第45話 旦那さんの事情
「グルーズさんの料理のファンもたくさんいたのだけれど、突然店を辞めてしまったの。
娘さんが病弱でね、空気のいい土地に行くって言って」
娘さんとは、もしやあのベルちゃんのことだろうか?
「すっごく元気な娘さんでしたけど」
なにしろ、たった一人で森へ出かけてしまうくらいに元気だ。
これを聞いて、リーゼさんは「あら、じゃあ元気になったのね。
よかったわ」とホッとした顔を見せた。
「リンク村は空気のいい所だし、水や食べ物も美味しいですものね」
「確かに、そうですね」
リーゼの話に、アキヒサも頷く。
ともあれ、突然店から去って姿を消してしまったグルーズに、ご主人はすごく気落ちしてしまったらしい。
それまで仲がよかったのなら、置いてけぼりにされた気分になったのだろう。
――グルーズさんの方も、相談しても引き留められるのがわかっていたから、あえてなにも言わずに姿を消したとか?
アキヒサの想像でしかないけど、あの人のことだから意地悪でじゃない気がする。
「でもリンク村にいたって知らなかったのなら、あの夫婦は元々あの村が故郷だったとかじゃないんですか?」
「いいえ? 二人とも確か王都の生まれだったはずよ。
だからビックリしちゃったわ」
アキヒサの質問に、リーゼさんは本当に驚いた顔になる。
ということは、リンク村はあの夫婦がベルちゃんのために探して、たどり着いた場所だったのか。
それにそんなにスゴい料理人なら、あの食堂目当ての客がいるのは分かる気がする。
たとえ遠回りでも、美味しい料理って旅の目的にだってなるのだから。
「でも、そんな有名な店にいた料理人なら、すぐに知れ渡りそうなものですけど」
アキヒサの指摘に、リーゼさんが苦笑して答える。
「グルーズさんったら、自分から名声を吹聴するような柄ではなかったし、そもそも立場に執着してもいなかったもの。
だからあっさり店を辞めてしまえたのでしょうし」
なるほど。あまり自己主張する質じゃないというのはアキヒサにもわかる気がする。
けれどこうして紹介状を書いてくれたということは、グルーズの方はこの店の事を知っていたっていうことだ。
「グルーズさんの方は、どうやって知ったんですかね?
ご主人がここで宿をしていることを」
アキヒサの疑問に、リーゼも「う~ん」と考える。
「主人は『独立したい』って言って店を出て、ここに店を構えたの。
だから独立する前から知っているお客様も結構いるの。
そう言う人が、グルーズさんの宿にも顔を見せているのかしらね?」
「確かに、あの宿はグルーズさんの料理目当てのお客さんがいました」
リーゼの推測に、アキヒサもそう告げる。
ここの宿の料理が美味しいという話が、リンク村まで流れたというのはあり得る話だ。
なにせ多少遠くても道沿いにある村なのだから。
――人に歴史ありっていうけど、本当にそうなんだなぁ。
ちなみにこんな話題に全く興味のないレイはというと、シロをお湯の張った桶に浮かべて遊んでいた。
それからゆっくり寛いでいるうちに夕食になった。
ここ「とまり木亭」でも食事は朝食のみがサービス、昼食と夕食は自由に食べるシステムだ。
けれどこの宿の宿泊者は、ニケロの街にはたくさん食事する店があるだろうに、他で食べる約束がない限りは皆、ここの食堂で食べるようである。
――それだけ評判っていうことなんだろうなぁ。
けどここでもやはり、パンは黒パンだ。
聞けばニケロの街では小麦のパンも売られているらしいが、やはり小麦が高価なのでパンも高価だという。
だから庶民の口に入るのは、当然黒パンだ。
というわけで、アキヒサはご主人にお願いして厨房の隅っこを貸りて、レイの分の黒パンをフレンチトーストに加工した。
これにご主人がすごく食いついたのは、まあ想定内の出来事だろう。
グルーズは案外、このフレンチトーストの存在を後輩にも教えてやりたくてこの宿を紹介したのかもしれない、とアキヒサは思わなくもない。
ご主人はグルーズがリンク村にいることを今まで知らなかったということは、紹介なんてこれまでしたことがないということなのだから。
柔らかくて甘いフレンチトーストに、たまたま隣に座っていたお客さんのおじいさんが欲しがったので、早速ご主人が作ってあげていた。
やはり慣れていても、誰しも黒パンは硬いらしい。
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