怪談百物語

唯野恭仁

第一夜 サイレン

 二月の寒い夜ふけのこと。当時大学受験期を目前に控えていたTさんは毎日と言っていいほど夜遅くまで勉強していた。勉強が苦手だったTさんはとにかく詰め込めるものは詰め込もうと、もう無我夢中で量をこなすしかなかった。

 少し開いたカーテンからを覗けば、結露で白く曇る窓ガラスが真っ暗闇な景色を透かしている。凍えるような冷たさだ。部屋の中も暖房を入れなければ指が震えて勉強どころではない。Tさんは深く集中してペンを走らせていた。

 空腹で腹が鳴った。お腹が空いたな、そう思って時計を見れば、時針は朝方の五時を指していた。しかし、外はまだ暗かった。

「もうこんな時間か」

 Tさんは少し休憩を取ろうとした。両親の寝ている寝室の前を、起こさないようにそろりそろりと抜けて一階へ降りた。床は冷たいし吐く息も白く、降りてからは小走り気味にキッチンに向かった。いざ冷蔵庫を開けて目ぼしいものは無いかと探してみようとしたとき、Tさんはどこかで何かサイレンのような低い音が微かに鳴っているのに気付いた。それは全く聞き覚えのない異音。不審に思ってカーテンを少し開いてみたが、やはり外は暗闇に包まれていて、一メートル先の視界さえおぼろげだ。まだ街は眠っている。いくら田畑の多い田舎だからって朝っぱらからサイレンを鳴らそうなんてバカはいない。気のせいかもしれない、と適当に水とポテトチップスを持って二階に戻った。

 Tさんはそれからお菓子を食べながらしばらく休憩をしていた。

 それは部屋に戻って五分もしないうちのことである。

「ウー、ウー」

 その異音に気付いて咀嚼を止める。やはり気のせいではなかった。サイレンのような音は少し間隔を開けながら断続的に鳴っていた。さっきよりはっきりと聞こえる。近くなったり遠くなったり、音の往復が四五回続いたものの、ついにはその音源をはっきりと理解できなかった。しかし、サイレンと言っても正確には違う。無機質ではあるが機械の発するものではなく確かに不連続な波がある。例えば呼吸音のような……

 Tさんの脳裏にはある嫌な予感がよぎったが、それはあまりに馬鹿馬鹿しかった。

 どうせカラスの鳴き声がそう聞こえるだけだ。そう思うことにして再びポテトチップスを口に運んだ。その一枚を飲み込む頃にはサイレンはぴたりと止んで、いつもの静寂さに包まれていた。

 それから三十分ほどして、Tさんは勉強を再開しようとしたが、同時にそのやる気を上回る睡魔がやってきた。きっと脳が疲労の限界を迎えたか、それとも腹が膨れて睡眠するように信号が送られたのだろう。気を奮い立たせてペンを持つが、眼に入る文字がゆらゆらと揺れてまともに頭に入らない。これは少し眠った方が良い。そして起きたらまた頑張ることにしよう、とTさんはベッドに飛び込んだ。

 電気を消すと部屋の中は真っ暗だった。朝がやってこないと錯覚させるような闇だ。深い、深い――ちょうど張りつめた湖の水面に一石を投じたら、その波紋さえ底に沈んでしまうような深い闇だった。

「ウー、ウー」

 再びサイレンが鳴った。Tさんは思わず飛びあがった。さっき感じた悪寒がふっと蘇る。心臓の鼓動を追いかけるように迫ってくる恐怖心を抑えながら、耳を澄ましてその異音に意識を集中させた。

「ウー、ウー」

 カラス……じゃない。

「ウー、ウー」

 機械音……じゃない。

「ウー、ウー」

 ああ、人だ。

 Tさんはそれに気付くと反射的に毛布を頭からかぶった。人の、唸り声。しかもそれは確かに〝移動〟している。

「ウー、ウー」

 聞こえないように耳を塞いでも、それは耳の中で鳴っているかのようにこびりついて離れない。左に右に。右に左に。移動している。何者かが唸りながらその辺りを疾走しているのだ。

 Tさんは発狂寸前になりながらも冷静になるように努めた。それにはまずその音の主が何であるかを確かめる必要があった。この時どうしてそんな考えに至ったのか、後から思いだしても分からない。とにかく俺はベッドから降りて、二階にあるこの部屋の窓から外を覗いてみることにした。カーテンの隙間からゆっくりと顔を出す。窓の奥は仄白く、薄暗さの中に沈黙した隣家といくつかの枯れた木々、その間に車一台通れるほどの小さな道路が敷いてあるのがおぼろげに見える。静止画のように微塵も動きがない。どんよりとした青黒い雲が厚く空を埋めていた。

 奇妙なサイレンはいまだ鳴り響いている。しかし、これほどまではっきりと聞こえているのに他に気付いている人はいないのだろうか? 隣の寝室にいる親はこの異変に気付いているだろうか? と考えていたその瞬間、Tさんは蠢くものを視界にとらえた。

 サイレンの主――それは人型の〝昆虫〟だった。四本の〝脚〟で蜘蛛のように器用に走っている。口は天に向かってあんぐりと開き、頭を身体の動きに任せるように振っている。全身はまさに人間の容態を示しているが、その色は血のように赤く、黒い斑点がびっしりと敷き詰められている。まるでグロテスクなテントウムシのよう……

 Tさんはカーテンをすぐさま閉じた。あんな異形なものが家の目の前を通り過ぎているのだ。身体が意思と反してぶるぶると震える。悪い夢であってくれと願ったが、夢であっても恐ろしいことには変わりなかった。事実、これは夢ではなく現実に起こっている事なのだ。

「ウー、ウー……」

 サイレンは右から左へ遠くなっていく。時刻は六時半を過ぎていた。


 それから〝それ〟が戻ってくることは無かった。ようやく朝日が雲間から射し出し、小鳥のさえずりが聞こえ始めたころ、Tさんは解放された気分で安心した。

 起床した親にもそのことを伝えてみたが、「勉強のしすぎでおかしくなったんじゃないの?」とあしらわれた。一切サイレンのようなあの異音は聞いていないという。

――そうかもしれない。いや、きっとそうなのだ。俺は一時的に頭がおかしくなって幻覚を見ていたのだ。Tさんはそう思い込むことにした。

 それから夜が来るたびに〝それ〟を思い出す。しかし、あの日以来声を聞くこともあの異形な姿を見ることもなくなった。今日も唸りながらどこかを彷徨っているのだろうか。あれが一体何なのか、もう一度確かめたくなる気持ちも――好奇心としてはあるのだが、それを実行する勇気はもう無い。


 その年の春、無事に大学の入学先が決まって、Tさんはもうその家から引っ越している。あれから二年が経つが都会での生活が楽しいし、独り暮らしはいろいろと大変だが、新しい友達も彼女も出来て充実しているという。

 とはいえ、困ったことが一つある。年末やお盆の時期になると実家にいるTさんの母から「たまにはこっちに帰ってきたら?」と電話が来るのだが、Tさんはそれを毎回断っている。帰りたくない……というか帰れない理由がある。

 上京して一か月目のことだった。急にTさんの母から電話がかかってきて、ふと「時折あんたの部屋から変な音がするのよ」と告げられた。Tさんは「どんな音?」とは聞く必要がなかった。なぜなら、電話の向こうから母の声に交じってあの奇怪なサイレンが聞こえていたのだから。

 Tさんは今でも実家に帰っていないし、これからも帰るつもりはないと苦い笑顔で語った。

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