第5話 五日目

 昨日から男の子は帰らず、ずっとこの静かな洞窟に座り込んだままだった。きっとお腹もすいているだろうし、喉も乾いているだろうに。

 私はのっそりのっそり、ぽたりぽたりと落ちるしずくの下に向かった。垂れるそれに手を伸ばしてみるが、やはり素通りしてしまう。

 後ろを振り向いてみるが、昨日から変わらないところに男の子が座り込んだまま。

 このままでは危ないと、どうにかしずくを手に受け止めようとしてみる。私は幽霊だが、地面に立っているのだ。だからきっと、なんとか触れるのではないかと思っている。

 何度もしずくがすり抜けていって、それでも棒のような片手をお椀にするように意識して何度も試してみる。

 ずっとそうやっていると、いつしか光が差し込む角度が変わっていた。


「なあ」


 ずっとしゃべらなかった男の子が声を出して、私はびくりとした。


「なにやってるんだ……」


 少し掠れたような声は、やっぱり喉が渇いているからか。そう思うと是が非でも水をと思ってしまう。


 ぴちゃん。

 

 水の音がして、視線を前に戻すと私の棒のような手に水が落ちていた。

 ぴちゃん、ぴちゃん。一定のリズムで少しずつ溜まるそれを慎重に見守り、ようやく少し溜まったところでのったりのったり、男の子のところへ戻った。


『飲んでください』

「お前……これ、どうやって……」


 片手を出す私に、少し驚いたのか目に力が宿る。

 その顔に私は手を近づけたが、男の子の身体は素通りするのかうまく飲むのが難しそうだった。それでもちびちびと飲み終えて、私はまたのっそりのっそり戻る。そうしてまたしずくを手で受け止めた。


「……お前、幽霊なんだよな?」

『さあ。幽霊なのでしょうが、よくわかりません』

「……お前はさ、俺を空に連れて行ってくれないんだな……」

『そんな事出来ないと思いますし、やる気もありませんよ』

「……やくびょうがみなのにな」

『疫病神?』

 

 私はいつ幽霊から疫病神にクラスアップしたのだろうか?


「お前のことじゃないぞ。俺のことだ」

『神様だったのですか?』


 男の子はため息をついた。


「ちがう。俺は……生まれてきた時に母さんを殺したんだ」

『……まず、赤子は大人を殺す事はできないと思われるのですが』

「そうじゃなくて、母さんは身体が弱かったのに俺を生んで死んだんだよ」

『それはあなたが殺したのではなく、産褥の状況が悪かったのではないでしょうか。それとも誰かがあなたにお母さんを殺したのはあなただと言ったのでしょうか』

「……父さんもじいちゃんも、兄ちゃんもそんなこと言わないさ。母さんは、俺と会いたがってたって。一目見て嬉しそうに笑ってたって」

『そうですか。ではあなたはお母さんに望まれて生まれてきたのですね』

「……でも、父さんも兄ちゃんも俺のせいで死んだ」

『あなたが殺したわけではないのでは?』

「俺がよけいなことをしなかったら死んでなかった」

『そうですか。あなたは殺したかったのですか?』


 男の子はギョッとしたようにこちらを見た。


「そんなことあるわけないだろ!」

『死ねばいいと思った事があるのですか?』

「思うわけないだろ!! なに言ってんだよ!」

『ではあなたが殺したわけではないのでは?』


 再び戻った質問に、男の子は言葉を探すように視線を彷徨わせた。


『私にはあなたのお父さんとお兄さんの気持ちはわかりません。

 ただ、私はあなたに自分を責めて欲しくないと感じています』

「………なんなんだよ……お前」

『……なんなのでしょうね。たぶん幽霊ですけど、あなたが心配です』

「心配?」

『私はもう終わった存在なのだと思いますが、あなたは続いている存在です。

 けれどそれを諦めようとしているのが、見ていてとても心臓に悪い』

「お前、心臓なんてないだろ」

『そうなんですよね……でも、胸のあたりが苦しくなるんです。私はどうもあなたに元気でいてほしいみたいで』

「なんだよそれ……」

『幽霊の戯言ですよ』


 のったりのったり、男の子のところへ慎重に水を運ぶ。男の子は微妙そうな顔をしていたが、私が汲んだ水を口にした。


『外は、もう食べ物はそう多くないのでしょうか』

「ああ……食い扶持を減らすってじいさんやばあさん、それに……」


 それ以上言わず口を噤む男の子。じいさんやばあさんや、ひょっとしたら子供まで、その対象なのかもしれない。あの血走った目をしていた男たちならやりかねないなと思った。

 だけどそれと同時にああなるほど、外の世界は厳しいのだろうとも思えた。人が理性を失ってしまうほど、限界を迎えているのだろうと。

 できるなら男の子には穏やかな世界で笑っていてほしいと思うのだが、所詮幽霊の私だ。こうして水を運ぶのもやっとで、それ以上のことなど――

 のったりのったり歩いていると、視界の端でキラリと光るものがあった。

 何だろうと近づいてみると、そこには蒼い石があった。あたりを見回してみてもそんな色の石や岩は見当たらない。何となく手を伸ばして掴もうとして――掴めた。


『あれ?』

「……どうしたんだ」

『あの、これ』


 またのったりのったり、私は男の子の傍に戻って見せた。


「お前、いろいろさわれるようになったのか?」

『いえ……』


 私は近くの岩に触れようとして、すかっと素通りして見せた。


『どうもこれだけ触れるようで……』


 男の子の手に、コロンと蒼い石を落とす。


「……どこにあったんだ?」


 男の子はまじまじと石を裏返してみたり光に透かしてみたりしていた。


『そこに』

「こんなの、見たことない……」


 光に翳された石はその中まで透き通っており、少しくすんでいるが綺麗な青色を湛えていた。

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