第5話 汗かきサイダー

 婆ちゃんには僕の大人の挨拶などまったく必要がないようだった。少しぐらいの心の行き違いは、こうして体が触れることで消えてしまう。僕が顔を埋めた婆ちゃんの服や汗を拭く手ぬぐいからは土と麻の匂いがした。


「ほら、家の中に入れ。外は暑かっただろう?」


 婆ちゃんに手を取られ玄関の中へ入る。家の周りのたくさんの木々が、真夏の強い光の中でも家の中を薄暗くしている。土間作りの玄関の壁と床に敷かれた土は、涼しさと湿気を家に与えてくれる。


 僕は婆ちゃんにリュックを渡して、土間で靴を脱ぐと部屋に上がった。僕の膝より高い段差。両手をつきながら障害物競走の要領でのぼると上がり廊下がある。その先には白い紙が貼られた障子。今は開け放たれていて、そこが家の中で一番風が通る。爺ちゃんの家の中心の居間だ。


 居間でも一番風が当たる、大きな窓の前に僕を座らせた婆ちゃんは台所へ向かうと、すぐにお盆を持って帰ってきた。お盆には町の豆腐屋さんのサイダー。薄い緑色のガラスで出来ているボトルが汗をかいている。変わらないボトルに味もずっと同じだった。


 その形と中身は町の大人達には安心を、子供達には「またこれなの?」って少々の不満を持たせるみたい。でも僕は自分の家ではオレンジジュースとかコーラを飲んでいたし、普段は見かけない素朴なボトルのサイダーは珍しかった。


 お盆に出された汗かきサイダーは、今まで冷たい場所にあったことが分かって、今日のような暑い日には特別に美味しそうに見えた。

 でも僕はとても喉が渇いているのに、モジモジしてばかりで婆ちゃんを見ていた。


「どうしたタカ。ほら召し上がれ」

 それでもモジモジしていると、バイクを納屋に入れた爺ちゃんが戻ってきた。爺ちゃんは僕とお盆のサイダーを見て言った。


「婆、タカはまだ自分で瓶の栓を抜けないだろ?」

「あ、そうだったね。うっかりしてたよ」


 お盆から栓抜きを拾い上げ、婆ちゃんがサイダーの栓を開けてくれた。

 シュッ、ポンと心地良い音がして、炭酸がシュワシュワと瓶の飲み口に上ってきた。あふれそうな勢いの泡に、婆ちゃんは急いで僕に瓶を渡して、僕は炭酸の泡がこぼれないように、すぐに受け取った瓶の口をふさいだ。


 暑さとバイクの緊張がなくなり、自分の家からの一人旅を終えたことにホッとした僕の喉を、強い炭酸が心地良く通り抜ける。ちょうどいい冷たさと刺激にサイダーをゴクゴクと飲む。


「旨いだろう? サイダーはそうやって瓶で直接飲むもんだ。コップに注いだら美味しくねぇな。それに瓶は井戸水で冷やしてあるからな」


 爺ちゃんは僕の横に座り、お盆に置かれた井戸水が注がれたコップを口に持っていく。豊富に湧き出す井戸水は、この町で多くの人に使われている。水道を引いていない家もまだまだ多い。その理由を爺ちゃんが僕に話してくれた。


「水道水なんてものはカルキ臭くて、とても飲めたもんじゃない!」


 たしかに水道の水より井戸水は美味しいと僕も思う。美味しいだけではなく、一年中温度が変わらないことも大切みたいだ。冬は温かく夏には冷たく感じる井戸水は、サイダーだけじゃなく、スイカ、トマト、キュウリなど果物や野菜にちょうどいい冷たさと水分を与えてくれる。それが食べ物をさらに美味しくしてくれると、爺ちゃんはよく言っている。


「うん」


 瓶に口をつけたまま、自然に頷いた僕の手の中にある瓶のラベルが少し剥がれている。井戸水で冷やすサイダーの弱点は、水に濡れると瓶に貼られた紙のラベルがシワシワになっちゃうことだ。握っている部分に皺が寄り始めたラベルが気になった僕は、瓶を握り直し、残りのサイダーを飲み続ける。


 僕は人と話しをするのが苦手だった。いつも上手く言葉が出てこなかった。それはまだ僕が子供だからだと思いたいけど、クラスの中には大人のような話し方をする子もいる。普段は話が苦手でも僕は困らなかったけど、僕にもちゃんと自分の意思を伝えたい時があったりする。今のような優しい視線をもらった時に。


(二人に会えて嬉しい。どうやったら伝えられるのかな。何か話さないと……)

 思うほどにぎこちなくなる僕は、今度は二人が喜ぶ話題を考える。でも気が利いた言葉は何も頭に浮かんでこない。

(このままではいけない)

 なんとか感謝の言葉を二人に話そうと口を開いた。


「げっぷ……」

 サイダーの炭酸が出させた言葉だった。クラスの子や大人みたいに、「ごちそうさま」と感謝の言葉は出てこなかったけど、僕の気持ちは二人に伝わった。

「そうか、うまかったか、サイダー。夜はスイカを冷やしてあるからな」

 爺ちゃんと婆ちゃんは、口元を緩め、優しい目で僕を見ていた。


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