一年前5『意味深なジュース』

ライカさんはわたしに目配せして、一緒に部屋に入りましょうと合図した。


わたしは首肯し、ライカさんに続いて部屋に入った。部屋に入った瞬間、奥の空間からひやりとした冷たい風がそよいできた。

わたしはわずかに身震いをして、部屋を見回すと、またもや驚いた。

とても広い。全身で感じる部屋の異常な広さにわたしは驚愕した。体育館や、施設のホールにいるときと同じ感覚を覚えるほどの巨大な空間が広がっている。見る限りそこは部屋をいくつもぶち抜いたような造りで、鉄骨がむき出しになった壁が荒々しい工事の跡を物語っていた。

具体的な広さは分からない。

なんせ、機材が多すぎて奥のほうまで見渡せないのだ。何に使うか分からない大型の機械がいくつも軒を連ねている様は、まるで巨大なビル群のようだった。大型の機械からは大小さまざまなパイプが入り乱れ、丸太のように太い紫色のチューブが床に何本もごろごろと転がっている。

部屋が寒いのは、どうやらこの大きな機械を冷やしているからのようだ。天井や横の壁から低い唸り声のような不気味なクーラーの音が聞こえる。


「博士、センザキさんを連れてきましたわ」


ライカさんが再びそう言うと、部屋の隅で物音が聞こえた。


「んん、ライカか・・・」


男の柔らかい声が、部屋のどこかから聞こえた。ライカさんはためいきをつき、真っすぐな足取りで紫色のチューブの山に向かった。


「博士、こんなところで寝ては風邪をひきますよ」と呆れ顔のライカさんがかがんで誰かに声をかけていた。チューブの山の中で寝ていたその男は、眠そうに眼をこすりながらもそもそと起き上がってくる。


「ライカさん、この人は・・・」


「この人が研究所で一番偉い博士よ、ハルちゃん」


と、ライカさんは言うが、わたしにはとてもじゃないがそうは思えなかった。


「この人が・・・?」


まず見た目の若さといったら学生とほとんど変わらない。流石に中学生には見えないが、大学生というのなら間違いなく信じてしまいそうな大人と子供の狭間をさまよっている物腰柔らかそうな優男だ。ぼさぼさに伸びた髪に、黒縁眼鏡、色白の肌、中性的な顔立ちはどこか弱弱しさを感じさせ、ライカさんが手を差し伸べて起こそうとする光景は、惰眠を貪る弟を起こそうとするしっかり者の姉のようで、どこか微笑ましささえ感じるのだ。

彼はわたしに気づくと、薄気味悪い笑顔を浮かべて言った。


「・・・やあ、おはよう、染崎アオイちゃん。君が運び込まれたときはどうなることかと思ったが、やれ、元気になったようで安心したよ」


感覚的にだけど、わたしはこのひとの笑顔がなんとなく苦手だった。博士はわたしの手をとり、握手をした。


「博士、違うわ。今はハルちゃんよ」


と耳打ちするライカさん。


「無論入れ替わっているのは知っているよ、名前は知らなかったけどね。ハルちゃんも初めましてだね。僕のことは気軽に博士と呼んでくれたまえ。親しくしてくれて一向に構わないよ」


「は、はあ・・・」


この人もわたしという別人格をしっかり把握しているらしい。


「ところでライカ、機材搬入業者の動きが遅いよ。予定時刻を半刻も過ぎるなんて、人的災害以外の何物でもない。連中との付き合いを再検討するべきだ。その間暇すぎてついうたた寝をしてしまったよ」


「あら、早速身内話?先ずはこのかわいらしいお客様をもてなさなきゃダメだわ」


と言い、ライカさんはまた微笑みかけるが、今になってはこの笑顔も疑わしく思える。


「・・・じゃあハルちゃん、そこに座りたまえよ。飲み物はコーヒーがいいかい?それともオレンジジュース?烏龍茶?」そう訊きながら博士は近くにあったボロ椅子にかかった埃を払い、わたしの前に置いた。わたしは促されるままそこに腰掛け、「別に、何でもいいです」と答える。


博士もわたしの目の前によいしょと腰掛け、ライカさんは右後ろで機械に背を預けて傍観している。相変わらず胡散臭い笑みを浮かべる博士が目の前にいると、何となく居心地が悪いのでわたしは静かに目を逸らす。


「じゃあライカ、適当に頼むよ」という博士。


・・・ライカさんが持ってくるんだ。


「あ、僕はジンジャーエールね」


・・・ジンジャーエールもあるんだ。


・・・何てテキトーな人間なのだろう。


一方、ライカさんはそんなことが日常茶飯事なのか特に何も言わず、さっさと冷蔵庫からオレンジジュースとジンジャーエールの瓶を持ってきた。


「・・・瓶のままでごめんなさいね。紙コップを切らしてて、普通のコップも博士が割ってしまったから今無いの」


「おいおい、それだと僕が悪いみたいじゃないか、ライカ」


「今までで20個も割ってきたくせにどうして悪びれないか不思議なくらいよ。・・・全く、研究以外は本当に頓着がないというか、雑なんだから」


「ま、そんなことはさておきだ。アオ・・・いや、ハルちゃんだっけ。今アオイちゃんは何をしているんだい?」


「・・・・・・アオイですか?起きていますけど・・・」


「なるほど。少しでいいがアオイちゃんとお話をしたいんだけど構わないかい?」と言う博士。


「・・・・・・一体何を話すつもりなんですか?アオイは肉体を交代した状態でも、外界の声や様子を感知できますよ?」


僅かに警戒の色を示してみる。しかし、博士は軽い調子で手をひらひらと振りながら、

「いや、そんなことはどうでもいいんだ。僕はアオイちゃんと直接お話がしてみたいだけ。主人格はアオイちゃんなんだろう?ハルちゃん、アオイちゃんに聞いてみてくれないか?」


わたしはしばし口をつぐむ。


『・・・アオイ、聞いた?』


『うん、聞いてるよ』


『・・・この人たちなんだか怪しいと思わない?』


『んー、どうなんだろう?悪そうな人じゃないけど』


『アオイ・・・警戒心が足りないよ。わたしたちは三日間も眠らされていたんだよ?』


『けど、話を進めないとこれ以上何も分からなそうじゃない?』


『それはそうだけど、どうも不安なんだよね』


『少しだけ交代してみようよ。私お話くらいはできるよ。それに何かあったらハルが助けてくれるでしょう?』


『楽観的過ぎよ。・・・でも、まあ、分かった。交代しましょう。何よりこれはアオイの体だしね。アオイが決定するべきね』


『ハル、私の体はあなたの体でもあるのよ。主人格とかそういうのは気にしないで』


『うん・・・わかってる。とにかく何か危なかったらすぐに代わって。わたしもずっと聞くようにするから』


『うん、大丈夫。いつもありがとう、ハル』


私は博士の顔を見てわずかに微笑んで見せた。


「・・・ディスカッションは終わったかな?」


見透かしたように博士は言った。


「初めまして、染崎アオイです」


私はライカさんの時と同じように自己紹介をした。


「やあ、初めまして」


すると、博士はさっきハルにしたように握手を求める素振りをみせてきたので、私も手を差し出して握手を交わした。


「結構簡単に代われるんだね。なんとも便利な人格交代だ」


「私とハルが起きていて、互いに了承し合えば簡単に代りますよ」


「いいね。催眠術が必要になるならそうしたけれど、手間が省けて助かったよ。君たちは相当仲がいいみたいだね。付き合いも長そうだ」


「ええ、とても仲良しですよ。ハルは私の一番の理解者で、大事な親友ですから」


そういうと私はハルが照れている様子を思い浮かべて、少しだけ楽しい気持ちになった。


「私は臆病でおっちょこちょいだから、いつもハルに助けてもらっているんです。ハルはしっかり者で真面目で、私のことをいつも気遣ってくれる優しい子なんです。それにいつも背中を押してくれて、友達だけど、お姉ちゃんみたいなところもあります」


「うん、素敵な関係じゃないか」


博士はジンジャーエールを飲みながら、うんうんと頷いた。


「けど、ハルがいつからいたのかは・・・もう覚えてないですね。確か小学生の低学年くらいだったような気もしますけど・・・。でも、どうしてそんなこと聞くんですか?」


「なに、僕は生物学全般を扱う研究者でね。君みたいな人格を複数もつ人間に興味あるだけさ。ケーススタディの一環として少しお話を聞かせてくれないかな」


「私みたいなケースを『解離性同一性障害』というらしいですけど・・・別に、探そうと思えばいくらでもいると思いますよ」


「解離性同一障害、心因性のストレスに多く見られる人間の防衛本能の一つだね。それ以外にも神経伝達の異常から見られる精神分裂病、ほかに境界性パーソナリティ障害・・・人格が分かれる症状にいくらでも名前はあるけれど、やれ、そんな原因に僕は面白みを感じないし、どうでもいいんだ」


博士は軽い調子で言う。


「必要なのは分かれた結果だ。人格が複数あればそれでオーケー。解離性同一性障害ならそれはそうで構わない。僕が重点を置くところは、その先にあるからね。こう言うと、ライカはよく研究者に向いていないと言うんだけどね」


「はあ・・・。でも、どうして私に人格が二つあるって分かったんですか?」


博士の見た目は地味だからひょっとしてどこかで会っていて気づかなかった可能性はあるけれど、人目に付くような場所でハルの存在を匂わせるようなことはしたことないのに。


『ひょっとして、ハル?』


『まさか、こんな人は見たことないよ』とハルも言う。


ハルと私は口調もしゃべり方も結構似ているところがあるから、入れ替わってもはっきりとした変化は見つけにくいだろうし・・・。


「はは。ハルちゃんの存在を知ってる理由かい?それはね・・・」


そう言いながら博士がジンジャーエールを飲もうと瓶を傾けたところ、博士の手からジンジャーエールの瓶がつるりと滑り落ちた。


「アッ」


という短い悲鳴がその場にいた三人の口から洩れた。

瓶についた水滴のせいだったのだろうか、博士は慌てて瓶を空中で掴もうとするが、うまく取れずに、瓶はそのまま重力に従って落下していった。


固い床に衝突し、瓶は甲高い音を上げて割れる――――――と思った、その時。


「・・・え?」


私は自分の目を疑った。


あり得ないことに、瓶が空中で静止しているのだ。糸で吊り下げているように、いや、というより時間が止まって空間に固定されているという風に瓶は微動だにせず、あと数センチであわや床に衝突するというところで静かに浮いている。


いや、それだけではない。一瞬の出来事だったが、私はしっかりと見た。


静止した直後、傾いた瓶から零れ落ちそうになっていた液体が、逆再生するビデオのように瓶の中に吸い込まれていき、戻っていったのだ。

一度戻れば瓶から液体が零れ落ちることはなく、まるで時間が凍り付いたように、そこに浮き続けているのだった。


私はわけもわからず博士とライカさんの顔を交互に見た。するとライカさんはため息をついて、博士の顔をジッと見た。


「・・・・・・もう、これ以上何も割らせはしないですからね、博士?」


「・・・いやはや、ありがとうライカ」


博士はライカさんにどこかぎこちない笑みを向けて、空中で静止している瓶を拾った。


瓶は簡単に博士の手におさまる。


「いや失礼した。けれど説明が省けて助かるよ。アオイちゃん、つまるところライカは超能力者なんだ」

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