R-8

 また、兵士たちが傷だらけで戻ってきた。

 海の近くにあるダンジョンに巨大な海龍が住み着いたらしく、その魔力に寄ってきた魔物が大量発生しているのだ。海の近くの町に拠点を築き、いくつかの師団が交代で魔物退治に勤しんでいる。それでも時折、私の回復魔法を頼って兵士がやってくる。

 私は彼らに回復魔法をかけるしかできない。


 兵士たちは私に涙を流して感謝するけれど、それでも私は知っている。


「王妃様が、まだ聖女の力を持っていれば……」

「ダンジョンの内部構造がわかれば、こんなに犠牲は出なかったかもしれないのに!」

「よせよ。そういうこと言うなって」

「でも、でも……。もしもあそこに魔物の巣があるのがわかってたら、あいつは!」


 聞きたくない。

 聞きたくない。

 聞きたくない!


「……王妃様に子さえできていれば、ひょっとしたら……」


 兵士たちの死に目を塞ぎ、耳を塞ぐと、今度は真っ暗な闇が訪れて、自分と向き合わないといけなくなる。

 子供。

 子供だ。

 私とヴァージル様に子供さえいれば。

 その子が、私の希望になるはずだ。

 きっとそうだ。


 理想の体も理想の人生も手に入ったのに、愛する人の子供ができないなんて。そんな小さくてありふれた願いだけが叶わないなんて。

 ふっと、前世の記憶が蘇る。


 暑い日のことだった。

 あの日、町中を歩いていたのは、他社まで出向いた帰りだった。

 会社ではタクシーの使用は禁止されていたから、私は汗をかきながら、急いで戻っていた。こうして汗をかいて歩くことで、環境にも優しい人間になる。そう言われたからだ。出先のついでに休憩なんてもってのほか。暑さ寒さにへこたれない精神を持つにはそれが一番。それが社訓のひとつでもある。

 ハンカチで汗を拭き、信号待ちをしていた。


 信号が青にかわって、一斉に歩き出す。その他大勢の中を足早に抜け出す。

 電話中の誰かとすれ違ったとき、ふっと違和感を覚えた。

 なんだか見覚えのある顔をしていた。あれっと思って振り返る。その後ろ姿にも見覚えがあったし、信号を斜めに横断していく横顔にも見覚えがあった。三ヶ月前に、会社を辞めていった後輩だった。


「そうですか、ありがとうございます! では、はい。三日後ですか。少々確認を取るのでお待ちください!」


 スーツ姿で、まとめあげた髪をわずかに揺らしながら、颯爽と歩いていた。


「えっ……」


 その途端、強烈なショックを受けた。

 後輩は再就職なんかできないと信じ込んでいたからだ。嘘でしょう、ともう一度見てみたが、彼女はそのままその他大勢の中に紛れてしまった。

 プップッ、と軽くクラクションを鳴らされ、私は交差点のど真ん中に立っていることに気付いた。慌てて、既に赤になった信号から抜け出す。


 なんで。なんで。なんで?


 だって後輩は出来が悪くて、うちの会社でやっていけないような奴で……。三年もしないうちに会社を辞めてしまったじゃない。私にも「ここ、経理状況がまずそうなんで、先輩も早く辞めたほうがいいです」なんてメチャクチャな事言ってきて。有給の消費なんてふざけた事まで言ってるから叱ったら、弁護士まで呼んできて辞めちゃってさ。


 なんなのあの子。

 だって、アンタは会社を辞めたじゃない。

 私は言ったじゃない。そんなんじゃ絶対にどこに行っても通用しないよって。だからアンタは通用してちゃいけないのよ。それなのに、どうして幸せそうな顔で歩いてるの。


 私は信号を渡りきった先にあった銀行の前で立ち止まっていた。

 銀行のガラスに映った自分を見ると、疲れ切ったおばさんが映っていた。

 信じられなかった。

 だって毎日、化粧をして。始業よりも一時間早く着いて。一日幸せで過ごせるように大きな声で社訓を詠唱して。サービス残業もして、家は眠りに帰るだけ。忙しいときは下着持参で泊まり込みは当たり前。充実した日々だ。私のほうが充実しているはずなのに。

 どうして、あの子はあんなに楽しそうなの。


 違う。違う。きっとあれは就職斡旋の人と話してたんだ。きっとそうだ。

 きっとそう。就職できなくて、区役所だか市役所だかのお世話になってるんだ。きっとそうだ。


 その日はふらふらになりながら、私はかつての友達に救いを求めた。

 頭から布団をかぶって、一年ぶりくらいにSNSを見た。

 大学を卒業しても仕事が見つからず、二年ほどバイト生活をしたあとにずっと介護職をしていた友達。彼女だけが頼りだった。ここ最近は、一年に一、二回ほど連絡を取り合うくらいの仲になってしまったけど、彼女のだけが私の心のよりどころだった。

 けれどそこに載っていたのは、半年ほど前に結婚したという報告だった。妊娠三ヶ月だった。


 私の心はがらがらと決壊した。

 どうしてかはわからない。ただ、自分が彼女たちより底辺にいるような気がして、打ちのめされてしまった。

 私は優秀だったから、仕事を辞めても有給の消化なんてふざけたことはしなかった。


 ……なんでこんなことを急に思い出したんだろう。

 思い出したくなんてなかったのに。

 もうあんな思いはたくさんだ。


 だけど、ヴァージル様とミハエルは今日も自室で会議と称した話し合いを行っている。


「そろそろお世継ぎを考える頃合いです。本来であれば、何人か側室をつけることも選択肢に入れる必要があるでしょう」

「そんなことはわかってる!」


 ヴァージル様の部屋から、だん、と強くテーブルを叩く音がした。

 聞きたくないけれど、耳がそっちに集中してしまう。


「わかっておりますよ。あなたとローズ様が強い絆で結ばれていることは。しかし……」


 考えないと。

 考えないと。


 どうしたら子供ができるんだろう。

 いったいどうしたら……。


 蛇の卵でもニワトリの卵でもいいから、誰か私に子供ができる何かを与えて欲しかった。

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