一年前7『第三人格・染崎カヨイの場合』

――――――ハッと意識が覚醒した。


目を開き、辺りの様子をうかがう。私は椅子に座っている。

さっき博士が用意してくれた椅子と、飲みかけのオレンジジュースが近くの機械をテーブル代わりにして置かれていた。目の前には博士が同じように座り、ライカさんがその右後ろで腕を組みながら大きな機械にもたれて立っていた。ついさっきと全く変わらない光景だった。


「やあ、アオイちゃん」


博士がひらひらと手を振る。


「・・・・・・私、今、何をしていたんですか?」呟くように尋ねた。


「どうやらアオイちゃんは記憶がないようだね。なに、今まで君の新しい人格『染崎カヨイ』ちゃんとお話をしていたのさ」


「染崎カヨイ・・・それが新しい子の名前なんですか?」


「そう。なんだかテンションが低い子だったよ、ははは」


博士はからからと笑う。ふとライカさんの方を見ると、ライカさんは静かに頷いた。


「ハルちゃんの方は全部聞いていたんじゃないかな?」と博士。


私は頭の中で『そうなの?ハル』と尋ねた。


『いや、わたしも覚えてないの。まるで記憶にぽかんと穴が空いたような感じ』


時間感覚が鋭敏なハルだからこそそう感じるのだろう。私には何がどれくらい起きたかすらわからない。



「・・・ハルも記憶にはないそうです」


「へえ、そうなると、ふむふむ。それはなかなか複雑な関係だね。カヨイちゃんは君たちが肉体を使っている間の記憶はあるらしいけれどね。どうやら一方通行のようだ。それとアオイちゃんから言葉とかの知識はある程引き継いでいるらしいし、過去の記憶も共有できているみたいだね」と博士は状況を整理するように言った。私はもう一度、ハルに向けて言葉をかけた。


『ハル、カヨイちゃんはそこにいるの?』


『いるよ。隅のほうで大人しくしてる。わたしと同じようにアオイの姿を借りてるから見た目も声も全く同じね』


とりあえず何も問題はなさそうで私はホッと胸を撫で下ろした。唯一、あるとすれば私からは全く知覚できないことだが、幸いハルには見えているようなので、ハルを通じて情報をもらえるので、さほど心配することではない。

ああ、でも仲良くおしゃべりができないのは少し残念かもしれないな・・・。


――――――なんて、アオイは思っているかもしれないけれど、いつどんな理由で現れたかがわからない以上わたしは安心することはできない。


そもそもわたし、染崎ハルが生まれた理由は一般的にいう『解離性同一性障害』だと思われる――――思われるという風に不確かなままなのは、わたしとアオイが自分たちの症例から最も当てはまる精神疾患がそれであると判断したからだ。医者には掛かっていないから正確ではないが、恐らく一番適当な理由づけになっていると思う。

『解離性同一性障害』というのは、簡単に言えば心因性による人格障害で、精神に過度なストレスが負荷されることで、防衛本能から人格を解離させる現象をいう。


アオイの幼い頃のストレスの源、それは親による『虐待』だった。


アオイは当時のことを正確には覚えていないらしいが、彼女からわたしが生まれた理由は間違いなくそれしかないと思っている。

まだ何も知らない幼い時。自分を嬲る親のもとで過ごすしかなかったアオイは孤独だった。誰も守ってくれない、自分を助けてくれない。

頼る人もいない。

だから何よりも味方を欲していた。

アオイはそのような強烈なストレスを抱え、わたし『染崎ハル』を生み出した。お母さんと対面する時、アオイは頻繁にわたしと人格を交替してアオイを避難させた。

アオイの避難先はいつも精神の奥だった。


そんなある日、表と裏の関係にあるわたしとアオイが精神の中で対面した。お互いの存在を認知しながら、わたしたちはそれまで接触することはなかったからそれが初めての対面だった。


それから間もなくわたしたちは友達になった。


自分で言うのも何だが、わたしという存在がいたおかげでアオイは幾分救われてきたらしく、内気ではあるが、今元気でいてくれるのはわたしの本懐でもある。

ちなみにアオイは、わたしの存在を秘匿し続けている。誰にも話さず、頑なに明かそうとしない。そこには誰かに教えて奇異な目に晒されたくなかったことと、治療を施されたくないからという理由があった。だから、専門医にも掛からなかったのだ。

前者はともかくとして、後者の理由に対しては、いわく言い難い気持ちにさせられた。治療を施されたくないとはつまり、アオイはわたしの消滅を拒んだのだ。


それはアオイの友愛の気持ちゆえだった。

『染崎ハル』という『染崎アオイ』から分裂した、ある種姉妹以上の関係にある親友を失いたくないという彼女の想いが、わたしの生命を繋いでいる。


だからこそ、わたしは何があってもアオイを絶対に守ると心の底から誓ったのだ。


・・・話はそれたが、しかし、今回のように新しい人格が生まれた理由は一体何だというのだろう。

両親は離婚し、片親となっても依然愛情を注がれてはいないが、虐待されることはほとんど無くなった。両親が原因で無いとするならば、わたしはこれといった問題が思い浮かばない。

内気な性格ゆえ損をすることは多いが、しかし、決定打にならない気もする。

無論、どんな小さな理由でも、一度解離を経験している人間であるし、何よりアオイの問題なので正確には分からないが・・・。

わたしはいくつか考えてみたがどれも煮詰まらないので、仕方なくカヨイ本人に聞いてみることにした。


ここはアオイの精神世界。その中でわたしは彼女に会う。

染崎カヨイ。

アオイから分かれた、三番目の人格。

少し話してみた感じでは、かなり感情の起伏が乏しく物静かな性格をしていた。ただそれは寡黙で大人しいというよりは低血圧でテンションが上がらなくて気怠いという風な印象だ。


「・・・・・・・・・カヨイちゃん、ちょっとお話ししない?」


「・・・・・・・・・別にいいけど・・・」


カヨイはこちらをチラと一瞥して、か細い声で言った。


「・・・あ、ありがとう」


わたしは、ぎこちなくカヨイと対面に座った。目の前にいると、まるで鏡の前にいるような気分になるほどそっくりな見た目をしていた。

精神世界でのわたしたち別人格はアオイの姿形をそのまま投影しているが、カヨイを見るに、人格が違うことによって雰囲気は違うみたいだった。

カヨイの表情には感情が浮かばない。

目線はこちらに向けてくるが、何か訴えるようなものはなく、全くの無表情だった。瞳の光は気怠さゆえか、少し鈍いが、穏やかで変な隔たりや疑念を感じさせるような色はなく、本当にこちらを見ているのかすらわからないほど無色透明で、真っ直ぐな視線を送って来るのだった。

わたしはどこかそんなカヨイに見とれてしまっていた。


 「・・・・・・喋らないの?」


カヨイのその言葉で、わたしは我に返った。


「あ、あー、えっとわたしは、染崎ハル、で・・・す。よろしく」


明らかにぎこちないしゃべり方で、なぜか自己紹介をしてしまった。


「・・・・・・そんなの知ってるわ」とカヨイの冷静な一言。


「・・・だよね、ハハ」と苦し紛れに笑うわたし。


さて、どう切り出せばいいものか、と悩んでいると「・・・・・・私、あなたのことなんて呼べばいいかわからないわ」とカヨイが言う。


「えっと、ハルでいいよ・・・。わたしもあなたのことカヨイって呼ぶから」


「・・・・・・そう、わかったわ」


「・・・カヨイ、あなたのことを色々聞いてもいい?」


おずおずと聞くと、カヨイはどこか退屈そうに目線を下に落とし、前髪を触りながら「・・・早く終わらせてくれるなら構わないわ」と言う。


「・・・じゃあ、カヨイ。あなたいつからアオイの中にいるの?」


「・・・・・・私が生まれたのは、三日前よ」


「・・・・・・三日前?」


三日前といえば、ええと確か、アオイがここの研究施設に運び込まれたという日だ。

それに気づいたとき、わたしの頭に不穏な考えが浮かんだ。わたしたちが眠らされていた空白の三日間で、まさか意図的に人格を植え付けられたのではないか、という疑念。

そんなベタなSF的展開をまじめに考察するのは馬鹿らしいとも思ったが、先ほど超能力を目の当たりにしたわたしは、そんな非現実的な可能性も捨てきれないと思った。


それにライカさんはさっき、『精神感応能力は持っているけど、そもそもそんな簡単に人格をふやすことなんて出来ないわ』と言っていた。これは言いようによっては、『工夫と時間次第では不可能ではない』という風に捉えることができるんじゃないか。


「・・・まさか、じゃあ、ライカさんの手によって生まれた・・・」


独り言ちるようにわたしの考えが口から洩れた。しかし、それに対してカヨイは「違うわ」とまたも冷静に一蹴した。


「・・・・・・あの人たちは関係ないわ。第一、あの人たちと遭遇したのは三日前が初めてでしょう?」


そうだった。冷静になって考えれば、カヨイが生まれたのは三日前だ。つまりライカさんたちがわたしたちを見つけたその日。人格を即日で創れるなら、わざわざ三日も眠らせる必要もないのかもしれない。即日で創れてその後処理で時間がかかるという可能性もあるがなんとなくそれは滑稽な可能性だな、と思って却下した。しかし、それなら、他に何だというんだ、と頭を抱えた瞬間、わたしは肝心なことを忘れていることに気付いた。


「あ!『ノイズ』!」


あの日、今まで経験したことのない異常が確かにアオイの身に起こっていたことをすっかり忘れていた。


それは頭痛とも、耳鳴りとも違った現象。それでもアオイが気を失うほどの苦しみだった。


「でもライカさんは、あれはただの貧血だって・・・」


わたしが言うと、カヨイはやれやれといった調子で今日何度目かのため息をついた。


「・・・・・・多分、それは違うと思うわ。でも原因は知らないわ。実際ライカさんもわからなかったからただの貧血だと思ったんじゃないかしら。でも貧血にあんな症状はないわ」


「カヨイ、その口ぶりだとあなたノイズを体験したのね?つまり『ノイズ』が起こる前から生まれていたってことなの?」


「・・・・・・いいえ、違うわ」


「じゃあ、あなたは一体いつから・・・?」


「・・・・・・最初の記憶があの『ノイズ』なのよ」


「・・・・・・じゃあ、あなたは『ノイズ』の最中に生まれたっていうの?」とわたしが問うと、カヨイは僅かに悩んでいるような素振りを見せて、静かにうなずいた。


「・・・・・・自分がいつ生まれたなんてそんなの正確には分からないわ。けど私が一番最初に私としての自我を持った時、周りで響いていたのはあの『ノイズ』だったわ・・・」


カヨイの表情に変化はない。相変わらず今にも寝てしまいそうな無気力無表情だが、その声はどこか憂いを帯びているように思えた。


「ねえカヨイ、あなたが生まれたきっかけにあの『ノイズ』は関係してると思う?」


「・・・・・・」


カヨイは黙り込んでしまった。


目線を下に落として、表情にわずかな陰りができていることに気付いた。


その後、数秒経ってカヨイは「・・・・・・わからないわ」と小さな声で言うのだった。

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