「9」

「く…」


 それは…

 音の様な声であり、声の様な音だった。


「く…」


 何処からだろう?

 この声は、この音は…

 何処から聴こえたのだろう?

 聴こえた?

 本当に聴こえたのだろうか?


「く…」


 確かにその声がした。

 微かな音だった。

 微かな音で、確かにその声がした。

 聴こえたかどうかはわからない。


「何処だ!?」


 思わず叫んでいた。

 その声に俺は驚いた。

 俺は声を出していた。

 俺が大声を出していた。叫び声と呼ぶにはあまりにも無感情だったが、俺は確かに大声で叫んでいた。


「何処だ!?何処なんだ!?お前は何処にいるんだ!!」


 俺の鼓膜には俺の似た声が響いていた。

 喉から発生したその発声は、口から排出されて耳から入り、鼓膜に響いていた。その声は喉から発生して体内の肉と骨を伝わって響く俺の声とよく似ていたが、微かだが確かに違う俺によく似た誰かの声だった。

 そして、俺の頭の中には俺の声と俺とよく似た誰かの声が僅かにズレて聴こえた。

 そのズレは微かなズレだった。

 そのズレは確かなズレだった。


「く…」


 また声がした。また音がした。

 微かな音で、確かな声がした。

 確かな音で、微かな声がした。


「誰だ!?誰なんだ!?」


 また僅かにズレながら頭の中で俺と俺によく似た声がした。

 俺の声と俺とよく似た誰かの声、その二つの音は二台の壊れたラジオの様にチューニングが合わないままで響いていた。

 それは、眼で視たモノが脳で物体として認識される間にあるほんの僅かな空白、その認識の空白にも似たズレだった。

 微かだが確かなズレだった。


「く…」


「誰だ!!何処だ!!何だ!!」


 その声で俺は気がついた。

 俺はその声の主がわからない。

 俺はその音の場所がわからない。

 俺はその音が声なのかどうかがわからない。


「く……」


 微かなその声、微かなその音は、確かに小さくなっていた。

 初めに聴こえた時より小さくなっていた。

 聴こえた?

 本当に聴こえたのか?

 それは俺に聞こえているのか?


「く………」


 俺は辺りを見回した。

 俺は右側を見た。

 右側には壁があった。白い壁だった。


「く…………」


 俺は辺りを見回した。

 左側を見た。

 左側には壁があった。白い壁だった。


「く……………」


 俺は辺りを見回した。

 俺は天井を見た。

 天井には天井があった。白い天井だった。

 天井からは時代遅れの白熱電球がぶら下がっていた。

 それは白熱電球ではなかった。

 白熱電球に見えたのは一本の縄だった。その縄は丈夫そうだった。

 天井には白色の蛍光灯があった。蛍光灯は光っていた。

 光る蛍光灯は部屋の中を白く照らしていた。


「く………………」


 俺は辺りを見回した。

 俺の前にはドアがあった。ドアは閉まっていた。

 ドアは白くなかった。壁と天井は白いのにドアだけは黒かった。

 ドアは黒かった。そのドアは黒かったが、ドアの周りの壁は白かった。

 ドアノブは銀色だった。恐らく金属だと思われるそのドアノブは銀色だった。

 白い壁、黒いドア、銀色のドアノブがあった。

 そして、ドアの隙間からは黒い光が漏れていた。

 ドアの隙間からは白い闇を照らす黒い光が射していた。

 それは光ではなく闇だった。黒い闇だった。


「く…………………」


 俺は辺りを見回した。

 俺は座ったままで身体を捻り後ろを振り返った。

 俺は気がついた。

 俺は座っていた。俺はずっと座っていた。

 振り返ったが後ろは見えなかった。

 振り返った先には壁があった。

 俺は俺の後ろを確かめることが出来なかった。何度振り返っても後ろは見えなかった。

 後ろを視ようとすると後ろは前になっていた。

 俺は後ろを視るつもりが前を見ていた。


「……………………」


 その声が消えた。

 その音が消えた。


「おい!どうした!?おい!!」


 思わず叫んでいた。

 今度は声に驚かなかった。

 俺は驚かず、気がついた。

 そして、俺は手元を見た。

 俺の手元には女がいた。俺の手元には女の首があった。喉元があった。

 俺の両手には女の首が、喉元が握りしめられていた。

 女は瞼を閉じていた。

 女は舌を出していた。

 女は舌を出して瞼を閉じていた。

 女は動いていなかった。

 女は呼吸をしていなかった。

 女は動かずに呼吸もしていなかった。


「ん?何しているんだ?」


 俺は女に話しかけた。

 女は答えなかった。女は応えなかった。

 女は返事をせず、反応を示さなかった。

 女は黙ったままだった。

 女は黙ったまま何も話さなかった。


「ああ、悪い。今離すよ」


 俺は両手に握った女の首から、喉元から手を離した。

 女は黙ったままだった。

 女から手を離したのに女は何も話さなかった。

 女を離したのに女は話さなかった。


「なんだよ、シカトかよ…あ、そうか」


 俺は気がついた。

 俺は全て気がついた。

 俺は女の身体の上に乗っていた。

 俺はそれに気がついて女の身体の上から俺の身体を退けた。

 女は黙ったままだった。


「…まだシカトかよ」


 俺は黙ったままのこの女を知っていた。

 この女は病院にいる女だと知っていた。

 この女は病院で動き回る女だと知っていた。

 この女は病院の女だった。

 俺はそれを知っていた。


「腹減ったな、飯でも喰うか」


 俺は呟いた。

 俺は腹が減っていた。俺は何か喰いたかった。

 目の前には女が転がっていた。黙ったままの女が転がっていた。

 この女は腹が減っているだろうか?


「お前も何か喰うか?」


 話しかけても女が返事することはなかった。

 俺は無性に腹が減っていた。

 俺の視線の先には女が転がっていた。

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