第二夜 百円ライター

 Sさんが高校一年生の時のこと。当時バレー部に所属していたSさんは夜遅くまで学校の体育館で部活の練習をしていた。練習とはいえ最下級生となると球拾いなどの雑用を任されるだけで、実践的な経験値よりもひたすら疲労の溜まる作業に近い。しかし、上下関係が厳しかったのもあり、Sさんはくたくたになりながらも先輩の打った球を拾い続けた。 

 秋も深まるころ、午後七時を迎えてようやく帰宅できることになった。

 Sさんは棒になった足をなんとかペダルに押し当てて自転車を前に進めた。漕ぐたびに重みがその腿に伝わる。お母さんに電話して今日は迎えに来てもらえばよかったな、とそんなことを思いながら帰路につく。キャリアにのせた重量のあるエナメルバッグが自転車の舵を不安定にさせる。事故が起きなければいいけれど。

 大通りの緩い坂道をゆっくり上る。肌寒い向かい風がその足どりを余計に重くさせる。もう疲労が限界。Sさんはそう感じて自転車から降りると、目の前は集合団地だった。この団地を抜けて狭い道を抜けてお寺まで行けば、そこから最短で家に着く。近道だ。ただこの道は街灯がひとつもないためかなり暗く、暗くなってからは絶対に使わない道ではあったが、すでに疲労困憊だったSさんはとにかく一秒でも早く帰りたい一心でその道を選ぶことにした。

 車通りの多い道を脇にそれて集合団地の中へ入っていく。チカチカと明滅する電灯を尻目に駐輪場を抜けて、暗い路地を進んでいく。明かりは自転車のライトだけ。月も雲に隠れているようだ。見知った土地だから迷うことはあり得ないが、Sさんはかすかな明かりに心許なさを感じながらも、一心不乱にペダルをこぎ続けた。

 気づけば自転車の車輪が回る音だけがするだけだった。

 お寺は境内の入り口から入ってその向かいの裏口を出るとあとは自宅まで一本道である。Sさんはいささかの恐怖を感じながらも境内への階段を、自転車を押して上がった。砂利を踏む音がする。境内の右手には墓地があったのでその方向を見ないように急いで歩いた。

「ザッザッザ」

 耳を澄ませると、自分から発するものではない砂利の音がする。自転車のものでもない。ほかの誰かがこの境内にいて、一緒に歩いているような音である。Sさんは恐怖のあまり足がすくんでしまった。それでも砂利の音は止まらない。

「ザッザッザ」

 近づいてくる! そう思ったSさんは必死の思いで駆け出した。自転車が倒れる音がする。そのまま荷物のすべてを置いて裏口に向かって全力疾走した。

「あっ!」

 踏み出した右足がなにかを踏みつけた。それに滑らせてSさんは勢いよく地面に転がってしまった。境内はしんとして何にも音がしない。あんなに吹いていた風の音すらもしないのである。

 Sさんは急に何者かの気配を感じてふりかえった。

「おや、こんな時間にお参りかな? いやそんなわけはないか」

 麻布の簡素な着物を着た初老のおじさんが提灯を持って立っていた。

「お嬢ちゃん、ケガをしているじゃないか。これはいけない。ちょっと待っていなさい。いま救急箱をもってくるから」

 どうやらここのお寺の住職らしい。精舎に向かってゆらゆらと揺れる手持ち提灯が遠のいていく。なんだかそれが心細く感じ、Sさんはとっさに「待って!」と叫んだ。

「どうかしたかい?」

「あの、手当は結構です。それほど傷は深くないですし、家も近いので」

「そうかい。それならいいが……本当に大丈夫かい?」

「はい」

 住職は少し怪訝な顔をしたのちに納得したような顔をした。

「ああ、そうか、お嬢ちゃんも転ばされたのか。そうか、それならば困ったことになったぞ」

「転ばされたって……何のことですか?」

 そう問いかけると住職は提灯で辺りを照らし出し、何かを拾った。

「ほら、これだよ」

 住職が手に取って見せたのはどこにでも売っているような百円ライターだった。さっきSさんが踏みつけて滑らせたのはこれだったのである。

「これが一体何だというんですか?」

「不思議なんだがね、この寺の境内で百円ライターに転ばされる人が後を絶たないんだよ。決まってこんな真っ暗な夜にね。だっておかしいと思わないかい? この砂利道なのにライターで転ぶことがあるかい?」

 確かに、こんな小さなライターなら砂利に埋もれて足を滑らせることなんてありえないはずだ。訝るSさんに住職は続けて言った。

「それでね、今お嬢ちゃんは少し困った状態にある。というのも、なんといえば良いのか、そう、迷子の状態だ。お嬢ちゃんは今迷子なんだ」

「迷子? そんなはずはありません。私はこの町の生まれですし、このお寺だってよく知っています。迷子になるはずなんて……」

「まあ、そうだろうね。そうなんだがね……ではお嬢ちゃんが乗ってきた自転車は今どこにある?」

 Sさんはゾッとした。確かに寸で先にあったはずの放り出した自転車はおろか、エナメルバッグさえも跡形もなく消え去っていた。青ざめた顔で住職を見つめると、住職は「でしょう?」と苦笑いした。

「でもね、ひとつだけその迷子の状態から抜け出す方法がひとつある。それはこのライターの火を点けながら裏口からお嬢ちゃんの家へと寄り道せずに帰ること。その間決して火は消さないように。それと、何があっても振り返らないこと。そうすれば自然と家に着く。できるね?」

 Sさんは住職からライターを受け取ると、提灯の明かりを頼りに裏口まで一緒に歩いて行った。境内の外は形あるものすべてが陰鬱な空の陰になっていた。手を伸ばせば吸い込まれてしまいそうなほどの深淵がそこかしこに敷き詰められている。提灯の明かりでさえそれはまったく照らされることがなかった。

「おじさんが案内できるのはここまでだ。あとはお嬢ちゃん次第だ。頑張んなさいよ」

 ライターに火をつける。小さな明かりが手元を照らす。振り返ると住職はもういなかった。

「夢なのかな……」

 Sさんはそう思った。しかし、夢を解くすべがないならこのまま住職の言う通りに進むしかない。意を決してSさんはライターの火が消えないようにして、ゆっくりと境内を下りることにした。階段を一歩ずつ降り、最後の石段から足を離した瞬間、その場に自分一人だけが呼吸しているものではないことがはっきりと感じられた。ゾッとしてしばらく動くことが出来なかった。急に吹き出した風の向きがバラバラで、生ぬるい熱を感じたと思ったら途端に氷のような冷気が肌を刺す。しかし、無音。そこにSさんしかいなかった。

 ゆっくりと前進した。本当にゆっくりと、一歩ずつ。ライターの明かりをじっと見ていなきゃ気が狂いそうになりそうで、走り抜けるなんて到底出来るものではなかった。

「し、し、し?」

 声! それはもちろん自分のものではないことは確実である。Sさんはすぐ後ろに気配を感じ、そのまま立ち止まってしまった。

「し、しし、し、し、し」

 間隔のバラバラで、歯の隙間から息が漏れるような耳に残る声がずっとつきまっている。声を出して駆け出してしまいたかったが、それではライターは消えてしまう。狂いそうになりながらも、恐ろしい気持ちを押し殺してまた歩き始めた。

「し、しししし、しし、しし、し、し、し、しししし、し、し」

 火を、火だけを見つめることに集中した。声は次第に大きくなり、すぐ真横にいるような気さえする。しかし振り返ってはならない。火を、火だけを見つめて……

「し? しし、し、ししししししし、し、しね」

 その瞬間、突風が吹きライターの火は消えてしまった。

 気が付くと目の前には自宅の門。表札を見ても確かにSさんの家だった。窓から微かに漏れる明かりと玄関先で私の帰りを迎えてくれる黄熱電球が光っていた。

「夢……?」

 しかし、Sさんの手には百円ライターが確かに握りしめられていた。恐る恐る振り向くと、そこは月夜に照らされてぼんやりとする暗い一本道が続いているだけだった。

 Sさんは安堵し、ドアを開けてようやく地獄から生還した。


 それから、Sさんが住職から渡されたライターをよく調べてみたところオイルが一滴も入っていないことがわかった。あの瞬間に切れてしまったのか元々入っていなかったのか、そんなバカげたことすらあんな状況の中では真っ当に考えられなかったのだ。

 なんだか他人には言ってはいけないような気がして、事の顛末は両親には言えなかった。転んで怪我したこと、その時に自転車が壊れてしまったこと、荷物は学校においてきたこと、どれも即席の嘘だったが両親は何も言わずに信じてくれた。

 翌日の朝、お寺を覗いてみると境内の真ん中に倒れた自転車と荷物が置かれたままだったという。しかし、住職にお礼を言おうと精舎を訪ねてみても、誰も出てくることはなかったという。後から聞いた話によると、このお寺にはしばらく住職が住んでおらず、あまり管理が行き届いていない状態だったという。

 Sさんがあの夜、お寺の境内で出会った住職は一体誰だったのか、それはついに解明されることはなかった。

 いまでもSさんはその地区に住んでいる。行こうと思えば、あのお寺にも行けますよ。夜、一人でなければの話ですが。と笑った。

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