「7」

「ルゥァックィィィィィィィセブンッ!!」


 私の隣の席、通路を挟んだその席に座っていた奴が突然立ち上がりながら叫んだ。叫んだというよりは奇声を上げたというのが正しいかも知れない。

 あまりの事態に私は声を出しそうになったが、あまりにもあんまりだったために息が止まって耐えることが出来た。


(ヤバいヤバいヤバい!ヤバい奴だ!絶対にヤバい奴だ!関わってはダメ!こんな奴とは関わったら危ない!無視だ無視!徹底的に無視しなくては!)


 こいつはヤバい…本能がそう告げていた。

 平日の昼間、乗客が疎らなバスの車内にはその男と私と数人の老人しかいない。そのバスの車内で何の脈絡もなく急に叫ぶ奴…こんな奴は普通じゃない。関わったら何があるか予測出来るものじゃない。

 老人達は耳が悪くて男の声に気がついていないのか、或いは聴こえないフリをしているのか、そいつに視線を送ることもしていなかった。

 私は老人達と同じ様にそいつを無視することにした。


「ルゥァックィィィィィィィセブンッ!!」


「!!!」


 心臓が飛びそうになった。

 そいつが再び叫んだのだ。それも今度は明らかに私の方を見ながら叫んでいた。

 それでも私は声を出さなかった。

 それは意図的に我慢したわけではなかった。

 本当に驚いた人間は悲鳴すら上げることすら叶わない。

 フィクションの世界では驚いた時に大声で悲鳴を上げているが、あんなものは所詮はフィクションであり、真実を知らない者が作り上げた虚構だ。或いは虚構でないなら心の底からは驚いていないだけだ。

 本当に驚いた人間は悲鳴など上げている余裕はない。

 本当に驚いた時、人間はまともに息が出来なくなる。

 一瞬で激しい運動をした直後のように呼吸困難になる。

 悲鳴を上げること、それは息を吐けるということだ。息を吐けるということはまだ心と身体に余裕があるということだ。

 本当に驚いた時には一瞬で呼吸が止まる。そして、更にその先には思考が止まる。

 幸いこの時点での私はまだ思考までは止まっていなかった。


(息が…苦しい…でも焦って息をしたら男に動揺を見抜かれる…!!)


 私は驚きのあまりに呼吸困難になり、その苦しみに喘いでいた。

 しかし、それでも平静を装うために私は息を吸い続けた。

 私は息を吐くことをやめていた。

 私は息を吐くことが出来なくなっていた。


(苦しい…でもだめ…今息を吐いたら…絶対に声が出る…それはだめ…!!)


 私は普段は意識もせずに吸って吐くだけの呼吸という行為を意図的に操作していた。

 私は息を吸って、吸って、吸って、吸って、吸って、吸って、吸って、吸って、吸って、吸って、吸い続けていた。

 それは、死ぬほどに苦しい呼吸…いや、吸引の連続だった。

 しかし、私の限界は突然に訪れた。


「お嬢さん、そんなに我慢しないでそろそろ吐いちゃっても良いんじゃない?ほら、吐いちゃえよ、つんつん」


「なくっ!?がっ…はっ…っ!!!はぁーーーーーーーーー!!!」


 私は思い切り息を吐いてしまった。

 そして、一頻り息を吐き終えた私は呼吸を整えることや人目を憚ることも忘れて思わず口を開いていた。


「ちょっとアンタねえ!!脇腹つつくのは反則よッ!!しかもなにそのイケボ!!さっきの奇声と違ってカッコ良すぎ!!声優かっつの!!あと、脇腹つつく時につんつんとか言うなッ!!そんな低音ボイスで可愛さアピールしてるつもりか!!」


(あ…やば…頭くらくらする……)


 私は怒鳴ると共に立ち眩みがして意識が遠退くのを感じた。

 そして、私の視界は真っ黒な闇に包まれ、私の意識は真っ白な彼方へと消えていった。


「く……んん…あれ………私は……」


 意識が戻った私は何もなかったかの様にバスの座席に座っていた。

 それは、私が意識を失う前よりも少し前のバスの車内だった。窓の外の景色が何よりもそれを証明していた。


(あれ?何で…ここはさっき通り過ぎた筈なのに……)


 私は直ぐには状況を理解出来なかった。

 しかし、ほんの少しだけ間を置いて頭が働き始めた私は状況を理解した。


(そっか…夢か。そうだよね、急に奇声を上げる奴なんているわけないよね……)


 私は一連の出来事が夢だと悟った。

 私は心の底から安堵した。

 私は心の底から喜んだ。

 私の身体からはまるで筋弛緩剤を射たれたかの様に力が抜けていった。

 本当に心の底から安心した時、人間は全身の力が抜ける。

 私の身体のそれは正しくそれだった。


「!!!」


 突然、私の身体に緊張が走った。

 それは隣にいた。そいつは隣の席に座っていた。

 夢の中にいたそいつはそこにいた。通路を挟んで私の隣の席に座っているそいつは、夢と中と全く同じ奴だった。

 それに気がついた私の身体と意識は一瞬で緊張に支配されていた。


(ウソでしょ…なんで居るの…お願いだからやめてよ…頼むから夢の様な展開にはならないでよ…)


 もうすぐ、あの場所に到達する。

 隣にいるそいつが夢の中で奇声を上げたあの場所に到達する。

 私は祈るように心の中で独り言を呟いていた。

 そして、その場所に到達した時だった。


「ルゥァックィィィィィィィヘブンッ!!」


「セブンじゃねえのかよッ!!!…あ……」


 私は思わずツッコミを入れていた。

 我ながらバカだと思った。

 私はこんな時もツッコミを入れずにいられない私の性質を恨んだ。

 夢の中とは違う言葉を叫んだそいつは私がツッコミを入れたことが嬉しかったのか、満足そうに笑いながら私を見ていた。

 そして、私と目が合った瞬間、そいつは口を開いた。


「お嬢さん、夢の中よりもいいツッコミっぷりだね。90点上げよう」


 そいつの声は夢の中で聞いたよりもさらに低音ボイスのイケボだった。


(そうだ、このまま厄払いしに行こ…)


 意味がわからないその状況の中で、私の意識はなぜかハッキリしていた。

 私は厄払いをしに行こうと決めた。

 そいつは次の停留所で降りていった。

 去り際にそいつは再び叫んで行った。

 その一件以後、そいつの座っていたその席に座ると幸運が訪れるという噂が流れた。

 私はその日の帰り道に彼氏から呼び出されて結婚を申し込まれた。

 七年間待たされた末の結婚だった。


「ルゥァックィィィィィィィセブンッ!!」


 結婚を申し込まれた瞬間、そいつの奇声がした。

 そんな気がした。




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