第26話 刹那の時間を迎える
「おかしいなぁ。もう家に着いてもいいと思うんだけど」
昨日忘れてきてしまったリュックを取りに、僕は神社に来た。お昼の前に無断で出てきたから、きっと爺ちゃんと婆ちゃんが心配している。早く帰らなくっちゃと急ぎ足で爺ちゃんの家を目指していた。
「喉が渇いた……そうだ、水筒!」
リュックに紐でつけた水筒を掴む。でも中身はカラッポだ。
「昨日全部飲んじゃったんだ」
水筒がカラッポだと分かると余計に喉が渇いた。今日は爺ちゃんの時計も持っていないから、今が何時なのかは正確には分からないけど、二時間以上は歩いたと思う。だんだんと足が重たくなってきて、歩くのも遅くなってきた。急に寂しい気持ちになる。
「お母さん……どうしているかなぁ。急に会いたくなっちゃった……爺ちゃんの家に来てから、お母さんを恋しくなること、そんなになかったのに……あ!」
道の横の良く繁った雑草の隙間から田んぼが見えた。その先には僕がよく知る景色があった。アヒルの散歩に来る小川を見つけた。あの小川沿いに進めば家につくはず。歩いてきた道を横に外れて雑草の中に分け入る。
パキ、パキと砂利道の脇に生い茂る草を踏みたたんで、進むべき道を作り出した。田んぼを横切って真っ直ぐに小川へ向うことにする。雑草が生い茂る荒れた土地を少しずつ進む。パキパキと足で踏んで雑草を折っては道を作っていく。
緑の田んぼにたどり着いた。そこからは良く手入れされたあぜ道があって、雑草も短く刈り取られているから格段に歩きやすくなった。ただ、細いあぜ道の地面は、田んぼの水分をたっぷり吸って柔らかくなっていて、足を置く場所を間違えると崩れてしまう。何度も滑って体ごと田んぼに落ちそうになる。白い運動靴は泥で汚れてしまった。
「も~こんな泥だらけ……また心配かけちゃうなぁ」
夏休みに入ってすぐにお母さんに買ってもらった、白い靴が汚れてしまうことが気になっていた。汗だくで進む僕の耳に、ザザザーという音がだんだんと大きく聞えてきた。小さいけれどたっぷりの水が勢いよく流れる、僕がアヒルを連れてくる小川の音だ。見た目よりずっと深くて速い流れが大きな音をたてている。いつもの風景を見てホッとしたけど、すぐに問題に行き当たった。
「どうやって川を渡ればいいの?」
左右を見渡すと一本の木が川の間に渡されていた。橋と呼べないくらいに丸い形のままの丸太橋だ。
「あ、あれを渡るの?」
見慣れた川のはずだったけど、いつもより川幅が広いように見えたし流れもずっと速い気がして、僕は怖くなった。
「こんなの渡れないよ。でも丸太橋を渡らないとすごく遠回りになる……どうする? あの橋を渡れば家はすぐのはず」
僕がアヒルの番をしている場所にも似たような簡単な橋がかかっている。時には丸太橋を渡る人を見たこともあるけど、僕自身は一度も渡ったことはなかった。「危ない」と婆ちゃんに注意されていたし、落ちた時のことを想像すると、普段でも橋に近づくのさえ嫌だった。
晴れた空を見上げるとさっきより雲が増えて、太陽も山裾に落ちてきていている。砂利道へ戻ろうかとも思ったけど、凄く時間が掛かるし帰り道も分からない。たくさん考えて決心する。
「ここを……渡るしかない。渡ろう。町の人達も渡ってるんだから、きっと大丈夫」
慎重に一本木の丸太橋に片足をかける。枝を落しただけで木の姿のままの橋は、皮が剥げ落ち、あちこちが腐っているみたいだった。黄緑色の苔も生えている。深呼吸をしてから、さっき出した一歩目の足に力を入れる。両手を左右に広げてバランスを取りながら二歩目を踏むと、丸太に生えた黄緑色の苔に靴が滑った。
「うぁあ、こ、これ、滑る!」
足の下で川の激しい流れが水しぶきを上げていた。怖い。こんなにも怖かったことは今まで一度もなかった。アヒルと一緒に太陽の日差しを浴びたり風を感じたりした、のどかな小川だとは思えない。強い川の流れは僕を飲み込もうとしていた。よろけるように踏み出した三歩目。四歩目で僕は短い丸太橋の、やっと真ん中に来ていた。バランスがうまく取れない。おでこにも、首にも汗が伝わっていくのが分かる。
「なんでこんな橋を渡ろうとしたんだろ……怖い、怖い、誰か助けて~!」
周りに人の気配は無い。僕の助けを呼ぶ声に返事もない。助けてもらえないことを理解した体は、ますます硬くなってきた。
「あゎわわ」
バランスを崩して声が出た。
「も、もう、だめだ……やっぱり、婆ちゃんの言うことを聞いとけば……」
ザブンン。僕は川の真ん中の、流れの一番速い場所に落ちた。落ちた勢いで頭まで水に潜ってしまう。僕は慌てて顔を出して、流されないように必死で体を動かしたけど、川の速い流れに飲み込まれてどんどんと下流へ流されてしまう。
「た、助けて!……ご、ごぶ、ごぶ、ごぼごぼ」
ときどき顔が水面に出るけれど、たくさんの水を飲んだ。小川の流れは激しく、そして冷たい。水中でもがく僕。何か掴まるものがないか必死で手を伸ばすと、ゴワゴワしたものが手に当たった。思わずそれを掴む。
「え、これは……ロープ?」
農作業のためなのか、川縁に結ばれていた太めのナイロンで出来たロープだった。必死でしがみつく。最後のチャンスだと思った。でも水で濡れたロープは滑って手から離れそうになる。ロープの端っこをギリギリで掴んでいたけど、ついにロープがスルリと手から抜けてしまった。
最後のチャンスが大きな絶望に変わってしまった。僕は小学校では泳ぎは上手な方だったけど、プールで泳ぐのと自然の川で泳ぐのとは全然違っていた。なんとか水面に顔を出しているのが精いっぱいだった。体力も気力も無くなっていく。息が出来ないだけではなく、夏でも冷たい自然の川の水に体温も奪われていく。体は痺れて僕のいうこと聞かなくなった。
助かりたくてもがいていた体に力が入らなくなって、僕の体はグンと重くなる。それまで速かった川の流れが、急に緩やかになった。抵抗を止めた僕を、激しい川の流れが優しく運んでいく。僕にはもう流されているという感覚はなかった。そして静かに僕の体は沈んでいく。青い青い川の底へと。
コポコポ、最後の息が僕の口から溢れる。
(僕は……死ぬのかな)
死ぬなんてずっと先のことだと思っていた。真剣に考えたこともなかった。
(この川はいつも僕に優しかった。居心地の良い場所なのに……なぜ?)
「タカ、刹那の時というのがある。時間はたまにおかしな動きをするんだ。その時は気をつけないといけない。魔が差すというのを知っているか? 普通なら起こる筈もないことや不思議なことが起こる。ほんの短い時間の判断ミスで大変なことが起るんだ」
爺ちゃんの言っていた刹那の時間。そこで僕は判断を間違えたのかも。
(これがそうなのかな……でも、もういいか……)
水の底は穏やで夏の空のように青い。ずっと上の方に揺らめく光が見えた。
(あれが水面? すごく……とぉ……い……よ)
ほんの数メートルが、神社で見た空の果てしなさと同じくらいに感じられた。
(そういえば似てたなぁ……神社で見た木彫りのご神体と男の子……)
意識がなくなる瞬間、最後に思い出したのは不思議な男の子のことだった。
(似ていた……金色の大きな目玉……土地神様の龍の瞳に)
その時、僕のポケットに何かが入っている感じがした。蘇ってくる感触があった。
(これは……あの時の……二階で見つけた……)
僕は最後の力を振り絞ってポケットの中の黒い翼を取り出した。僕は仰向けに沈みながら、水面から届く柔らかい光の方へと翼をかざしてみた。
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