第13話母の名……
……ネット……アネット
どこからか私の名前を呼ぶ声が聞こえる。それはかすかに聞こえるくらいだけど、確かに聞こえてくる。
優しさの中に不安を孕んでいるその声は、何度も何度も私の名前を呼んでくれる。
私はこの声を知っていた。
生まれてきてはいけなかった私を悪者にしないで、私の名前を何度も呼んでくれた声。
心を満たしてくれる私のただ1つだけの宝物
「お母さん」
私は早くこの声に応えないと
お母さん、私は大丈夫だよ。お母さんがいなくても私は生きていけている。お母さんがいなくなっても全然つらくない。全然苦しくない。
それにね、こんな私にも友達が出来たんだよ。とっても優しい2人の友達……
だから安心してお母さん
どんなに帰りが遅くても私は待っているから。もう1人でも生きていけるくらい強くなったから。お母さんに心配をかけないくらい強くなったから
迷惑もかけないし心配もかけない……
だから帰ってきて……お母さん
お願いだから帰ってきて……お願い……もう一度だけそばにいて
………おかあさん、もうあねっとをひとりにしないで……
「アネット……アネット」
今度ははっきりとした声が聞こえていた。
一度胸を大きく波打たせたがそれは心の底から望んでいた声ではなかった。しかしその声にもお母さんと同じ感情が多分に含まれているのは瞬時に分かった。
その声に手を引かれる様に目が覚めると見ている景色は滲んでいた。
滲んでぼやけた輪郭は、くっきりとその姿を見せてはくれない。
それでもアネットは覗き込んでいる正体を知っている。よく見えない表情さえもよく知っている。
この数ヶ月アネットが何度もさせてしまった表情だから。
「良かった。目が覚めた」
「また迷惑をかけたのね……ごめんなさい」
「またそんなこと言って…… 迷惑なんて全く思ってないし、むしろもっとかけてほしいくらいだよ。ね、セツナ?」
「キュイ」
セツナも胸を張って「自分に任せろ」と言いたげである。
でもアネットにはその優しさが恐かった。その優しさをいつの日か、後悔させてしまう時が来てしまう。
初めからそんなもの無ければ、その時が来る事は決してないのに……
数日後、アキトは動けるようになった私を連れてある場所に連れて行ってくれた。
「アネット? 大事な話があるんだ。とてもとても大事な話だ」
「うん、なに?」
「実はね、アネットが意識を失った後、僕とセツナでアネットのお母さんを見つけたんだ。でも……その……見つけた時には、既に遅かった……本当に申し訳ない……もう少しもう少しだけ早く、僕たちが見つけていれば……」
何度も、言うのを躊躇い、まごつきながらもアキトは話してくれた。言い方にも表情にも真剣に考えてくれている事は伝わってくる。
でもアネットは知っていた。その話が嘘であることを
お母さんがもう帰ってこないということも、アキトが嘘をついてまで真実を伝えないようにしていることも
心のどこかでは分かっていたんだ。
お母さんが帰って来なくなったあの日から
でもどうしても認めることは出来なかった。認めてしまったら今度はアネット自身が消えてしまう気がした。
だからお母さんが帰ってこないことにして、それに縋り惨めにも生きていた。
アキトがお母さんを見つけることは不可能だ
(だってあの日お母さんはあねっとのせいで消えてしまったんだから……)
あの日見た夢それは決して夢ではない。まどろむその光景は確かなアネットの記憶だ
あの日、意識を手放す前。熱と痛みが引いていく中で最後に瞳が映したのはお母さんが消えていってしまう瞬間であった。
ただ目の前でその姿を消していってしまう……最後に頬に触れ、その暖かさを感じたのは決して幻ではない……
自分が消えていくというのにアネットを見て微笑むその表情は決して幻なんかではなかったんだ……
どれだけ思っても、どれだけ待っても決して帰ってはこない
(お母さんを消してしまったのは、あねっとだ……)
「あねっとがわるいんだ。あねっとがおかあさんをころしてしまったんだ。あねっとさえいなければ……このめさえなければ……おかあさんは……おかあさんは……」
お母さんを消したくせにお母さんへの涙を流すこの眼がどうしようもなく忌まわしい。
アネットは短剣を取り出すと、忌々しい自分の眼にむけて思いっきり突き立てようとした。
でもすんでのところでアキトに止められてしまった。
「どうしてとめるの! このめさえなければおかあさんはいなくならずにすんだのに! このめさえなくしてしまえば……」
いくら振り払おうとしてもアキトの手は離れてくれない。そしてそれは少し乱雑にアネットの手の中から探検を奪っていった。
「アネット! その眼を壊したらお母さんは帰ってくるのか? お母さんは喜んでくれるのか? そんなわけないだろう! アネットが自分自身を傷つけたとしてもお母さんは決して喜ばない」
「でもこのめがなければ……あねっとがうまれてこなければ……」
「アネットはお母さんが守ったアネットを消してしまうの? アネットのお母さんが生きていた証を消してしまうの? アネットだけはお母さんの事を覚えていないといけない。それがアネットがお母さんにしてあげられる最後の親孝行だ。アネットだけはお母さんが生きていた証を消してはいけない! アネットだけがお母さんを知っているんだから……」
アネットの忌々しい両の目からは、大粒の涙が無数に零れ落ちてくる。
拭っても拭っても枯れない涙はお母さんとの思い出の証。そして、忌まわしいこの眼はお母さんとの思い出を映し出す。
どこまで憎んでもお母さんとの美しい思い出はこの眼が映し出してくれたもの。だったらこれからはそれを大切にして生きていこう。
(お母さんは私がいつまでも覚えているよ……お母さんの暖かさはいつまでも身体を温めてくれているし、お母さんと過ごした時間はいつまでも心を支えてくれている。
だからお母さんの生きた証は絶対になくさない。お母さん安心して。どれだけ離れていてもアネットは忘れないから……)
アネットはどこかすっきりした表情を見せた。それは長い間自分を咎めていた相手を打ち払ったような……ずっと掛かっていた靄が漸くあけたような、そんな表情であった。
アネットが独り決意を固めていると、アキトがまた心配そうにして話かけてくれた。
「アネット? 僕とセツナで、アネットのお母さんがこの世界に生きていた、もう一つの証として墓石を建てておいたんだけど。余計だった?」
アネットの表情を伺うように話してくれるアキトはどこかくすぐったく感じる。
「ううん、そんなことない」
「そう、なら良かった。じゃあ見にいこうか」
森の中に大きく開けられた穴の中にぽつんと置かれた墓石。簡素な作りの墓石には何も刻まれていない。
寂しそうにも見えるそれだが、この森の中において圧倒的な存在感を持っていた。
アネットはおもむろに短剣を取り出すと真っ新な墓石に何かを刻み始めた。
墓石に刻まれた言葉は、アネットがお母さんに向けての言葉。
「届くかな……」
アネットがぽつりと漏らしたその言葉はアキトとセツナに届いていた。
「きっと届くよ」
「キュイ」
自身に満ちた2人の表情はアネットにも自身を与えてくれる。
「お母さんの名前は?」
「リリネット」
そう口にした瞬間、アネットの頭の中にあったお母さんとの記憶がもう一度頭の中を駆け巡った。それはどこか不安定な記憶から明確な記憶へと書き直してくれる。
感情、感覚、姿や声など全てのお母さんとの思い出が、大切な宝物として心の中にしまわれた。
(二度と忘れない)
アネットの胸中を察したのか、今度はアキトが墓石に名前を刻んだ。それはなおも簡素な墓石であったが想いはどんなものよりも詰まっているだろう……
そして刻まれた文字はいつまでも忘れることのない想いを伝えてくれるだろう……
《リリネット お母さん生んでくれてありがとう》
この鬱蒼とした森の中でも、太陽の光は墓石に降り注ぐ。天へと走る光は、さながら天へと続く階段のよう
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