一年前4『わたしは知っている』

「・・・危ない、危ない。急に話しかけるなんて、ハルったら・・・」


トイレに入ってきた私を探知して、便器が迎え入れるようにカバーを自動で開いた。やる気満々なトイレに申し訳ないが、別に私は用を足したかったわけでもなかったので、便座にそのまま腰を下ろす。


『ハル、どうしたの?』


『・・・少し話がしたいんだ、アオイ』


聞き慣れた声が私の中で響く。私の精神の中で声を発するのは、ハルという友人だった。

私の精神に住み、私をよく知る唯一無二の存在で、有体に言えば、二重人格の別人格というのだろうか。

つまり私の中に住む私以外の存在が、ハルだ。


『ハル。話すのはいいけど、話しかける場所はちゃんと選んでね。急に話しかけられると驚いちゃうから』


『・・・ごめんアオイ。けど、つい・・・』


ハルはいつも真面目で凛とした力強さを宿しているが、なんだかいつもと様子が違っていた。


『・・・アオイ、今だけ出てもいいかな?』


『・・・え?』


私は少しだけキョトンとした。


『お願い、アオイ』


『う、うん。大丈夫だよ、そんな改まって頼まなくても・・・どうかしたの?』


『ごめん、少し気になることがあったんだ』


『・・・よくわからないけど・・・遠慮しなくてもいいっていつも言ってるでしょ?だって私の体は―――――』




「――――わたしの体でもあるんだ、か・・・ありがとう」


目を開けるとトイレのドアが初めに目に映った。次に、わたしは何度か手を開いたり閉じたり動かして、次は軽く足を上げてみた。指の先から、つま先までわたしは丹念に動作確認をする。


「・・・よし」


一通り確認し終えると、一応用を足したようにノズルを引き、水だけ流してトイレを後にした。


「ありがとうございました。綺麗なトイレですね」


ライカさんは帰ってきたわたしを見てニコッと笑い「それは良かったわ」と言った。


「医務室の掃除は私の管轄だから、トイレも張り切って綺麗にしているのよ」


「へえー、お掃除上手なんですね。ライカさんがお嫁さんだったらきっと旦那さんは幸せですね」


「あら、まだ若いのにお世辞を言えるなんて。嬉しいわ」


「いやいや、お世辞なんかじゃないですよ」とわたしが言い、一緒に笑う。


白色の部屋で、あはははと二人の笑いが響く。


「・・・・・・ところで」


落ち着いたところでわたしはふと切り出すように言った。


「・・・ここって本当に病院じゃないんですか?こんなに真っ白で、すごく清潔なのに」


「いいえ、さっきも言ったけどここはただの研究施設の医務室よ」


「・・・ふうん。何の研究をしているんですか?」


「主に生物学の分野の研究かしら。私も大まかに言えば生物学の研究者よ。気になるの?」


「いえ、少しだけおかしいなあ、って思ったんです」


「あら、おかしいって?」


ライカさんはどこか変かしらとキョロキョロと部屋を見回している。


「わたし、倒れていたのに病院に連れていかれなかったのかなーって」


「あら、そんなこと。医学の心得がある人間がこの研究施設にもいるのよ。急だったから私も驚いて直ぐにここに運んできたの。ちなみにあなたは軽い貧血だったみたいね。安心してちょうだい」


ライカさんは優しい笑みを見せた。笑顔のバリエーションが豊かな人だ。

それに比べ、わたしの笑顔はどこかぎこちなかったと思う。


「へえ、貧血、ですか・・・」


「そう。一通り調べたけど、ほかに異常は見られなかったわ。橋の下で倒れているなんてほんと焦っちゃったわ」


「・・・なるほど。それにしても、よく気が付きましたね、わたしが橋の下にいるって。わたし人通りを避けてあんな暗くてジメジメしたところに行ったのに、あんなところに用事でもあったんですか?」


「実は、買い出しに行った時、あなたが橋の下に行くのが偶然見えてね。あそこは不良の吹き溜まりで有名な場所だから、女の子が入っていくなんて危ないなって不安に思って様子を見にいったのよ」


ライカさんの顔には依然として優しい笑顔が張り付いていた。


「それで、ここに運んで回復するまで休ませてくれてたんですね――――」


「そう、今じゃすっかり元気に・・・」


「―――――――三日間も」


徐々にライカさんの顔から笑顔が引いていく。


初めて見る笑顔以外の表情は、彼女の美しさの本質が柔和な感情ではなく、熱の無い冷たい瞳の灯にこそあるのだと知らしめた。


「・・・嘘つかないでくださいよ。わたしは三日間眠らされていたんでしょ・・・?ただの貧血で三日間も眠るとは思いません。わたしに何をしたんですか?」


「・・・・・・・・・」


「・・・・・・ライカさん、わたし恐いんです。あなたは一体何者なんですか?それでここはどこなんですか?嘘をついているのは分かっているんですよ」


わずかな静寂。

ライカさんも、わたしも時間が止まったように動かない。


この時、言い終わってからわたしは「ああ、しまった、やめておけばよかった」と後悔し始めていた。


わたしの言い方は明らかに挑発口調だったうえに、相手の神経を逆なでするようなものだったからだ。

どうして、言葉を選ばなかったんだ。

この状況で不利なのはわたしなのに。

理由があろうとなかろうと初対面の人間を三日間も眠らせていた人がまともなわけがないのに。


後悔が募る。

恐怖が膨れ上がる。

冷や汗が頬を伝った。


その時。


「ふふ」


突如として静寂が破られた。それは小さな笑い声。

不敵な笑みを浮かべるライカさん。

その顔を見て、息が詰まったようにわたしの喉がヒッと鳴った。

不意に冷気で肌を撫でられたように、わたしの体がビクッと震えた。足が動かないせいで逃げ出すこともできないわたしは、既に怯えることしかできない。ライカさんは優しい目を再び向けてくるが、わたしはその瞳の真意を推し測る余裕すらなくなっていたのだ。


「――――――私は、真木ライカよ」


再び刹那の静寂が場を支配した。

それを破ったのは「え」というわたしから洩れた間抜けな声だった。


「なにを言って・・・」


「何者かと言われれば自己紹介しないと、と思ってね。私の名前は真木ライカ。ここで研究者をやっている人間よ。・・・嘘偽りなくね」


「わたしはそんなこと聞きたいんじゃ・・・」


「あら、そう?・・・でも初対面の人にはまず自己紹介するのが礼儀じゃないかしら?」


それに、とライカさんは続け、


「あなたとはまだ挨拶してないはずよね?」


と言った。


「・・・・・・ッ!」


たったそれだけの言葉だったけれど。わたしはライカさんのその言葉の真意をつかみ取り、全てを見透かされていたことを悟った。


この人は、『わたしとアオイが入れ替わったこと』に気づいている!


わたしは力が抜けたようにベッドに腰を下ろした。全てわかっていたのなら、ライカさんのあの優しい笑顔はまるで児戯を眺める親のような気持ちだったのだろう。

何か隠し事があると勘繰り、必死に暴こうとしたわたしの行動も全て彼女の掌の上だったのだ。


「あなたはアオイちゃんじゃないんでしょう?知っているわよ」


「・・・・・・」


黙ってライカさんを見据える。

その顔には既に何事もなかったように優しい笑顔が戻っている。


「主人格と肉体が眠っていたら、あなたも眠るからいいかなと思っていたけど、あなたは眠っていても時間感覚が優れているのね。アオイちゃんは気づいていないみたいだったけど」


「・・・どうしてわかったんですか。わたしがアオイじゃないって」


「私、少しばかり『人間』に詳しいの。多分この研究施設で二番目にね」


ピースサインを作るライカさん。


「・・・けど、少しひどいと思わない?私ってそんなに怪しく見えるかしら?確かに三日間も眠らせて不安にさせてしまったのは申し訳ないけれど、あなたに、いや、あなたたちに変なことはしていないはずよ」


「確かに体は何ともないし、『ノイズ』は消えています、けど・・・」


言いよどむわたし。それを見てライカさんはうんうんと頷く。


「言いたいことはわかるわ、ハルちゃん」


「どうしてわたしの名前を・・・?」


名前がすでにばれている。この人はどうして入れ替わっていたことに、気づいたのだろう。


どうしてわたしの名前を、アオイの別人格『染崎ハル』の名前を知っているんだろう。


「私が、あなたとアオイちゃんが入れ替わったことに気づいた理由が知りたいのでしょう?言ったでしょ?私は『人間』に詳しいって。あなた達が多重人格だってことくらいは知っているわ。それに――――」


ライカさんは自分のこめかみに人差し指を当てて言った。


「――――――私も少し、変わっているのよ?」


と言って少し意地悪な感じで微笑むのだった。


「変わっている・・・ってどういうことですか?」


ライカさんの言葉にわたしは純粋な疑問を投げかけるが、しかし、ライカさんは首をゆっくりと横に振る。


「その前に付いてきてほしいところがあるの。いいかしら?」と言うと、ライカさんは立ち上がり、わたしに手を差し伸べた。


一体どこに行くというのだろう。

わたしは少し逡巡したが、大人しくその手を取り、ライカさんにつられて部屋を出た。

それから二人でただ黙って歩き続けた。階段を降り、いくつか角を曲がった。


ライカさんは途中でどこかに寄ることもなく、目的地に真っすぐ向かっているようだった。しばらくしてライカさんはあるドアの前でピタリと止まった。

そして数回ノックをし、中からの返事を待つ間もなく、ドアを開けた。


「博士、染崎さんを連れてきましたわ」とライカさんは言った。


「はかせ・・・?」


はかせ。ハカセだって。わたしは少し驚く。博士という存在と人生初対面になるからだ。

フィクション作品でしか見たことない博士というものが、まさか現実に存在するとは思わなかった。

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