一年前8『肉体』
わたしはその後カヨイとの会話の内容を、アオイに伝えた。
そして、アオイはそれをそっくりそのまま伝言ゲームみたいに博士とライカさんに伝えた。
初めは『ノイズ』のことを言おうかどうか少し迷っていたが、最終的には打ち明けることにしたようだ。これまでのいくつかのやり取りを経て、アオイの中で博士とライカさんへの警戒心はほとんど無くなっていた。いや、もともと警戒心を持っていたのはほとんどわたしだけだったが。一方、わたしはというと信頼はできないが、そこまで頑なに敵意を持ち続ける相手ではないと思う程度になっていた。
それでも警戒心を解くことはできないし、わたしとのやり取りを逐一報告するのは未だにあまりよく思わないが、アオイの意思をなるべく尊重して、後はアオイの裁量に任せることにした。
「・・・なるほど。さっきカヨイちゃんと話した時に三日前に生まれていたというのは聞いていたが、まさかその時に、そんなことが起きていたなんてね」と博士。
「・・・私の体、どこか悪いんですかね?」
「うーん、君が運ばれたときに検査はしたけどこれといった異常は見つからなかった。それにその『ノイズ』を人格が増える現象だと結論付けるには、まだまだ材料不足だね。僕の知る限りでは、人格の増え方にそんなケースがあるのは聞いたことないけど」
「・・・ていうか、今更ですけど博士って病気とかに詳しいんですか?」
私の質問に、博士は軽蔑と呆れが入り混じったような複雑な表情を浮かべ、「本当に今更だねえ」とため息をついた。
「僕は生物学の中でも特に生理学なんかから始まり、生化学、生物物理学、解剖学、遺伝学、その他諸々に加えて、実践的な医学の心得だってあるんだぜ?およそ人間の生命現象にはそれなりに精通しているつもりだよ。見くびってもらっちゃあ困るなあ」と言うが、中学生の私にはそれがどれだけすごいかよくわからなかったので「すごいですね・・・」と当たり障りのないことしか言えなかった。
「それで、人格が一人増えたことで君は何か変わったかい?」博士のその言葉に私は少しだけ頭の中に意識を集中させてみて「いいえ、特には・・・」と答えた。
「カヨイちゃんの存在を知ったのがついさっきなので、まだこれといった変化はないです。それに私からはカヨイちゃんがいるって感じることができないし・・・。それがちょっと残念なところではありますけど」
「へえ、君は人格が増えることに恐怖とかはないんだ?ましてやカヨイちゃんを認識できないのに?」
首を伸ばして食い気味に聞いてくる博士に、私は後ろに引き気味になりながら答えた。
「ええ、友達が増えるのは嬉しいですし、私臆病な性格なのでとても心強く思っています」
「なるほど、ね・・・・・・」
博士はどこか意味深に言葉を区切り、ジンジャーエールを一口飲んで、唇をなめた。
「オーケー、じゃあまたハルちゃんと代わってもらっていいかい?」
これで今日何度目の交代になるだろう。今まで一日のうちにこんなに交代したことなかったから私は何だか忙しい日だなと呑気に思ったりする。でもハルも変わることに気を使うことはなくなってきた。それだけは良かったことかもしれない。
「・・・・・・アオイは呑気でいいですよね・・・」
わたしはため息をついた。
「ハハハ、ああいう子が意外に大物になったりするものさ。逆に君は損な役回りのようだね」
「・・・・・・損ではないですが、何かと気を張っていたりはしますけどね。で?まだ何か用ですか?」と、わたしが言うと、博士の雰囲気がおもむろに変わっていくような気がした。
飄々としていた雰囲気が引き締まり、口元は緩んでいるが、目には心の奥底まで見抜くような鋭い眼光を宿していた。そう、それはさっき病室で見た笑顔の引いたライカさんの顔を想起させた。
「ところでほんの好奇心で訊くんだけど、君はいつまでアオイちゃんの中にいる気なんだい?」
「・・・どういうことですか?」
「君たちが分かたれた理由は解離性同一性障害なんだろう?つまり過去にアオイちゃんの精神に過負荷がかかってやむなく君が生まれたっていうことで間違いないよね?」
そう、両親による虐待。
それがわたしの生まれたきっかけ。アオイを助けるために、アオイを守るために生まれた頭の中の隣人。
「・・・・・・そうですけど」
「じゃあ、君は彼女がいつか幸福に満ち溢れた時には、消えてしまうんじゃないかな?実はそういう例は多くてね。ストレス問題を解消するとか、成長して大人になるとか、治療を施すとか、理由は様々だけど主人格の精神状態に良好な変化が訪れたとき、君のような他人格は消えてなくなることがあるそうだ」
・・・わたしは言葉を失った。
しかし、それはよく考えればわかることだった。わたしが生まれた理由、わたしの存在理由、それは『アオイを苦しみから救うこと』。
じゃあ、アオイが救われればどうなる?
もともと泡沫のように儚いこのわたしの存在意義がなくなればどうなる?
答えは、わかっている。“消滅”だ。
アオイの中から『染崎ハル』という人格は消えてなくなる。
「・・・君はいつかその運命を迎える日が来るだろうさ。彼女は内気だそうだけどひょっとしたら以前よりは幾分明るくなったんじゃないのかい?」
まるですべてを知っているかのような博士の言葉は、実は的を射ていた。
昔に比べ、アオイはだいぶ明るい子になった。まるで虐待があった事実が次第に薄れて摩耗していっているように、時間を経るに連れてアオイの心の中は穏やかになっていっているのだ。
「・・・いつか、わたしは・・・消える」
幸せになったアオイはいつかわたしを離れて人生を歩んでいく。わたしは必要なくなる。
―――――でも、アオイが幸せならそれがいいじゃないか。
わたしという負の遺産を抱えて大人になっていくより、何もない『染崎アオイ』というただ一人のほうがいいじゃないか。
そのほうが好いに決まっている、のに――――だけど。
「うん、君がどんな気持ちか僕にはおおよそ見当がついているつもりだよ。それはジレンマだね。本来君にはふさわしくない感情が抑止力として働いて、君にジレンマを生んでいる。けれどそれは仕方のないことなんだ」
「・・・・・・・・・・・・」
わたしはうつむいて何も言えなかった。
「君だって生きたいと思うのは当然さ。だって、君だって――――――――『人間』なんだからさ」
博士はわたしがただの一つの人格に過ぎないのではなく、一個の人間なんだと言う。
その言葉はわたしを揺さぶった。わたしは静かに顔を上げて、博士を見た。その顔にはあの得体の知れない笑顔が戻っていた。
「誰だって死にたくなんてないさ。けれど、君の存在はあまりにも儚い。アオイちゃんの心に温かな風が吹きぬければ消えてなくなってしまう。まるで泡が弾けるように音もたてずに、静かにね」
博士は語る。相変わらずの声音で飄々と語る。
「そこで、これは僕からの提案なんだが―――――」
一旦、間を置いた後、博士が静かに口を開き、言葉を紡ぐ。
「ハルちゃん、君―――――『肉体』が欲しくないかい?」
博士のその言葉は、私へ向けられた運命だった。
沈黙。小さな欲望が清水のように湧き出た。
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