世界の闇が動き出す④
「なんですか……この悲鳴は……!」
夜更けの騒がしい街中を駆ける桃色髪の女性は、断続的に聴こえてくる男性の叫び声らしきものに顔を歪めた。
それは酷く苦しそうな声だ。
国の英雄として騎士団の最高位を任せられた彼女だからこそわかる。彼等は拷問されている、と。
隠す気もない様子に、今も消息の掴めない妹を攫った相手も含めてイライラが止まらない。こんな事件に構っている暇ではないのに。
「エリス様。どうやらこの悲鳴、街のあちこちで聞こえてくるそうです」
「なっ!?」
傍らに近づいてきた側近の一人がもたらした情報は、エリスに怒り以上の衝撃を与えた。
これが街中でいくつも?
一体、王都サンタマリアで何が起こっているのか。激しく揺れる視線の先では、危険に足を突っ込んだアルテミスの安否のみが一時の幻として映る。
「くっ……! アルテミス……どこに……!」
エリスの呟きは悲しみを背負い、不気味な闇の中に溶けていく。部下の誰もが親しい彼女の心情を察して黙る。
その時、謎の断末魔が一際大きく王都の住宅街に響き渡った。
「近い……」
騎士達はお互いに顔を見合わせて、腰に下げた鞘から剣を引き抜く。例の通り魔だか犯罪者だかよくわからない怪物が、目の前の角を曲がれば自分達を待っているとわかって。
だが、この場にいる誰よりも焦燥感に駆られたエリスに立ち止まるという選択肢はなかった。不安や恐怖を捨て去り、抜刀したまま凄まじい速度で現場に踏み入った。
そこが、この世の地獄とも知らずに。
「――なに……これ……は……」
角を曲がった瞬間、エリスは衝撃に言葉を失った。
視界いっぱいに広がる血と臓物の海。
まだ息をする死体もどきが、エリスと視線を合わせて慈悲を請う。
呻き声と叫びが合わさったそこは……さながら王都サンタマリアの一角とは思えない様相と化していた。
「ッ!」
エリスは歯を、唇を噛み締めた。堪えるためだ。意識を保ち、しっかりと眼前の敵を捉えるためだ。
かつて勇者として先代の魔王を討ち滅ぼした時も、彼女はこういった場面に幾度となく遭遇した。慣れている、とまでは言わないが、まだ平常心を保てる自信があった。例えその地獄を作った犯人が単独犯で、尚且つ女性だったとしても関係ない。
「あらあらあら。この街の騎士様ですかぁ? 意外とお早い到着ですねぇ。それに、貴方の顔は知ってますよ。勇者エリス様?」
身の毛もよだつ量の鮮血を浴びた黒髪の少女が、虚ろな瞳でエリスを見た。瞳の中に宿る深い、強い狂気に当てられてエリスはごくりと生唾を飲み込んだ。
「……こ、光栄ですね。よければ、貴方の事も教えてくださいませんか?」
エリスは気圧されていた。
明らかに年下と思わしき彼女から発された魔力の圧が、自分と同等、もしくはそれ以上の強者だと確信させた。
強い。自分だけならともかく、戦えばまず間違いなく部下達が殺される。かといって彼等がいないサシのタイマンで必ず勝てるという保証もない。
嫌な緊張感が場を支配した。
「くすくすくす。どぉして、貴方に私の事を話さないといけないのですかぁ? ごめんなさい。私、貴方には興味ないんです」
そう言って右手で掴んでいた男の髪を手放す。既にこと切れたあとなのか、地面に顔をぶつけた男は一言も声を発さず、動くこともなかった。
「それよりも、せっかく此処まで来たんですから、皆さんも体験していきませんか? 最高の苦痛をプレゼントしますよ?」
ゆらりと、黒髪の少女アスタロトの姿が幻の如く揺れて消えた。
知覚するより早く、エリスは剣を振るっていた。
「あはっ。流石は勇者様。いい反応ですねぇ」
他の誰もが反応出来ない速度で眼前まで迫っていた凶刃とエリスの振るった剣がぶつかり、けたたましい金属音を響かせる。
「では、一緒に踊りましょう」
アスタロトの抑えていた魔力が解放される。
まるで魔力による津波だ。威圧感だけで騎士達の動きを鈍くする。
「はあああぁぁぁ!」
しかし、唯一エリスだけは飲まれない。己の魔力も解放する事で、アスタロトの暴威を防ぐ。
「くすくすくす。簡単に壊れないでくださいね?」
「遊びに付き合うつもりはありません。妹の……アルテミスの情報を持っているなら、速やかに吐く事をお勧めします。今日の私は、生憎と手加減出来そうにありません」
刀身に乗せた膨大な魔力が衝突を繰り返す。ただそれだけで周囲の地形が壊れ、吹き飛び、暴風が舞う。
これは勇者エリスの戦い方ではない。怒りに任せた醜い剣術だ。世界にたった一人の愛する妹を求める、姉としての本能だ。それをわかっていながら、彼女は止まれない。一分一秒すら惜しいのだから。
「あははははははは! 楽しい! 楽しいですねぇ! 褒めてくれるかな? 貴方に勝ったと言ったら、褒めてもらえるかなああぁ!?」
けれど、魔力を目一杯使ったエリスの攻撃をアスタロトは笑顔で受け流し、同じくらいの魔力で反撃する。しかも彼女は、時間が経てば経つほど込める魔力の量が増えていた。一応、周りの者も巻き込まないよう調節しているエリスとは違い、アスタロトには守るべき者もルールも常識すらない。ただひたすらに暴力を撒き散らすだけの災害と化して、勇者に牙を剥く。
「くっ! 化け……もの!」
「そうですよぉ? 貴方達が見捨てた……化け物ですよぉ!」
文字通りアスタロトは竜巻だった。捨て身とすら思える特攻を掻い潜り、横や後ろに逃げても人間離れした反射神経がエリスの反撃を許さない。鋭くも大砲の如き一撃が繰り返し繰り返し彼女を襲っていた。
周りに待機する騎士達も幾度となく戦闘に参加しようとしたが、アスタロトの間合いに入った途端に返り討ちにあっては、足を引っ張るだけだと割り切ってチャンスを狙うのみとなった。
事実上、これは勇者とアスタロトのタイマンとなる。そして、そうなれば強いのはアスタロトだ。何かを背に、何かを守らなくてはならない勇者と違い、明らかな悪であるアスタロトは遠慮をする必要がない。その点において、彼女は圧倒的有利を掴む。拮抗した戦闘能力にも関わらずエリスが攻めあぐねている理由がそれだった。
「あらあらあら! 大変ですねぇ、正義の味方は。守るべきものが……多すぎる」
アスタロトは容赦なく小さな隙を見つけてはエリスの身体を刻む。傷は浅いが、治癒に回す魔力がエリスには無かった。いくら制約があるとは言え、お互いに本気を出したところで勝敗の分からない相手だ。一ミリの余裕も持てない。
「あはは! 幸せです。これが私。これが生きる事。これが……貴方の道なんですよねぇ?」
戦闘を有利に進めるアスタロトは、昔、憧れていた勇者の悲惨な姿を見て、湧き上がる興奮を抑えられずにいた。いけない。このままでは本当に殺してしまいそうになる。それはダメだ。シリウスやリリス姉様に任せられた役目は、あくまで陽動と勇者の力量を測る事。殺してしまったら、家族全員の夢が遠のいてしまう。
だが、だがそれでもアスタロトは歓喜に打ち震えていた。数年前はゴミ同然に人族の汚い男に殺されかけた自分が、今や人族最強の勇者を追い詰めている事実に。
全ては魔王シリウスのおかげだ。夢も理想も希望も失った自分を救い、正しい道を示してくれた恩人。否、神様。彼が平和を望むからアスタロトや他のメンバーも命を懸けて命令に従う。本当は、平和なんていらないと思っているのに。長女のリリスですら、シリウスと家族以外はいらないと考えているなんて、当の魔王は知らない。溢れる善意から協力してくれていると思っている。
「――アスタロト。そろそろ終わりよ」
改めてシリウスに対する愛情を再確認した事でヒートアップするアスタロトへ、頭上から聞きなれた冷ややかな声が降り掛かる。反射的に勇者を突き飛ばし、視線を真上へ向けると、建物の屋上に見慣れた水色髪の少女が能面を浮かべてアスタロトを見つめていた。
「あらあらあら。セーレ姉様。もうお時間ですかぁ?」
「ええ。シトリーから連絡が来たわ。敵の根城を特定したから、集合してくれってね」
「うふふ。それはそれは上々。暴れたりない気もしますが、姉様達の命令には背けません。これでお終いですね、勇者様」
アスタロトは剣を鞘へ納め、その場で跳躍してセーレの隣に着地する。
「待ちなさい! 逃がしませんよ!」
「まあまあまあ! 人族最強の剣士が、死に急ぐ必要はありませんよぉ? どうか、私達のために生きてください。その時が来ましたら、喜んで殺してさしあげますから」
「たかだか勇者如きが……我らに吠えるな。小さな世界で粋がっていろ」
微笑みと凍るような冷たい視線を向けたあと、アスタロトとセーレは暗闇の中に姿を消した。
エリスは追えなかった。アスタロトだけでも手に余る可能性すらあるというのに、ほぼ同格の仲間が現れては、デメリットの方が大きかったから。
「……私は……無力だ!」
血が滲む程の力で拳を握る。
惨めで愚かで小さな自分が、今までにない憎悪となって彼女の中で燻ぶった。
不穏な影に混ざって。
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