生死を分けた日陰と日向(歴史:長崎被爆)

 ※ 長崎の被爆について書いています。残酷描写注意です。




 栄子えいこは夫と三人の子供と共に長崎で暮らし始めた。

 六月――二か月前まで夫の仕事の都合で満州にいたが、不穏な雰囲気を悟った夫が帰国を決意し、必死になって日本に戻ってきた。

 子供はあきらめろ。少なくとも一番下の赤ん坊はおいていけ。

 手引きをしてくれた男から言われたが、夫は頑として連れて行くと主張し、なんとか了承を取り付けた。

 そして日本に戻り、親戚を頼ってここ長崎にたどり着いたのだ。

 住む家も決まり、夫は新たな職を探し始めた。

 男手はどこも兵隊に取られ、比較的すぐに仕事は見つかった。夫自身もいつ赤紙がくるかと栄子は案じたが、今年の最初は満州にいたから大丈夫だと夫は微笑を浮かべて言った。

「それなら、来年からは召集令状が来るかもしれないのね」

「そうだな」

 夫は何か付け足しかけて、しかし口をつぐんだ。

「どうしたの?」

「いや。早く平和な世の中になってほしいものだ」

 夫は息子の頭を撫でながら言った。

 後になって思う。きっと夫は「来年まで戦争は続かない」と思っていたのだ。満州の不穏な雰囲気をいち早く察して無理をおして帰国したのだ。日本の情勢がどのようなものか、きっと理解していたに違いない。

 次の日、八月九日の朝、数日前に広島が新型爆弾を落とされて大変なことになっているらしいという話を聞いた。

「やだねぇ。新型爆弾だって」

 栄子にとっていとこにあたる真知子まちこが、自分の畑で取れたきゅうりを持ってやってきて話してくれた。

 彼女はいつも畑で実った野菜を少し分けてくれる。

 長崎に来てから世話になりっぱなしの上に、野菜までもらうばかりでは悪いと、栄子はせめて縫物を引き受けることにした。

 畑仕事ですぐにもんぺが傷んでしまうので助かるわ、と真知子も喜んでくれている。

「新型?」

「うん、すごい威力なんだって」

 なんでも、たった一発の爆弾で、広島市が焼け野原になってしまったそうなのだ。

 山口県からでも東の空に異様な雲が見えたとかいう話だ。まだ詳しい情報は入ってきていないので、被害のほどは誇張されているのかもしれないのだが。

 しかし新型爆弾で広島がやられたという話は本当のようなのだ。

 そんな恐ろしい爆弾があるのかと栄子はおののいた。

「そんな爆弾が落とされたら空襲警報が鳴っても逃げるところがないね」

「栄子ちゃんは子供が三人いるし、さっきの警報の時も大変だったでしょ」

 実は先ほど、十時すぎにも空襲警報が発令され、防空壕に避難していた。

 十時半ごろに解除されたのでそれぞれ家に戻ったのだ。

「ばくだん? ばくだんおちるの?」

 五歳の長男は大人達の話のかろうじて分かるところを拾って尋ねてきた。

「大丈夫よ。兵隊さんが戦ってくれているからね」

 応えながら、ふと夫が言葉を呑みこんだのを思い出した。

 どんな結果になるにしても、ここには落ちないでほしいと栄子は思った。

「あ、そうそう、前にあずかったもんぺ、繕っておいたよ」

 暗い話題から切り替えるために栄子は真知子のもんぺをもってきた。

「わぁ、穴が綺麗にふさがってる。さすが栄子ちゃん」

 畑仕事には精を出す栄子だが、手先はあまり器用ではないようで、縫物は苦手なのだそうだ。

 そんなのだから二十代半ばでまだ未婚なのだと彼女の両親――栄子の叔父叔母はこぼしているが、栄子にしてみれば両親を助けて畑で頑張る真知子は立派だと思う。

「おかあさーん、おなかすいたー」

「ごはんまだー?」

 長男と三歳の長女が異口同音に空腹を訴えてくる。

 一歳の次女はちゃぶ台の周りを這っていた。

「それじゃちょっと早いけど支度しようか、お昼はおいもさんよ」

 芋をふかす支度をする間、真知子が子供達と話をして気を引いてくれていた。

「真知子ちゃんも食べる?」

「ううん、そろそろ帰るわ」

 えー、と子供達が残念そうな声をあげる。

「ごめんね。おねえちゃんの家のお昼ご飯も作らないといけないから。また今度ゆっくりね」

「ぼく、またはたけのくさひきにいくよ」

「うん、ありがとう。待ってるね」

 家を出る真知子を、栄子と子供達は手を振って見送った。

 家に入って、芋をふかしている間に軽く掃除でもしようかしら、と栄子が抱っこしている次女を畳の上に降ろした。

 その時。

 家の中なのに目の前が白くなり、轟音と衝撃が襲ってきた。

 栄子は何が何だかわからないままに気が付いたら崩れた家の隙間にいた。

 いや、自分がどこにいるのか、今何がどうなっているのかも判らなかった。

 口をぽかんと開けて、周りを見る。

 家の屋根が、いや、壁の半分から上が吹き飛ばされて空が見える。

 どうして家がなくなっているの。

 耳が、頭が痛い。

 暑い。どうして急にこんなに気温が上がったの。

 まったく何がなんだか判らない。

 そう考えていたのは一瞬だったかもしれない。

 子供達の泣き声で我に返る。

 無事を確かめようと動こうとして、体中が痛いことに気づく。特に腕が。

 見ると、腕の広範囲がすりむけてしまっている。

 これぐらいなら大丈夫、と改めて子供達を探した。

 次女は自分の近くでひっくり返って泣いている。脚に小さな木片が刺さっているがこれなら抜いて傷口を縛っておけば大丈夫だ。

 長男と長女は玄関であったあたりで転がっている。

 いたいいたいと訴える二人の体を見る。目立った外傷はないが吹き飛ばされて頭や体をぶつけてしまったようだ。

 どこかの家で何か爆発したのかしら、と栄子は次女を抱いて外に出た。

 景色が、一変していた。

 つい先ほど真知子を見送った町とは、何もかもが違っていた。

 家という家がつぶれ、吹き飛ばされ、どれ一つとして原型をとどめていない。さらにあちこちで火の手があがり、つぶれた家を焼き尽くそうとしている。

 栄子の家にもすぐに火の手が回ってきた。

 慌てて子供達の手を引いてその場を離れる。

 家の下敷きになってしまった人が助けて、助けてと訴えてくる。

「うわぁ、おばけっ!」

 長女がひきつった声をあげる。視線の先には体中の皮膚がずるむけになった、性別も判らない人が両腕を前に出して歩いている。確かに、おばけが歩いているように見える。

「水、水……」

 やけどを負った人達はまるで催眠術にでもかかったかのように皆よろよろと歩き、川へと向かっている。

 燃える家から悲鳴が聞こえる。身動きの取れない人が生きたまま焼かれているのだ。

 なんてことだ。

 栄子の目から自然と涙が流れた。

 悲しみというよりは、恐怖と、これから自分達はどうすればいいのかという絶望の涙だった。

「おかあさん、はやくいこう」

 長男がいう。きっと彼なりに恐怖を感じてここから逃げたいのだろう。

 そうだ、夫を探さなければ。

 栄子は夫が働く工場へと向かった。

 しかし、一分を歩かないうちに足が止まった。

 火と煙がまだ残る家の残骸のそばに、真知子と思われる人がうつ伏せに倒れていた。

 すでに息がないのは、一目瞭然だった。

 体中が焼けただれ、髪も焼かれてちぢれ、大きく目を見開いたままピクリとも動かない。

 彼女の足にかろうじて残っている布が、栄子の縫ったもんぺだと気づかなければ、彼女が真知子だとも判らなかっただろう。

『やだねぇ。新型爆弾だって』

 彼女の言葉を思い出した。

 あぁ、これがそうなのか。

 一発の爆弾でこうなってしまうのか。

 自分達が助かったのは、たまたま家の上部が綺麗に吹き飛ばされたからで、この近くの家の人達のように潰されて焼かれていてもおかしくなかったのだ。

 こんなことならもう少し真知子を引き留めておけばよかった。

 いろいろな思いがどっと胸に押し寄せてきて、先ほどとは違う涙が、声と共にあふれ出た。

 最初はきょとんとしていた子供達も、母親の様子に同化したかのように大声で泣き始めた。

 子供達と抱き合って、ひとしきり泣いた後、この子達は守らなければならないと栄子は立ち上がった。

 何もかも焼かれてしまったこの町で、これからどうなるか判らない。夫が無事かどうかも。

 だが前に進まないといけない。

 栄子は子供達の手を引き、歩き出した。



(了)



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 お題:バッドエンド 催眠術 歴史小説(ジャンル)

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