前に

彼方 紗季

前に

 その日は少し暑かった。だからきっとそのせいなんだと思う。


     *


 高校二年生、春。新学期が始まって一週間が経とうとしていた。

 朝、目覚ましが鳴る三十分前に気持ちよく目が覚めた。 寝ぐせはひどくなくて、横断歩道の信号は全部青。今日はなんだか調子がいい。いつも混んでいる歩道には僕と今すれ違ったサラリーマンだけ。なんだ、少し早いだけでこんなに空いているのか。


 家から徒歩二十分、自転車通学の許可は下りない。近いけど微妙な距離。誰かと待ち合わせするようなタイプではないし、そもそも近所に同じ学校の人がいない。いつもは少し狭い道を塞ぐように歩いている制服の集団があちこちにいて、僕はその一つ一つの集団を自然なスピードで通り抜ける。どの集団も仲良さそうに笑い合っていて、羨ましい。でも、その笑う対象が自分ではないだろうかなんてことを思ってしまうことがある。僕が通り抜けたタイミングで笑い声が聞こえるとどうしてもそうとしか思えない。

 「自意識過剰にも程がある」

 なんて言われたら、まったくもってその通りだと思うだろう。理解はしているけど止められない。誰も僕のことを気にもかけていないだろう。きっと。


 今日は朝からそんな暗い思考をしなくて済んだ。だからやっぱりなんだかいい日かもしれない。いつもより早く着いてしまいそうだからゆっくり歩こう。そう思っても足は地面を蹴ってどんどん進んでいってしまう。

 いつもの癖。

 なんて恐ろしい言葉なのだろう。一緒に登校する人がいればこんなにせかせかと歩かなくても良かったのだろうか。自分の性格を少し恨んだ。


 坂を上って下りて、また上ってを繰り返し、学校まであと五分くらいのところだった。誰もいないと言ってもいいほど道は空いているのに、どんどん僕の足は先に行こうとする。

 少し暑いな。

 じわじわと何かが肌を覆ってきているのが分かって、前に留めていたブレザーのボタンを外した。ベストにすればよかった。

 最後の坂を上り切った時にはもうブレザーを脱いでしまっていた。片手にブレザーもう片方の手はスクバの持ち手を握りしめている。ああ、自転車だったら身軽だったのに。

ああ、なんで今時スクバを使っているのだろう。



 進む方向に目は向いていたが、僕はどこも見ていなかった。角を曲がり、顔を上げた時、彼女の後ろ姿が目に映った。

 彼女は横断歩道の前で立っていた。そして何かに向かって頷くような動作をした。彼女の右の方に視線を移すと軽トラックが止まっていた。

 横断歩道を止まってくれた軽トラックに向かって彼女は会釈をした。

 たったそれだけのことなのに、何故か僕の頭の中はそれでいっぱいになった。

 軽トラックは彼女が横断歩道を半分過ぎたぐらいのタイミングで左へ走っていった。前を歩く彼女をぼうっと見つめながら僕は彼女と同じ道を歩いた。

 「なにあれ、ストーカーっぽい」

 そんなことを誰かに言われたような気がして、僕は彼女から目をそらした。でももう一度、彼女を見つめた。見ずにはいられなかった。どうして彼女から目を離せないのだろう。

 首がちらっと見える長さの少し茶色い髪。真っ白くて綺麗にスカートにしまわれたシャツ。肩にかけられたスクバと手に抱えているブレザー。腿の中間より少し下の丈までのスカート。すらりとした足に膝下まである紺の靴下。綺麗に伸びている背筋。

 彼女はコツコツと静かにローファーの音を立てながらも、流れるように前を進んで行く。彼女を見失ってしまいそうな気がしたのか、僕の歩く速さは少し早くなっていた。


 学校の目の前の信号が赤になった。彼女は横断歩道の少し左手前に立ち止まり、僕は彼女の斜め後ろで立ち止まった。僕の汗は止まらない。臭くないといいけど。

 ちらりと彼女のほうに視線を向けた。彼女の顔は髪に遮られていて見ることが出来なかった。僕は視線を目の前の信号機に戻した。赤信号を見つめながらも視界の片隅に入っている彼女にしか意識はなかった。

 「あの、すみません」

 そう声を掛けたいという衝動に一瞬駆られた。でも、そんなことは勿論出来なかった。

 いきなり知らない人に声を掛けるなんて。第一その後なんて言えばいい。お名前教えてくださいとか言うのだろうか。僕がナンパをする? あり得ない。

 青信号に変わると、僕の足は彼女の足よりほんの少し早く横断歩道を踏んでいた。今更スピードは落とせない。きっと不自然だ。自然な感じで振り返って彼女の顔を見たい、誰なのか知りたい、そう思った。

 しかし、その勇気は僕にはない。      

 そう感じた時。僕はそのまま前を向いて歩いていた。彼女のように流れる速さで。自然に、悠々と。

 

  *


 結局彼女は誰だったのだろう。

 また彼女に会えるかもしれない、明日同じ時間に登校しよう。授業中そのことで頭がいっぱいで、その日の夜は眠れなくてそわそわした。次の日の朝は新品にまだ近いワイシャツと、ブレザーではなくベストを着た。


 けれども彼女には会えなかった。


 その後も何度も懲りずに同じ時間に登校してみた。けれど無駄だった。  

 彼女かもしれない、そう思って校内ですれ違った人を振り返って見たことが何度もあった。けれど、その後ろ姿は彼女のではなかった。同じ高校であるはずなのに、彼女に会うことは一度もなかった。


 その日からあと一か月で二年経とうとしている。僕は今日、高校を卒業する。

 あの時、声を掛ければよかったのだろうか。何としてでも顔を見てしまえばよかったのだろうか。そうしたらこの二年間は変わっていたのだろうか。あの日は調子がいつも通りだったら、彼女に出会わず済んだのだろうか。似ている後ろ姿の人は大勢いるのに、どうして僕は彼女じゃないと駄目なのだろう。少し暑かったからのぼせた、そんな風にしか思えないのに、どうして僕の頭の中はまだ彼女のことでいっぱいなのだろう。

 僕は少しよれよれになったベストを着て、その上からブレザーを着た。

 「あら、そのベスト久しぶりに見るわね」

 「うん」

 「でも今日は暖かいわよ」

 いつもより派手な格好とメイクをした母はそう言ったけれど、僕はそのまま支度を進めた。

 今日も一人、学校に向かう。

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