第10話 本当に美味しいもの
いつも十二時半くらいに爺ちゃんと婆ちゃんは帰ってくる。段差のある二階の階段を急いで降りる。最後の二段は一気に飛び降りて一階の踊り場に着地した。すぐに半分くらい開けてある障子に体をねじ込むが、狭くて中々体が出ない。
「このぉ!」
思い切り力を入れると、ドンと居間へ飛び出た。勢い余って囲炉裏に突っ込みそうになり、とっさに囲炉裏の縁に手を突いた。転んだけれど、なんとか灰に顔を突っ込まないで済んだ。
「お~い、タカ、帰ったぞ~」
ギリギリのところで爺ちゃんが玄関から入ってきて、囲炉裏の前で犬のように四つん這いになった僕を見た。
「何をやっているんだ、タカ?」
「えーっと、囲炉裏が珍しくて……ちょっと見てた」
「ふーん、そうか」
爺ちゃんは手を洗いに洗面所に向った。
「タカ、腹は減ったか?」
続けて入ってきた婆ちゃん。一時間前におにぎりを食べたばかりだし、二階での出来事で興奮している僕は、お昼ご飯なんて忘れていた。でも婆ちゃんは僕の空腹を心配している。遠くから聞こえる爺ちゃんの言葉も同じだった。
「婆。早く仕度してやれ。タカは腹が減っただろうからな」
爺ちゃんの言葉に頷く婆ちゃん。寝坊助なのがばれると恥ずかしいのと二階に無断で上ったことも知られたくなかった僕は、黙って居間から台所へと移動する。席に着くと婆ちゃんがご飯をよそってくれた。
夏なので掛け布団がないコタツがテーブルがわり。電源のコードは丸められてガムテープでテーブルの裏に貼り付けてあった。
お昼はいつものおかずが並んだ。漬け物は自家製で婆ちゃんが漬けたもの。小さくて固い小茄子、曲がった胡瓜、水分が少ない大根、全部爺ちゃんの畑でとれたものだ。スーパーで見かける野菜とは形や大きさも違うし、食べたときの歯ごたえも違う。
「漬け物専用に作った野菜だからな。見かけは気にしないんだ」
目玉焼きは牛小屋で飼っているアヒルの卵で作ってある。鶏の卵と違って殻が固く黄身の色も濃い。甘くて濃厚な黄身の味はアヒルの目玉焼きならではのものだ。お母さんの手伝いで鶏の卵を割ることがあるけれど、アヒルの卵は殻が固くって僕にはうまく割れなかった。
小魚の煮付け、これは近所のお店で買っている。魚はすぐそこを流れる小川から獲ったものだ。納豆は豆を砕いたひきわり納豆を、お店から買う。
「ほら、味噌汁も出来たよ」
婆ちゃんの味噌汁。具は茄子と大根の葉っぱだけ。茄子は漬け物に使うものとは違って柔らかくスポンジのような食感がする。味噌汁には後から好みでおぼろ昆布を入れる。乾燥した昆布を剥いて薄くしたものを自分で適量に割いて、味噌汁に入れる。
爺ちゃんはわざわざ昆布の表面の黒い、落としと言う部分を買ってくる。それは昆布の皮の部分で見た目は悪いけど、白っぽい普通の昆布より美味しい。
「タカ、本当に旨い物はスーパーには売ってないぞ。みんなは、本当に旨いものが有ることさえ知らない。まあ、売ってくれと言われても量が少ないから無理だけどな」
「独り占めみたいでずるいなぁ」
僕がそう言うと、爺ちゃんは子供のような悪戯っぽい顔をした。
「知らなきゃ誰もずるいと思わないだろ? 例えばこんな色が悪い昆布を誰が買う? 野菜も売っているものは真っ直ぐで傷など付いていない綺麗なものばかりだ。形が悪い茄子や胡瓜は売れない」
「綺麗な方が売れるのは当たり前だと思うけど?」
「そうだ、当たり前だ。だから本当に旨いもの、貴重なものはみんな知らない。見かけは大事にするが、味には興味が無いんだな」
爺ちゃんの話は難しかった。でも、さっき味噌汁に入れた黒い昆布は、市販の白い昆布よりも海の香りを強く感じさせてくれる気がする。僕には爺ちゃんが言う特別なそれらが「美味しいか?」と聞かれても、本当は良く分からなかった。僕は普通の味に慣れているから。
そんな僕でもハッキリと違いが分かったものが一つだけある。この家のご飯は、本当に美味しかった。わざわざ炊く前に籾殻から精米して白米にして、この家の井戸水で洗い、ちゃんと時間を置いて、隅々まで水を染みわたらせる。最後に米の入った鉄鍋をかまどにかけ、薪をくべて炊く。
「よいしょ。それじゃ肉を焼くか」
大人なら喜ぶかもしれないけど、僕には目の前のおかずは不満だった。だから婆ちゃんはいつものようにガス台に立つ。僕の喜ぶおかずを作るためだ。
婆ちゃんの生姜焼き。醤油とザラメと生姜で作る。とても美味しいけど、子供の僕には少しだけ生姜が辛かった。お母さんが家で同じ量を入れてもこんなにピリッとはしない。
「爺ちゃんの生姜ってなんでこんなに辛いの?」
お茶を飲みながらテレビでのど自慢を見ていた爺ちゃんに聞いてみた。
「うちの生姜は生きているからだな」
「生きている? 野菜って生きているの?」
「そうだ生きている。タカはいつも死にそうな野菜を食っている。だから味が薄いし歯ごたえも弱い。元気な野菜は味も歯ごたえもいい。スーパーで今度野菜に聞いてみろ。元気か? 苦しくないかって」
「ええ!? 答えてくれるの? 野菜が?」
嘘なのか本当なのか決められない僕。学校の理科の時間に植物が喋るなんて教わっていない。婆ちゃんが僕の前に生姜焼きを置いた。
「ほら、タカの好きな生姜焼きだ。少し甘くしてある。爺はタカをからかってないで、少しは休んだほうがいい。今日の午後も暑そうだ」
多めにザラメが入っていた今日の生姜焼き。辛みを打ち消してとっても美味しい。
「おいしいね、婆ちゃん。よし、もう一杯食べる!」
「はい、はい、たくさんお食べな」
婆ちゃんは脇に置いてある丸い木のおひつのフタを開け、ご飯に掛かったフキンをめくり、お茶碗に山盛りのご飯をよそってくれた。
土間のかまどで炊いたご飯は、木で出来たおひつに入れ代える。そしてご飯の表面をフキンで覆うと余分な水分も吸い取ってくれ、長い間美味しいままにしてくれる。
僕は山盛りてんこ盛りの白いご飯を一気に食べる。
「爺ちゃん家のご飯って美味しいね」
爺ちゃんは嬉しそうそうに表情を崩す。
「そうだろ。タカが食べている米は爺ちゃんスペシャルだからな。が、ははは」
爺ちゃんの豪快な笑いが出た。その後も、茶碗の山盛りのご飯を食べ続ける。
「ふぅー、もうお腹一杯だぁ」
ご飯を食べ終えたら急に眠くなってきた。美味しいご飯を食べ過ぎた僕には、さっきの二階の出来事での緊張した疲れ、そして二人が側にいる安堵感に睡魔が襲ってきた。
(あんなに寝たのにまだ眠い。ふぁあああ、だめだ、まぶたが重い……ごはん美味しかった……くぅう……すーすー)
台所で婆ちゃんが片づけをしている音。爺ちゃんが見ているテレビの音。人が生活している音が聞こえると、静かな時より眠くなる。近くに誰かがいるってとっても安心する。
「むにゃむにゃ……もっと食うぞ」
ちゃんと話しているつもりなのに、僕を見た爺ちゃんがテレビの音量を下げ、婆ちゃんも片付けを急いで終わらせて僕の側に座った。もう、殆ど無くなりそうな僕の意識。
婆ちゃんが僕の髪を撫でた。この家に居ると頭を撫でられる回数が増える。可愛いとか大切、そういう言葉はないけど、十分に伝わってくる愛情があった。婆ちゃんの手が心地よくって完全にお昼寝しそうになった僕は、そのあたりから断片的な記憶しかない。
最後に感じたのは、体にかけられたタオルケットのサラリとした感触だった。
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