第3話 三日目
昨日もカーンという音で帰ってしまった男の子。
今日も来るだろうかと考えていると、なにやらガヤガヤドタドタ騒がしい音が聞こえてきた。
初めて聞こえる複数の人の音に私は立ち上がった。
「いかん! この先に入ってはならん! 止まるのだ!」
しゃがれた声が誰かを止めようと制止しているが、その相手は無視してどんどんこちらへと進んで来ているようだ。声が近くなっているのがわかる。
「いいから来い! つべこべ言ってないで早く!」
「偉そうにしやがって! いつまで待たせるんだよ!」
苛立った大人の男の声が響いてくる。
私はゾワゾワとする身体を押さえ、後ずさった。
なんとか光の中から動いて壁際に下がった時、カンテラのようなもので照らされた人々の姿が見えた。
ひょろりと背の高い男たちが、小柄な背の老人を引きずっていた。
オレンジ色の暖かい光のはずなのに、その光に照らされいるのはギョロギョロとした大きな目で血走ったように小柄な背の老人を睨みつけているのが不気味で恐ろしい。
「ほら!! 早くしろって言ってるだろ!!」
無造作に老人は投げ出され、ゴツゴツとした岩肌がむき出しの地面に倒れこんだ。
老人を投げた男もその周りの男たちも、髪はぼさぼさで髭は整えられる事もなく伸び放題。着ているものは男の子と同じような簡素な作りだったが、それも薄汚れているような酷い姿だった。
老人は痛みを耐えるように手足を身体に引き寄せていたが、よろよろとそれでも身体を起こして男たちの前に塞がるように立った。
「ここは……聖なる地……只人が訪れてよいところでは、ない」
しゃがれた声の合間に、ひゅーひゅーと細い息の音がしていた。
老人の服は後ろから見ていてもボロボロで、きっと、身体もボロボロなのではないかと思えた。それなのに小柄な背は怯むことなく大きな男たちの前にあった。
「何が聖なる地だ! どこにそんな聖なるもんがあるってんだよ!!」
唾を飛ばす勢いで吠える男たちに、老人の背はそれでも揺るがない。
「只人にはわからぬ。早く出るのだ――」
ガッと、老人は殴られた。その勢いに老人の身体は枯れ枝のように吹き飛び、光の中にあった小石の山にぶつかりバラバラと小石が飛び散った。
喉の奥で悲鳴が漏れた。咄嗟に口を押えた手が震える。
人の荒々しい暴力を目の前に、無いはずの心臓が掴まれたように痛い。恐怖で身が竦む。
「御託はもういいって言ってんだろうがよ!?」
男たちは吠える勢いのままだが、老人は地面に倒れたままぐったりとしている。
そのあまりに力の抜けた姿に不安が押し寄せてきた時、男の一人が老人に近づいて舌打ちをした。
「こいつ、死にやがった」
忌々しそうに吐き捨てられた言葉に、身体が固まる。
今、なんと……?
なんと言った……?
なぜ……人を殺して、そんな言葉を紡げる……
なぜ、そのような事をしておいて、まるで虫をつぶしてしまったとでも言うような軽さで引き返していく……
意味がわからない。あれは何? 人の皮を被った別のナニカ?
呆然としていると、ぽたり、ぽたりと雫が垂れる静寂が戻る。
のったり、のったり。いつもより動きが遅いのは、死者に近づくのが怖いからなのか。男たちが戻ってきてしまうかもしれないと考えるのが怖いのか。
のったり、のったり。薄暗い中、老人のそばに近寄る。
そっと膝をついて近くで見ると、ほんの微かに老人の胸が動いていた。
『どうしてこんな……』
触れようにも触れれない。
助け起こそうにも、どうしていいのかわからなかった。
老人はあちこち殴られていたのか、顔は酷く腫れ血が滲んでいた。
この場所に来てはいけないと、老人はそう言っていた。そう言っていただけなのに、それがこんな事をする理由になるのだろうか。この世界がわからない。
「……?」
老人の目が微かに開いた。
『あ……』
大丈夫ですか、とは言えなかった。どう見ても大丈夫ではなかったから。
「ぁ……なたは……」
聞き取りずらい小さな声で、老人は何かを言おうとしていた。
私はさらに身体を寄せて耳を近づけた。
「ゅり……か、ご……よか……た」
老人は、泣いていた。腫れた顔で嬉しそうに、涙を流していた。
「……る…く、す……を…たの、み……す」
困惑する私に、老人はそこまで言って静かに息を引き取った。
ふわりと、空気が揺らいだ。まるで老人を包むかのようにほんわりとした空気が生まれて、そしてそれはすぅっと差し込む光に誘われるように空へと昇っていった。
もしかしてあれは、老人の魂か何かが空に昇ったのだろうか。
幽霊である私も、本来はああやって空へと昇って行くはずなのではないのだろうか。
老人の身体を前にぼんやりと空を見上げたまま考える。
感じた事のない恐怖に理解できない行為の数々。なんだかここは怖い。行けるなら私も空に行きたいと思った。
どれほどそうしていたのか、ぱたぱたと軽い足音が聞こえて来た。
「じいちゃん! じいちゃん!? いるんだろ!?」
あの男の子の声だ。もうそこまで来ている。
予感はしていた。この老人が誰なのか。
「じいちゃん!? っじいちゃん!」
駆け寄ってきた男の子から御遺体を隠すことも出来ず。埋葬する事も出来ず、その前に晒すしかなかった。
男の子は膝をついて老人に触れる。
「じいちゃん!?」
ゆさゆさと揺さぶるが、老人の反応はない。
「じいちゃん! おきてっ! おきてよ!」
男の子は、初めて会った時からどこか大人びて見えていた。だからきっと、理解しているのだろうと思う。
何度も何度も揺する男の子を止める事も、私は出来ない。
「ねえ! ねえって! おきて! おきてよ……!」
次第に男の子の声が掠れて、濡れてくる。
「おきて…って……おきてよぅ……」
揺する力が弱まっていく。老人の死を拒んでいた心が、否応なく突きつけられる現実に打ちのめされていくように。
「ひとりに……しないでよ……」
一人泣く子を慰める事も、私は出来ない。
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