタと笑った彼女は湿った莉斗の肌をムニムニとやってから、そっと支えつつ彼の体を起こす。


「洗うの上手だからって惚れちゃダメだかんね?」

「だ、大丈夫ですよ!」

「ふふ、あくまで今回はウィン・ウィンの関係だから頼んだだけ。妹を泣かせるようなこと、お姉ちゃんには出来ないからさ」


 そう言ってポンポンと莉斗の肩を叩いた汐音は、Tシャツの裾を軽く絞りながら「先に体拭いちゃうからちょい待ちね」と風呂場を後にした。


「……憧れと恋愛感情は違いますからね」


 莉斗にとって汐音に向ける気持ちは、あくまで芸能人に対する尊敬のようなもの。

 そして彩音に向けるのは、そばにいて欲しいと願う紛れもない恋愛感情。そこを履き違えない自信だけはあった。


「早く気持ちを固めないとダメだよね……」


 そんな独り言を呟いて、彼は脱衣場から汐音の姿が消えるのを待ち続けた。

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