三 夢浮橋《ゆめうきはし》

東北自動車道をベンツが盛岡方面に向かっていた。北に向かう車は少なく、時折、尻から火でも噴いているかのような勢いで、若者の運転する車が追い越し車線を吹っ飛ばして行く。

水沢を過ぎると、高速道路から見える畑には菜の花が一面に咲き乱れ、うららかな春の訪れを告げていた。

ベンツは、サクドガ森に向かっていた。

サクドガ森は早池峰山はやちねさんのように人の訪れはなく、北上高地の中に静かにたたずんでいる。二人がサクドガに向かうと知って、宇多がベンツを貸してくれたのだ。これを察知したサブが駄々をねだしたのだが、タマに一喝され、しぶしぶ留守番をすることになった。

車窓からの風景が珍しいのか、阿修羅が後部のシートから身を乗り出し、落ち着き無くキョロキョロしている。宇多が敷いてくれた毛布は、阿修羅の下でグジャグジャになっていた。

ベンツは、何事もなく盛岡のインターチェンジを降り、一〇六号線を宮古方面に向かった。岩泉町と川井村の境界にあるサクドガ森に行くには、盛岡から百五十キロメートルほど走らなければならない。

市街地を抜け、国道四号線を突き抜けると道路は両脇が丘陵となり、区界くざかい辺りから山田線と並行している。左手に牧場を望むようになると、いつしか右側に閉伊川へいがわの流れが目に飛び込んできた。

川井村に入ると、道路はさらに蛇行した。

一〇六号線から旧街道に折れ、川西小学校を望む位置でベンツを止めた。

「少し休もう」

「いい風景ねえ・・・」

ちょうど昼休みなのか、子供たちが校庭で無邪気に遊んでいた。

「ここには、大事なものが息づいている」

「トンネルを通過するたびに、何か懐かしい気分になって・・・」

「これから奥に行くと、もっと寂しい風景になるよ」

「・・・」

霞が茫洋ぼうようとした表情で、子供たちの動きを見ていた。阿修羅は、後部座席でのんびりと居眠りをしている。

間もなくベンツは走り出し、駅の手前で左折し、一路、サクドガを目指した。


その頃、黒木たちは、仙台駅近くのホテルの一室にいた。

百舌もずのメンバーが入れ替わっていた。紅彦に面の割れている平岩と松田が後方部隊となり、代わって沖田と川上が加わった。沖田は三十代半ばで少林寺拳法の猛者もさ、川上は二十代後半で剣道五段、二人とも引き締まった頬をしており、背広を通しても鍛え抜かれた体型をしているのが分かる。

また、新たに諜報担当として腕利きを二名加えている。今、二人は紅彦の監視についている。天宮は二十代後半の女、もう一人は藤田という男で天宮の二年後輩だ。

「変化はないのか?」

「はい、天宮が定期的に草庵に出入りするようになりましたが、表向きにはご報告するような変化はありません」

「銀座の方は問題ないのだな?」

「はい、関東管区事務所の専用電話を一本あけておりますので、そちらはシュライク専用としております」

黒木に沖田が応えている。

天宮は、銀座の貴金属卸専門店ジュエール・シュライクの従業員として草庵に出入りし、同年代の霞と親しくなっていた。

「ふむ・・・」

「天宮の話では、藤原の妻の出生や経歴には怪しさがあるようなことですが、そちらの方はもう少し時間をかけて調べてみます」

「うむ、犬の方はどうした?」

「はあ・・・、目黒獣医科大学の古田先生に写真を見せて確認したのですが、あの犬は、確かに日本犬の特徴を有するそうです。しかし、現存する種には、該当するものがないそうです」

「現存しない・・・?」

「かつて、東北地方に、地犬と呼ばれていた大型の日本犬が棲息していたという伝説が残っているそうです」

「地犬か・・・」

「古田先生が若い頃に調査したことがあったそうですが、証拠となる物は発見できなかったと言っておりました。また、これは仮説だがという前置きで、あれはアラスカ狼と秋田犬との混血ではないかと、そんなことを言っておりました」

「あの犬・・・、確か、阿修羅とか言ったな。あいつのことが分かれば、縦糸がほぐれそうな気がするがなあ。もう少し調べてくれ」

黒木は阿修羅の存在が気になっていた。

「ところで、奴の動きはどうだ?」

「宇多のベンツが、岩泉方面に向かっております。乗っているのは藤原夫婦です」

「岩泉か・・・」

「まだ明確ではありません。川井村、あるいは宮古ということもあります」

「藤原についているのはどっちだ?」

「天宮と藤田の二名が尾行していますが、どうも我が社のほかにも別の組織が狙っているようです」

沖田が応えた。

「別の組織・・・?」

「はい、暴力団風の男が四人、ベンツを尾行しているようです」

「まずいなあ」

「撃沈しますか?」

「ふむ、少し様子をみよう。もし、邪魔になるようであれば、静かにして貰うように丁寧に頼むんだな」

黒木の双眸が冷たく光った。

「はい、天宮にはその旨指示します」

沖田がうなずいた。

「ところで、川上君、君は別の角度から、不動産業者を装って藤原の家主である相沢に探りを入れてくれないか?」

「藤原の奥さんの過去ですか?」

「それだけじゃない。杖林寺伝承やあの犬がどうしてあそこにいるのかなど、君は縦糸をたぐり寄せる仕事をしてくれ」

「分かりました」

川上の表情が引き締まった。

「沖田君、さっき、君は藤原の周辺に殊更目立ったことはないと言ったが、私の情報では仙台の鉄門が藤原と一悶着ひともんちゃくあったらしい。君は鉄門を洗ってくれないか」

「ボス、それはいつのことですか?」

沖田の双眸に動揺が走った。

「去年の秋頃らしいが、何があったのかまではわからん。ただ、大蛇おろちの京太郎とかいう幹部が藤原を狙っているらしいという情報が入ってきた」

「早速、藤原との関係を洗います」

「うむ」

冷たい光を帯びた黒木の眼光が二人を射すくめた。

それから、黒木たちは、小一時間ほど打ち合わせをして解散した。間もなく、ホテルの地下駐車場から沖田の運転するツーリングワゴンが飛び出し、国道四八号線を仙台宮城インターチェンジに向かっていた。


朱雀苑すざくえんの施設長室が華やいでいた。

景子がソファに座り、宇多に不動産の説明をしている。

「先生、果樹園を取得して、どうなさるおつもりですか?」

「うむ、俺は医療も農業も漁業も全部一貫してやりたいのよ」

宇多の目が笑っている。

「先生、真面目に聞いているんですよ」

「そう、角口つのくちするんじゃねえ」

「うちの会社は、そりゃあ、土地が売れれば儲かりますけど、先生は本当に果樹園を造るのですか?」

「景子ちゃん、俺がやるんじゃねえんだぞ。人に任せるに決まってるべ」

いたづらっぽく宇多が笑っている。

「なーんだ。そうですよねえ」

「なあんだは、ねえだろう」

景子がペコリと頭を下げた。

「紅彦の野郎、サクドガに行きやがったぞ。サブが何か言ってなかったか?」

「うふふ、不満そうな顔をしてました」

「サブがついていったらお邪魔虫だろ」

宇多も笑った。

「先生がベンツ貸すから悪いんだって、あいつ、ねてましたよ」

「おお、そうか。あいつは、まだガキだからなあ」

タイル張りの廊下を軽い足音がして、ドアがノックされた。

「先生、速達書留が届きました」

事務員の小野寺洋子が顔を出した。

「おお、待ってたものが、やっと来た」

「何ですか、それは?」

まだ中学生のようにあどけない顔をした洋子が、好奇心旺盛な眼をした。

「これは・・・、ジャジャジャーン」

「古物商・・・」

景子も不思議そうな顔をしている。

「おうよ。俺も、今日から骨董屋の仲間入りだ、わっはっはは・・・」

「また、どうして・・・?」

「書画刀剣、これは、俺の世界だな」

宇多が悦にいっていた。

「先生、朱雀苑は、どうするんですか?」

「どうするって、何だよ。俺みたいな天才は、一石十鳥の人生だからのう」

「まあ・・・、先生は呑気のんきなんだから」

「なんだ、洋子ちゃんまだいたのか。お仕事に戻りなさい」

「先生は、若い娘には優しいんですねえ。顔つきまで変わってしまうんだから・・・」

首をすくめて部屋から出ていく洋子の後ろ姿を眺めながら、景子が宇多をからかうように笑った。

「俺は年寄りと女の子には優しくすることにしている。悪りいか?」

「いいえ、立派なことです。ついでに、私も優しくしてほしいわ」

「景子ちゃんには一番優しくしてんだがなあ・・・。それが、分かんねえのかなあ」

「ちーっとも・・・」

「そうだ、景子ちゃんに聞きたいことがあるんだけど・・・」

「えっ、何でしょうか?」

「サブの野郎は行っていねえとばっくれてんだけど、あいつは観音山の洞窟に入ってるんじゃねえか?」

「あいつ、そんなふうに言ってました?」

「ああ、白をきってやがんだけど、何か隠してやがるのはわかってんだが、問題はそれが何かだよな」

「何だかこの頃、休みたんびにどこかに出かけてると思っていたけど・・・」

景子が小首を捻った。

「観音山には、紅彦と霞さんにまつわる秘密があるようなんだが、あそこに近づくと何だか危ねえような気がすんだよ」

「・・・」

「景子ちゃんは、先だってあそこで何があったか聞いてんだろう?」

「ええ・・・、断片的には・・・。あのおしゃべりのサブが話したがらないのよ」

「そうか、あいつも結構口が堅いところもあるんだ」

宇多が笑った。

「何があったのですか?」

「ふーん、景子ちゃんもサブと同じ表情をするんだなあ」

「先生、いくら何でも、サブと一緒にされたらたまんないわよ」

 景子が口を尖らせた。

「そりゃあ、そうだな」

「そうですよ」

「そう、にらむなよ。」

「睨んでなんかいませんよ」

景子の目が笑っていた。

「俺は、サブがあんまり首を突っ込むと、厄介なことになるんじゃねえかと思ってな」

「先生、何があったのですか?」

「おいおい話してあげるけど、俺にもまだ全容がわからねえんだよ。ただ、サブを巻き込みたくはねえんだよ」

「先生は何か隠しているんでしょう?」

「ああ、紅彦が怒るとおっかねえってことが分かったよ。景子ちゃんも奴を怒らしたら駄目だぞ」

「私がそんなことする訳がないじゃありませんか。奥さんがとても素敵な方で、みんなの憧れなんですから・・・」

「うん、霞さんはまるでこの世の女とは思えねえからな」

「・・・」

「そんじゃ、その桃畑を見に行くかい」

「仕方がないから、ご案内いたします」

「何だ、その仕方がねえというのは・・・。喜んでというんじゃねえのか?」

「はい、喜んで・・・」

宇多は子供のような顔をして立ち上がり、景子の肩を軽く叩いて歩き出していた。


サクドガの森の空気は澄み切っていた。

紅彦たちは、林道を歩いていた。

阿修羅が前を歩き、大きなリュックを背負った紅彦の後ろに、登山姿に身を固めた霞が従っていた。

時折、姿を見せる小鳥のほかには、二人の周りには動くものがなかった。

森は木々の芽吹きが始まっていた。

午後の日差しが広葉樹を照らし、樹下から眺めるならくぬぎの新芽を際だたせていた。獣道は途切れぎみに続いており、阿修羅が意気揚々と二人の先導をしている。

「ここは人が歩いた様子がありませんね」

霞は額にうっすらと汗を光らせていた。

「ああ、ここは阿修羅が頼りだな」

「紅彦さんも初めてなの?」

「いや、一度、馬鬼羅に連れられて来たことがあったぞ」

紅彦が振り向いた。

「それなら、私も一緒でしたよ。坐弓見ざくみ様を訪ねた時のことでしょう?」

「ああ、そうだよ」

「それじゃ、やっぱり阿修羅だけが頼りなのですね」

阿修羅は時折振り返りながら、躊躇ためらわずに進んでいる。

「この辺りには熊はいないのかしら。小鳥のさえずりしか聞こえませんね」

「ここには月の輪熊が棲息しているけど、人間の臭いを嗅いだら姿を隠してしまうさ」

「阿修羅がいると、熊だって逃げてしまいますよねえ」

「こんな山の中で阿修羅と出会ったら、あいつが獰猛な獣に見えるよ」

霞の笑い声を聞きつけて、阿修羅が戻ってきた。

「適当な場所があれば、野営を張ろう」

二人は三時間も歩きづめだったのだ。

「天女岩はどの辺りだったのかしら?」

「ここの中腹だったように思うけど、あの里に行くまでが迷路のようだったからなあ」

「あそこに行けば、今でも坐弓見様にお会いできそうな気がします」

阿修羅の頭を撫でながら、霞が呟いた。

西の斜面には大きな岩が露出し、山の端にかかった太陽の光に朱く染まっていた。岩の上から北の方角を眺めると、大川の流れが広葉樹の隙間から僅かに見える。

「とても静かですねえ」

霞がせり出した岩に登ってきた。

「ここに人知れず黄金が眠っているとは、今ではすべて忘れ去られてしまった」

紅彦の手には無双宗綱が握られていた。

「あれから坐弓見様たちは、どうされたのでしょうか?」

「いつまでも、あの状態で暮らせなかったんだろう。長い時の流れの中で、徐々に下界に降りて、社会に溶け込んでいったんだろうと思う」

「仕方がなかったのかしら・・・」

「うむ・・・、どうした、阿修羅?」

阿修羅が両耳をピンと立てて、さきほど辿ってきた樹林をにらんでいる。

「紅彦さん、あれは・・・?」

太い楢の木が林立する樹林からのっそりと土佐犬が姿を現した。

「野犬かしら?」

「違う。戦闘用の首輪をつけた野犬なんていないだろう」

土佐犬の首輪には、千枚通しのようなものが無数に埋め込まれており、それが禍々まがまがしく鈍く光っていた。

「グルルル・・・」

阿修羅が威嚇いかくした。

「ガウウウ」

土佐犬がゆったりとした足どりで近づいてきた。

「紅彦さん、あそこに・・・」

「ああ、四人いる」

「何者かしら?」

「下に降りよう。離れるなよ」

「はい」

大岩から降り、霞は紅彦のリュックサックを足下に下ろし、右後ろに隠れるように身を引いた。

「おい、そこにいるのはバレてんだよ。出てきたらどうだい」

太い楢の木に隠れている男たちに紅彦が言った。

「おまえら、何か用があるのか?」

「兄さん、威勢がいいんじゃねえか」

眉の下に傷のある男が、一歩前に出た。

「つけ回されるのは、迷惑なんだがなあ」

「なあに、ちょっと教えてもらいたいことがあるんだよ」

男がタバコをくわえた。

「おい、その土佐犬を止めねえと、死ぬことになるぞ」

「それは、こっちのセリフじゃねえのか?」

男が口を歪めた。

「阿修羅、思い切り暴れていいぞ」

一瞬、紅彦と目を合わせた阿修羅が驚くほど高く跳躍し、土佐犬とは反対方向の樹林に姿を消した。

「なんだ、だらしがねえ、逃げちまったじゃねえか?」

「兄貴、あの馬鹿犬は嵐にまかせて、こっちはこっちで始めましょう」

「おい、熊。嵐の面倒をみてやれ。組長にどやされるからなあ」

熊と呼ばれた男は、二頭が消えた樹林に身軽な動きで足を運んでいた。

「荒川、志郎、ちょっと可愛がってやれ」

「おまえら無事では帰れんぞ。組長の犬を殺してしまってはな」

思いのほか近くで二頭の怒声と荒い息づかいが沸き起こり、続いて銃声が樹林を揺るがせた。

「拳銃を持っているのか。俺は拳銃を使う奴は、容赦しないことにしている」

紅彦の双眸が冷たく光った。

「ほう、威勢がいいなあ。でもなあ、兄さんよ、ここでチャカをぶっ放しても、誰も気がつきっこねえよ」

「そう思うなら、やってみろよ」

「その減らず口がいつまで聞けるかな」

男が顎をしゃくると、荒川と志郎が胸から拳銃を抜いて、勝ち誇ったような顔をして紅彦に近づいてきた。

「兄さんよ、あんだをばらして、その女は外国に売り飛ばしてしまうぞ」

荒川が口を歪め、下卑たわらいを浮かべた。

「何か用があったんだろう?」

「それは後でいいんだ。あんだを埋めてから、その女に聞くから」

「そうか、それじゃ早くやれよ」

紅彦の背に隠れるようにしていた霞が、少しずつ後方に移動していた。

自分たちの優位を信じて疑わない三人は、余裕の表情で拳銃をちらつかせながら紅彦に向かってきた。

「一発で仕留めないと後悔するぞ」

「兄さん、まだそったらこと言ってんのか」

「そんな震えてる手じゃ、当たらねえぞ」

「ど素人に舐められちゃ、俺たちは商売ができねえのよ」

「そうか、おまえらは仙台の鉄門だな?」

「・・・」

「去年、森下とかいうのが、びを入れたはずだが、そっちの人は聞いてねえのかい?」

「さあな、森下の兄貴がど素人に詫びたってことは、金輪際こんりんざい、聞いたことがねえなあ」

 眉に傷のある男がうそぶいた。

「そうか、それじゃ仕方がないな」

紅彦の身体が一瞬沈み、それが伸びたかに見えた瞬間、無双宗綱が一閃して荒川の手の甲を半ば切り裂いていた。

「野郎・・・」

志郎が慌てて紅彦に拳銃を向けた時には、紅彦の右足刀が肋骨ろっこつを砕き、鋒で打ち下ろされた刀身が手首の骨を砕いていた。

「よせよ」

紅彦の右手が閃いたとき、眉に傷のある男の右肩に棒手裏剣が深々と刺さり、足下に拳銃を落としていた。

「気が済んだかい?」

ゆっくりと歩み寄った紅彦の手が、男の肩から手裏剣を引き抜いた。

「うううう・・・」

「これは返して貰う」

「・・・」

「おまえの名前を聞いておこうか」

男のスーツで手裏剣の血を拭きながら、紅彦が冷たい双眸を向けた。

「兄さんは、どこの組の者だね?」

「俺が聞いているんだがなあ・・・」

無双宗綱の柄頭つかがしらで軽く顎を突き上げた。

「うう・・・、俺は狭間ていう者だ」

額に脂汗を浮かべた狭間が、喘<あえ>ぐように応えた。

「鉄門か?」

「そうだ・・・」

紅彦は拾い上げた拳銃を霞に渡した。

「阿修羅・・・」

紅彦が振り返ると、阿修羅が口吻こうふんを血に染め、霞の横に立っていた。鼻の上に数本の切り傷があったが、出血は止まっていた。

「兄貴・・・」

樹林から右手首を阿修羅に噛み砕かれた男が、蹌踉よろめきながら出てきた。

「おい、それをこっちに投げて寄越せよ」

男の左手にはトカレフが握られていた。

「熊、言われたとおりにしろ?」

「・・・」

「いいから、早くしろ」

無双宗綱が狭間の喉仏を捉えている。

紅彦は投げられた拳銃を手にして、霞の前に移動した。

「さあて、狭間さん、訳を聞こうか?」

阿修羅の頭を一撫でしてから、狭間に向き直った。

「これは組長の命令かね?」

「そうだ」

「何をしろと言われたんだ?」

「奥さんのペンダントを奪ってくるように言われたよ」

狭間の顔が醜く歪んだ。

「そして俺を殺し、霞を売り飛ばせとも言われたのか?」

「それは・・・、あの馬鹿が勝手に言いやがったことだ」

狭間を除き、ほかの者たちは地面にどっかりと胡座あぐらをかいていた。。

「組長は、何でペンダントを欲しがるだ?」

紅彦のトーンが変わった。まるで羽毛で頬を撫でるような調子だが、それは逆に気味悪さを増幅させた。

「俺は、知らねえ。ほんとだ・・・」

狭間の目が恐怖に怯えていた。

「それじゃ、外国へ売り飛ばし役の奴に聞こうか?」

「・・・」

「右手は一生不自由になるが、命があればいいだろう。ところで、おまえは知っているのではないか?」

「俺はバシリだから、何も知らねえよ」

荒川は右手をネクタイで縛りながら、おびえた目で紅彦を見た。

「そうか、では思い出してもらうか」

紅彦は二、三歩進んで、無双宗綱を一閃させた。狭間のネクタイが結び目の下で切断され、はらはらと足下に落ちた。

「この刀は、久しぶりに血を吸いたがっているようだ」

「・・・」

「おい、まだ思い出せないのか?」

再び無双宗綱が一閃し、狭間の頭髪を斬り落とした。

「動くと首が落ちるぞ。おい、兄さん、おまえが言わなければ、この男の首が胴体から離れるぞ。生憎、ここは誰も来ないところだ。ここに埋めれば、それっきりだな」

「兄貴、組長と大蛇の兄貴が話してるのを聞いたんだけど、そのペンダントには蝦夷の財宝の在処ありかが記されてらしいんだ」

大蛇おろちっていうのは、森下のことか?」

「ああ、そうだ」

荒川のズボンが失禁で濡れている。

「それだけか?」

「ああ、嘘は言わねえ」

「全員立ってもらおうか」

紅彦の双眸が冷たく光った。

「紅彦さん・・・」

霞の声を聞いて、阿修羅が紅彦の側に歩み寄ってきた。

「阿修羅、戻れ」

紅彦を一瞥し、阿修羅はもの言いたげな眼差しを残して、霞のもとに戻った。

「熊とかいったな。おまえは、あの土佐犬の飼育係か?」

「ああ・・・」

「あの土佐犬はどうした?」

「あの化け物、いや、あんだの犬に一噛みで殺されちまったよ」

阿修羅に注がれている双眸におびえが走っている。

「それじゃ、おまえは組に帰れんだろう」

「・・・」

「狭間さん、鉄門はまだ懲りずに、新手あらてを送ってくるのかな?」

「俺から組長には適当に報告しておくから、もうあんたらを狙うことはあるめえ」

「そうかな?」

「俺たちは、組長の命令であんたらを襲ったんだ。好きこのんでここに来た訳じゃねえ」

顔面蒼白にして荒川が呟いた。

「凡人は、喉もと過ぎると熱さを忘れるものだ。おまえらは凡人以下だよ」

紅彦の腕が四度よたび動いた。

「兄貴・・・」

「うろたえんじゃねえ」

狭間ら四人のベルトが、腹の薄皮と共に切断され、だらしなくずり下がった。

「今回だけは見逃してやる。今度会ったときは、頭が首から離れるぞ」

四人は重い身体を引きずるようにして視界から消えた。


烏兎ヶ森の草庵そうあんが騒がしかった。

草庵にタマが来ているのだ。留守番のサブのことが気がかりで、訪ねてきたのだった。

「霞さんはいつ帰ってくんだろ」

「まだ、きょう出かけたばかりだんべよ」

あきれた顔でサブが言った。

「あんな綺麗な人を山ん中で、何日も何日も過ごさせるなんて、紅ちゃんは何を考えてるんだろうねえ」

「叔母さん、ほんじゃ、俺が様子を見に行ってくべか?」

サブがしめたという顔をした。

「そりゃあ、ミイラとりがミイラになっちまうだんべよ」

大声でタマが笑った。

「なんだい、そりゃあ?」

「どうでもいいけど、それじゃ、あんだを留守番させた意味がなくなっちまうべ」

「・・・」

「サブも霞さんのように聡明そうめいならいいんだがねえ・・・」

「そりゃあ、比べる方が無理だっちゅうの」

「ほう、たまにはまともなことを言うんじゃねえか」

「叔母さん、何しに来たんだよ」

サブがぼやいた。

「何か、霞さんから連絡が入ったかと思ってな。まだ来ていねえか?」

「出かけたばかりで、連絡が来るわけなかんべえよ。それに、紅彦さんは困ったことがあっても、よほどのことでねえと連絡してこねえべよ」

「そうだ、草餅こさえてきたんだ」

「それを早く言わねば・・・」

サブの手が風呂敷に伸びていた。

「サクドガっちゃ、人も住んでいねえ山ん中だろうよ。なんで、そんなとこに霞さんを連れて行っちまったんだろうねえ」

「叔母さんの言いっぷりは、霞さんはまるで自分の娘のように聞こえるぞ」

サブが呆れたような顔をした。

「そんな風に聞こえたかい?」

「あっ、そうだ。叔母さん、この前、阿倍の家に家捜しに行ったんだって・・・?」

「そんなこと、誰に聞いたんだよ?」

「お袋が笑ってたぞ。タマは小さい頃から昔の古い物に関心があって、よく倉の中に一人で入っていたけんど、今もちっとも変わっていねえって・・・」

「姉さんも知ってたのか?」

タマが罰悪そうな顔をした。

「それで、何かお宝はあったのかい?」

「人聞きの悪いこと言うんじゃないよ。何も金目の物を捜していたんじゃねえよ。兄ちゃんだって、よく分かっていたのになあ」

「あっはっはは・・・」

「おまえが笑うんじゃないよ」

サブを睨んだ。

「誰もそうは思っていねえよ。そんで、何かあったのかよ?」

「サブは口が軽いから、紅ちゃんが帰るまで待つかなあ・・・」

「叔母さん、それはなかんべえ」

「ほれ、あんだは仕事しなさいよ」

「そりゃあ、蛇の生殺しだべよ」

サブが子供のような顔をした。

「どうするかなあ・・・」

「なんだよ、そりゃあねえべよ」

こうなったら駄々っ子だ。

「仕様がねえか。あんだも男のはしくれだろうから・・・」

「端くれはねえだろうよ」

「そうかい。そんじゃ、漏らしたときには、霞さんのお父さんが造ったあの短刀で、あんだの首を掻斬るぞ」

タマの目が笑っている。

「叔母さん、おどかしっこなしだよ」

「サブは、母ちゃんからこんな事を聞いたことがあっか?」

「何だよ」

「母ちゃんの実家、私の実家でもあるんだけど、あの安倍の家は、藤原三代の全盛期の前に奥州を治めていた家系なんだよ」

「ふーん」

「今は随分と没落してしまったけど、私が小さい頃には、それは太平洋戦争の前の随分と古い話だけどね、安倍の家には大きな倉が五棟もあってな、屋敷だって今の数倍はあったんだよ」

「へええ・・・」

「あんだも見たあの短刀は、その倉の中で見つけたんだがね、そん時、祖父様から聞いたことを、何の拍子だったか、ついこの間思い出してしまったんだよ」

タマは遠い目をしていた。

「何を聞いたんだよ?」

「急がせんじゃねえだよ」

「んでも・・・」

「それは、こういうことだった。平安時代の中頃、奥州一帯を支配していた安倍家の当主は高任たかとう様という方だった。高任様には沙霧さぎり様という妹がおってな、そのお方が刀匠橘宗綱様に嫁いたんだよ。祖父様に聞いたのは、刀匠宗綱様と沙霧様にまつわる話だったよ」

「何で今まで忘れてたんだよ。紅彦さんが霞さんを連れて帰って来たときに、普通なら思い出してもよかんべえよ」

「あんときは、そんなことすっかり忘れてしまってて・・・。霞さんに今の習慣を教えるのに夢中だったから、仕方なかんべえ」

「叔母さん、話の続きだよ」

サブに先を促されて、タマが苦笑した。

「沙霧様は、それはそれは、とっても綺麗なお方だったそうだ」

「そういうことが、どっかに書いてあったのかい?」

サブが驚いた表情をしていた。

「いやねえ、綺麗な方だったていうのは、私が勝手に言ってるんだけど、あんだだって霞さんを見ればそう思うだろうよ」

「うん・・・」

珍しくサブが素直だった。

「刀匠橘宗綱様から高任様に宛た書簡、あんだには分かんねえだんべが、書簡ちゃ手紙のことだっちゃ」

「俺だって、それぐれえは分かるよ」

「その手紙が阿倍の家に残されていて、当時は、いや、今だって私らにしか分からないだろうけんども、それには大変はことが書かれてたんだよ」

「叔母さんは古文書が読めんのかい?」

「読めるわけがねえだろう。祖父様が書き写したのが、倉に残っていたんだよ」

「なあんだ、そういうことか」

「あの短刀を倉から持ち出したとき、祖父様に見つかってしまって、その言われと書簡の在処ありかを聞かされたんだよ。なんで私に教えたんだろうねえ」

「・・・」

「その橘宗綱というお方なんだが、あんだも聞いたことがあるべ?」

「それって、霞さんのオヤジさんだべよ」

「なんだ、知ってたのかい。そんなんだよ。問題はその中身なんだ」

「叔母さん、勿体つけてねえで、早く言っちまいなよ」

サブはやんちゃ坊主の顔になっていた。

「それには、目ん玉が飛び出るほど魂消ることが書いてあったんだよ」

「だから、何なんだよ」

「うん、それがねえ、冠山の遊霧山杖林寺で忽然こつぜんと消えた娘が、サクドガの里に舞い降りた。山窩の長から知らせが届いた。取り急ぎ知らせるが、日を改めて、人足を借りたいことがあるので、追ってお願いをする、ということが書かれてたんだよ」

「・・・」

「私は霞さんが帰ったことと、なんで人足が関係すんじゃろかって・・・。何かあったんじゃねえかと思ってね」

珍しくタマの声が震えていた。

「霞さんは、また戻っちまうのか・・・。紅彦さんは、阿修羅はどうなるんだんべか?」

サブが不安そうな表情でタマを見つめた。

「・・・」

タマの双眸が宙を漂っていた。

「紅彦さんたちがサクドガ森に行ったのは、何かこれと関係があんだんべか?」

「聡明な霞さんがいればねえ・・・。これぐれえのことは、すぐ分かるんだろうけんどもなあ」

タマがため息をついた。

「叔母さん、何だか、胸騒ぎがするんだっちゃ。俺、これからサクドガ森に行ってくっから、いいべな?」

「何も出かけることはなかろうに・・・」

「いや、やっぱり俺は行くよ」

気の早いサブは、もう立ち上がっていた。

「ちょっと待ちなよ。あんだは留守番なんだよ。わかってんのかい?」

「留守番より大事だんべよ」

サブは、もう立ち上がっていた。

「まずは、宇多先生に連絡せねば・・・。それに、その格好じゃ・・・」

「母ちゃんと先生には、叔母さんから連絡してくれよ」

「そんだけど、あんだ、サクドガちったって広いんだべ。大丈夫かい?」

「ああ、まかしときなって。絶対、霞さんを連れ戻すから・・・」

「紅ちゃんも一緒だよ」

「おうよ」

サブは、廊下からリュックサックを引っ張り出し、それを重そうに背負った。

「あんだ、なして旅支度してたのよ?」

サブはタマから逃れるように、オートバイの爆音を残して草庵を飛び出して行った。


サクドガ森の西斜面、大岩のところに若い男女一組が休息していた。都会的な風貌をした女性が、金バッチを掌に乗せて眺めている。

「天宮さん、藤原の動きは鮮やかでしたね」

「あれは実戦的な居合だったわ」

「天宮さんは、確か、合気道の有段者ですよね。あの剣法は、何流なんでしょうか?」

「藤田君は情報専門だったわねえ」

「はい、格闘技には縁遠くて・・・」

二人は、諜報機関百舌もずに配属され、今は黒木の配下となっている。

「あの居合は、実戦から身につけたものだと思います。居合は、関東では夢想神伝流、四国では無双直伝英信流、九州では伯耆ほうき流が主流だけれど、そのいずれとも違うように思えるわねえ」

「そうなんですか?」

「二天一流では手裏剣術も実戦に用いられていたと言われているけど、今ではそれを知る人はいないわ」

「天宮さん、鉄門組がどうして動き出したんでしょうかねえ?」

藤田も天宮の掌に乗っている金バッチに目を移して、さきほどから渦巻いていた疑問を天宮に投げかけた。

「さっきの会話は録音できなかったの?」

天宮の澄んだ瞳が藤田を見つめていた。

「すみません。集音マイクの調整が・・・」

「まあ、いいわ。私が気になるのは、あのとき、霞さんが驚くほど落ち着いていたことなの。あれは、以前にもきっと同じようなことを経験して、紅彦さんを心底信じてるからだと思うわ」

「なんだか、追うほどに、藤原の素性が分からなくなってきました」

「あせることはないわ。私は、あの犬、阿修羅のことが分かれば、もつれた糸がほぐれるように明らかになると思ってるの」

「近くで見ると化け物みたいな犬ですねえ」

「現存しない種というところに、大事なヒントが隠されていると思うわ」

阿修羅の去った方角を見つめ、天宮は自分に言い聞かせるように呟いた。

「さっきの奴らはどうしますか?」

「ボスに報告しておきます」

天宮は、ボスの指示を掻い摘んで藤田に説明した。

「奴ら、生きた心地がしなかったでしょうねえ。藤原が本当に斬るかと思いましたよ」

「ええ、奴らが抵抗したら、多分斬っていたでしょうね」

「僕は、寒気がしましたよ。まだまだまだ駄目ですね」

「さあ、もう少し先に行きましょうか」

天宮が立ち上がった。

「あまり近づくと、あの犬に感づかれませんか?」

「風向きに注意すれば大丈夫でしょう」

「でも、あれは化け物みたいな・・・」

「監視できる範囲にいなくては、仕様がないでしょう」

天宮が先を歩き、藤田が大荷物を背負って後に続いた。

その頃、紅彦たちは、清水の湧き出している場所を見つけ、その横の平坦な所で野営の準備をしていた。

「紅彦さん、こうしていると鹿谷ししだにを思い出しますわねえ」

かつて、紅彦が阿修羅の父親夜叉丸とともに、はぐれ羆の鬼魅を追い詰めていたときのことを思い出したのだ。

「あのとき、どうして鬼魅をやっつけようとしたのか、今考えると不思議に思うよ」

枯れ枝を火にくべながら、紅彦が呟いた。

「・・・」

「これが宿命というのかな?」

「・・・、阿修羅はどこに行ったのでしょうねえ?」

遠くで、阿修羅が遠吠えをしていた。

「記憶に残っているのかしら、ここに来たことが・・・」

「まさか、もう馬鬼羅たちの匂いは残っていないだろう」

「阿修羅は、仲間がいなくて寂しいのね」

「あいつは、遊び相手がいないか探しに行ったんだろう。狸とか、野兎とか、相手には迷惑だろうが、あいつはそれを楽しんでる」

「そうかもしれませんわねえ」

霞が微笑んだ。

どこをほっつき歩いていたのか、夜も更けた頃、何事もなかったような顔で阿修羅がテントに戻ってきた。

翌日の森は薄い靄がかかり、向かい側の山並みが水墨画のように霞んでいた。

「阿修羅は今朝早く出かけていきましたよ」

「あいつ、妙にそわそわしていたぞ」

「昨日の暴力団が、まだその辺をうろついているのかしら?」

霞が後を振り返った。

「あの惚けた眼は、どっかで悪戯してたってところだな」

「何をしてたのかしらねえ・・・」

マタギしか踏み込まないような獣道は、急斜面をくねりながら山頂に続いている。

「とにかく、一旦は頂上に行ってみよう」

「前に来たときは、こんなに大変じゃなかったような気がします」

「ゆっくり歩いても昼前には着く」

「・・・」

前方のやぶがガサガサしている。

枯れ木を踏む音が大きくなり、二人の前に縦縞模様の動物が飛び出してきた。

「キャーッ」

霞が紅彦の後に隠れた。

「こらっ、阿修羅、出てこい」

藪に向かって、紅彦が声をかけた。

「えっ、阿修羅なの・・・」

「これは瓜坊主だよ。以前、夜叉丸の奴に追われて転がり出てきたのと同じだ」

「・・・」

紅彦の後から霞が顔を出した。

「ほんとだ。まだ可愛いわねえ」

惚けた眼をして、藪の中から阿修羅がのっそりと現れた。

「まったく、親子二代で同じ事をするんだから・・・」

霞が阿修羅を睨んだ。

「おい、阿修羅、こいつを返してこいよ」

足下でうずくまっている瓜坊主の頭を軽小突くと、阿修羅は瓜坊主とともに再び藪の中に姿を消した。


山頂は僅か六畳間ぐらいの広さしかなく、そこには、気の遠くなるような星霜せいそうを経て風化した岩が転がっていた。

四方は見渡す限り、山また山の茫々たる風景が広がっていた。この地は、日本のチベットと言われているように、北上山地の山並みが連なっていた。南には、大野沢山と火石山の間から早池峰山の連山がかすんで見えた。

「紅彦さん、ここから見ても、天女岩の方向は分かりませんね」

「ああ、これほど山が深いと、少し骨が折れるかなあ」

「私は町で暮らしているときよりも、ここにいる方がずっと落ち着くわ」

「それじゃ、草庵はサブにまかせて、ここに住み着くか」

紅彦は、冗談とも本気ともとれる言い方をして、上空の白い雲を眺めた。

「綺麗な雲・・・」

霞が遠い目をして呟いた。

「あの雲を渡っていけば、弘忍やみんなに会えるような気がするなあ」

「ええ、まるで夢の中に出てくる浮橋うきはしのようだわ」

夢浮橋ゆめうきはしか・・・」

紅彦が溜息ためいきをついた。

「あら、阿修羅が何かくわえてきたわ」

軽やかな足取りで、阿修羅が山頂にやってきた。

「どこでそれを拾ってきたんだ?」

阿修羅が双眼鏡が銜えていた。

「これは阿修羅が噛み切ったらしいわ」

「どれ、・・・」

紅彦が手を伸ばした。

阿修羅は霞の横に腰を下ろし、得意そうな眼をして紅彦を見つめている。昨晩、阿修羅は紅彦たちを監視していた天宮のテントの近くに猪の親子を追い込み、騒ぎを起こしていた。阿修羅は、天宮たちがずっと後をつけてきていることを知っていたのだ。地響きをたてて疾走する猪に、テントの中はパニックに陥った。天宮も藤田も何が起こったのか、すぐには飲み込めなかったのだ。そして、最後の仕上げは、阿修羅がテントを揺さぶり、驚いて飛び出してきた藤田から暗視双眼鏡を奪い取ったのだ。

「これは、ハイキングの人が持つものとは違うなあ」

「私にも見せて・・・」

「周りがすこし騒がしくなってきたぞ」

「どういうことですか?」

珍しそうに双眼鏡を覗いていた霞が、紅彦に顔を向けた。

「俺たちはずっと監視されていたんだよ」

「なんのために・・・」

「やはり、隠し財宝とか黄金伝説とかいう話は、尾ひれがついてどんどん大きくなってしまうんだろうなあ」

「今も昔も変わりませんねえ」

霞が寂しそうに微笑んだ。その顔を、何を思ったのか、阿修羅が顔を舐めた。

「う・・・、阿修羅、よして・・・」

「よし、降りようか?」

勢いよく紅彦が立ち上がった。

「ウオーン」

四肢を踏ん張り、阿修羅が一声高く吠えた。

「びっくりした・・・」

霞も立ち上がり、紅彦に続いた。

ちょうどその頃、野犬の群れが大野沢山からサクドガ森に移動し、湧き水の所に集合していた。グレートデーン、ハスキー犬、アラスカンマラミュート、ダルメシアン、ポインター、日本犬の雑種で群れは構成されており、一際大きなグレートデーン犬が二十数頭の群れを統率していた。

今、地方では野犬が増加していた。心ないハンターによって、猟期が過ぎるときに置き去りにされた犬たちであった。その犬たちが交配を重ねるうちに、人には馴染まない野犬が誕生してしまうのだ。紅彦たちを監視していた天宮と藤田が、不幸にも野犬の群れと遭遇してしまった。

「天宮さん、刺激しないように通り過ぎましょう」

藤田の声が震えを帯びていた。

「警棒を出して・・・」

今回の監視には、二人は拳銃を所持していない。登山ナイフと七十センチメートルに満たないスライド式の警棒を携帯しているだけであった。

野犬の群れが双眸に暗いものを秘め、二人をじっと見据えている。

「藤田君、徐々に後退して後の木を盾にしましょう」

「いざとなったら、天宮さんは木に登るか、隙を見て逃げてください」

「馬鹿ねえ。藤田君、この群れから逃げられると思ってるの?」

「・・・」

天宮の顔も青ざめていた。

「グルルルル・・・」

グレートデーンが威嚇した。

「藤田君、リュックをゆっくり下ろして、群れに投げてみましょう」

「はい」

野犬の群れは、藤田が放り投げたリュックサックには目もくれなかった。群れの輪は、二人を取り囲むように徐々に縮まっていた。

「藤田君、私のリュックから菓子パンを出して、もう一度放り投げてくれる」

「はい」

ダルメシアンがを放り投げられた菓子パンの匂いをごうとしたとき、グレートデーンが低い唸り声を発して制止した。

輪は、一段と狭まっていた。

「来るわよ」

「エーイ」

藤田が威嚇したとき、子牛ほどもあるグレートデーンの牙が腕を噛み砕き、藤田を引きずり倒した。凶悪な群れは、一斉に藤田に襲いかかった。天宮が警棒を小刻みに打ち込み、三頭目の日本犬雑種の鼻を叩いたとき、鋭い牙が天宮の太股に食い込んだ。野犬の怒号が飛び交う中、血まみれになりながら藤田が天宮を助けようと這い寄った。天宮の腰が崩れ落ち、両膝を着きながらも警棒を振り回したとき、アラスカンマラミュートが空中高く飛び上がり、天宮の頭部を噛み砕こうとした。

 そのとき、一陣の風が吹き抜け、アラスカンマラミュートの耳が噛みとられていた。一瞬、時間が静止したように、群れの動きが凍り付き、つむじ風が舞い降りた地点を凝視していた。

群れの輪の中に阿修羅が立ち、二人を庇うようにグレートデーンと対峙たいじした。阿修羅の方が幾分大きいものの、二頭の体格にはさほどの優劣がなかった。

「お前は・・・」

顔面蒼白の天宮が呟いた。

「グ、グググウウ・・・」

阿修羅の出現により、群れの統率に乱れが生じ動揺が走ったが、グレートデーンの一声で瞬時に冷静さを取り戻していた。ボスのグレートデーンを残し、群れは後ろに退き、ボスを囲むように陣形を張った。

二頭が対峙した。

そこに、紅彦と霞が斜面を下りてきた。

「紅彦さん・・・」

「こんなところにも野犬がいるのか」

「あの犬は大きいわ・・・」

「あれは西洋犬で、種類は忘れたが、どうしてこんな山の中にいるんだろう」

「捨て子かしら?」

「しかし、数が多すぎるなあ・・・」

眼下に凶暴な面をした野犬の群れが蠢<うごめ>いていた。

「ほら・・・、あそこに人が倒れている」

「よし、急ごう」

霞を庇いながら、紅彦は急斜面を飛ぶように走った。

「あなたは・・・、百合さん、どうしたのですか?」

「・・・」

天宮が弱々しい笑みを浮かべた。

「知り合いかい?」

「ええ、銀座シュライクの天宮百合さんよ」

「シュライク?」

「ええ、何度か家に来られたのですよ」

藤田を介抱しながら、紅彦の無頓着さを呆れたように、霞が紅彦を見上げた。

「それは迂闊だった」

振り向きざまに、紅彦が棒手裏剣を射った。

天宮に忍び寄っていた甲斐犬の雑種が首に棒手裏剣を突き立て、狂ったようにくるくる回りながら音を立てて倒れた。

天宮は太い楢の木にもたれて、紅彦の動きをじっと見つめていた。

「阿修羅、早く終わりにしよう」

紅彦の声がかかると同時に、阿修羅が猛然と襲いかかり、一撃でボスの首を噛み砕き、そのまま群れの中に飛び込んで、そして次から次へと野犬を捩じ伏せた。阿修羅が動くたびに、群れの間から怒号が沸き起こって野犬が倒れた。

野犬が戦意喪失したとき、紅彦が阿修羅に声をかけた。群れは、潮が引くように瞬く間に、ボスと甲斐犬の亡骸を残して樹林に消え去った。何を考えているのか、群れの後を追うように阿修羅も姿を消した。

「紅彦さん、こちらの方は酷い傷だわ」

「とりあえず、清水で洗ってくれないか。俺はこいつらを始末してくる」

リュックサックから折り畳みスコップを取り出し、紅彦は野犬の亡骸を樹林に引きずっていった。

「霞さん、ありがとう」

天宮が蹌踉めきながら立ち上がった。

「まだ動かないでください」

「大丈夫よ。藤田君の傷はどうかしら?」

天宮が霞の横に腰を下ろした。

「右腕が骨折しているわ。それよりも、黴菌が心配です」

「抗生剤を飲ませるわね」

「全身いたるところ、噛み傷が酷いわ」

霞が顔を曇らせた。

「応急処置をしたら下山します」

天宮が苦悶の表情をしている。

「こんな山の中にどうしてやって来たのですか。ハイキングであれば、たいていの人は早池峰山を登りますよ?」

紅彦が阿修羅を伴って戻ってきた。

「はい。実は私の母が岩泉町で生まれ育ったものですから、このサクドガ森のことを小さい頃から聞いており、こちら方面に来たときには一度登ってみたいと思いまして、同僚を誘ってここまで来たのですが・・・」

天宮がうつむいた。

「この山のことを、お母さんからどのように聞いていました?」

紅彦は、天宮の黒髪を見下ろした。

「母は数年前に旅立ってしまいましたが、遠い昔、この山には山人の聖地があり、それは俗人が足を踏み入れると、牙をいて襲ってくるから村人もここには近づかなかった。そのようなことを聞いたような気がします」

「そうですか。ところで、これはあなた方の物ですか?」

紅彦が暗視双眼鏡を天宮に見せた。

「いいえ、私たちの物ではありません」

天宮は、強い視線で紅彦を見つめた。

「紅彦さん、先に百合さんの傷の手当てを・・・」

「おう、そうだった」

「紅彦さん・・・」

「あっ、失礼」

紅彦の脳裏に、見るとはなしに天宮の白い太股が目に入ってしまった。


仙台の鉄門一家に激震が走っていた。

組長が烈火のごとく怒り狂っていた。

「嵐がやられるのを、手前らはむざむざと見てるだけだったのかい」

「組長、すいません」

狭間はざまが青ざめていた。

「熊、手前が喰われればえがったんだよ」

「・・・」

「狭間、奴の首をここに持ってきやがれ」

「はい・・・」

「なんだい、歯切れが悪いんじゃねえか」

組長の目が光った。

「実は、ここんとこ、変な奴らがうろうろしてやがんですよ」

森下が割って入った。

「なんだ、そりゃあ?」

「得体の知れねえ奴です。組関係じゃねえし、かといって素人でもねえようです」

「ふーん。ところで、おめえのダチに抜刀道のすげえ奴がいると言ってたっけなあ」

組長が煙草を銜えた。

「岡山で道場を開いてます」

「なんてったけか、そいつの名前だよ」

「峠次郎っていいます」

「黒鉄組の叔父貴の還暦祝いで見たが、あいつの腕を借りられねえか?」

紫煙がゆらゆらと高い天井に登っていく。

あの日、巻きわらのほか、精肉工場から仕入れた吊し豚一頭を見事に両断した姿を、組長はソファーに凭れて思い浮かべていた。

「以前は、広島で顔を売ってましたが、今は足を洗っていますからねえ・・・」

「一度、仙台に来てもらえねえか?」

「なかなか難しいでしょうね。あいつはなかなか頑固なんですよ」

森下が渋い顔をした。

「組長が源清麿を差し上げたいと言ってみろよ。条件は野郎を叩き斬ったときだがな」

「組長、奴は足を洗ったんですよ」

「身代わりはいくらでもいるだろう」

「ですが・・・」

「四の五の言ってんじゃねえよ」

「分かりました。話してみます」

組長が一度言い出したら絶対に後に引かないことを組員で知らない者はいない。

「おい、ここに熊を呼んでこい」

「はい」

「おっ、ちっと待て。狭間、おめえは森下のお供をして岡山まで行って来い。てめえの不始末ぐれえ、ちゃんとつけてこいや」

 狭間が部屋を出てから間もなく、首から腕を吊り下げた格好で熊田が入ってきた。

「熊、おめえにやってもらいてえことがあんだが、一関の後藤さんとこに行って、犬をもらってこいや」

「黒野組の後藤さんですね」

一刻も早く部屋から出ていきたい様子の熊田を引き留め、組長はゆっくりと立ち上がり机の引き出しから小箱を取り出した。

あわてるな」

「・・・」

熊田が緊張した。

「なーに、おめえを焼いて食おうと言うんじゃねえから安心しな」

「・・・」

「これを宗雅堂に届けてから、一関に行って来い」

小箱を抱え、ほっとした表情で熊田は逃げるように部屋を飛び出していった。


サクドガ森に夕闇が迫っていた。

疲れ切った顔で五人の男女が街道を歩いていた。茜色あかねいろに染まった空を、騒ぎながら烏の群れが横切っていく。

「紅彦さん、それはなかんべよ」

「仕様がねえだろう、サブだけが頼りなんだから・・・」

「サブちゃん、この人たちを病院に送ってくれないと、野犬に噛まれたとこから毒が回ってしまうわ」

「せっかく来たんだぞ。それに、叔母さんには霞さんを連れ帰ると言ってきたんだぞ」

サブが駄々をこねた。

「霞さん、私が運転していきますから・・・、大丈夫です」

「でも、太股ふとももの傷が深そうだし、ねえ紅彦さん、運転は無理ですよねえ」

辛そうな表情の天宮を庇い、霞は紅彦に同意を求めた。

「サブ、頼むよ。二、三日したら、間違いなく帰るから、家で留守番してろよ」

「紅彦さん、ほんじゃ、この人らを送ってから、また来っからそれでいいべよ」

「そんなこと言っても、俺たちがどこにいるのか分からないだろう」

「それで相談だけんども、阿修羅を俺に貸してくれよ。俺だって一人で病院まで連れてくのは、ちっと気味悪りいしよお。いいべよ。ほしたら、すぐに阿修羅が紅彦さんたちを見つけるべよ」

サブが珍しく意地を張っている。

「霞さん、ほんとに大丈夫ですから・・・」

「百合さん、気にしなくてもいいわ。サブちゃんは喜んで行ってくれるから・・・」

「でも、また野犬が来たら困るでしょう」

「多分、もう来ないと思うわ。それに紅彦さんがいるから・・・」

霞が紅彦を見て頷いた。

「じゃあ、連れて行けよ。でも、今晩は町に泊まれよ」

「サブちゃん、それじゃ、宇多先生が岩泉の病院に連絡してあるのね?」

「ああ、外科の先生が待機しているって言ってたよ」

「ここからどれくらいかかるの?」

「そうだなあ、あんまり飛ばさなくても、一時間半もあれば着くべ」

「サブちゃん、気をつけていくのよ」

「まかしておけって。んでも、泊まっとき、阿修羅はどうすべ」

「旅館の軒下で十分だろう。明日、ここまでタクシーで来いよ。ほれっ」

紅彦は財布から二万円を抜いて、喜色満面のサブに渡した。

後部座席に藤田と阿修羅を、助手席に天宮を乗せた車のテールランプが闇に消えた。

「さあて、今からでは登れなくなってしまったな。今晩は宇多先生の車の横でキャンプするか」

「そうしましょう」

「昼間、阿修羅が持ってきた双眼鏡は、あの人たちの物だろう」

「何をしていたのでしょうねえ?」

霞が首を捻った。

「銀座シュライクと言ったっけ?」

「ええ、紅彦さんが造った物をいくつか持っていったのですよ」

「ふーん」

夕闇が濃くなってきた。

行き止まりの道には、車が入ってくることもなく、二人は風のそよぐ音やふくろうの鳴き声しか聞こえない静寂しじまの中にいた。


 ベンツの脇のテントで一夜を過ごした二人は、早朝、再び獣道を登った。昼も過ぎた頃、、サクドガ森の中腹に四人の男女が佇んでいた。春霞が棚引く山並みに柔らかい日差しが降り注ぎ、水墨画のような風景を見せていた。

「紅彦、やっぱ俺が来ると、やることが早いだろう」

「まさか、先生がのこのことやって来るとは思っていなかったよ」

「お前、のこのことは何だよ」

宇多がやって来たのだ。

「まいったよ。俺が病院の人にここまで送ってもらったら、いたんだよ。先生が・・・」

「この野郎、俺を化け物のように言いやがって、紅彦、こいつは首にしていいぞ」

宇多がサブの頭を小突いた。

そのとき、阿修羅が屹立きつりつした大岩の陰から姿を現した。

「紅彦、ここが例の所か?」

宇多が大岩を見ている。

「なるほどなあ。下から見上げると、まるで天女が舞い降りた姿だよなあ」

「これが天女岩か・・・」

サブもしきりに頷いている。

「私もここだと思います。確か、もう少し下の方に社があった筈です」

後を振り返り、霞が言い切った。

「そうか・・・。で、あれはどこにあるのか見つけたのかい?」

「いや、まだです」

「そりゃあ、厄介やっかいだぞ。こんなに広くては、こりゃあ大変だ」

「先生、何か変だぞ」

サブが横合いから口を挟んだ。

「何がだよ?」

「だって、先生は一関に帰るんだろう」

「馬鹿言ってんでねえよ。俺は今晩はここに泊まって、明日の夕方帰るんだよ」

「ええーっ・・・」

「何だよ。そのリアクションは?」

「先生、寝袋を持ってきていねえべよ」

「何言ってんだよ。サブのを借りるから問題ねえ」

宇多がだだっ子の顔をしていた。

「うふふふ・・・」

「霞さん、何か言ってくださいよ」

「サブちゃん、もうあきらめなさい」

「そりゃあねえべよ」

のっそりと阿修羅がサブの前に行き、首を傾げるようにしてサブの顔を覗き込んだ。

「やっぱり、俺の気持ちが分かるのは阿修羅だけだなあ」

「さぶ、阿修羅にも分かんねえとよ」

宇多が茶化した。

「先生、それじゃ、日が暮れる前に、その辺を二班に分けて捜しましょう」

紅彦が促した。

「よし、合流はここでいいな」

「今晩はここでキャンプを張りましょう」

「ほんじゃ、サブ、行くべ。紅彦、阿修羅は借りていくぞ」

「やっぱり、俺は宇多先生とかい・・・」

ぶつぶつ言いながら、宇多の後に従った。

「宇多先生がいるととても、にぎややかになりますわねえ」

霞が愉快そうに笑った。

「サブが迷惑そうだけどな」

「でも、ほんとうは、サブちゃんもあれで結構嬉しいのですよ」

宇多とサブは天女岩より上の方を、紅彦と霞は下の方を主に探索することになった。

「不思議ですよねえ。どうして昨日は天女岩が見つからなかったんでしょう?」

霞が首を捻った。

「庚申山もそうだけれど、あの頃と今では、地形にズレがある。理由は分からないが、全く同じだとは考えない方がいいよ」

「あの社はとても小さいものでしたわよねえ。それに比べて、鳥居がとても立派だったように覚えてるわ」

「鳥居は結界だから、山窩さんかの人たちも邪気や魔気が中に入れないようにしたんだろう」

「あのとき、紅彦さんはもう目を開けないのではないかと思いました」

「・・・」

「もう、今となっては、随分と遠い昔のような気がします」

「源海は死に場所を求めていたんだろう。本当は俺より強かったよ」

「・・・」

「さあ、先に行こうか」

「紅彦さん、もしかしたら、もっと具体的に記録した図面があるんじゃないかしら?」

「その可能性はあるけど、それも雲をむような話だな」

「そうですよねえ」

霞が紅彦に腕を絡ませてきた。

「考えられるのは、洞窟のようなものだろうと思う」

「じゃあ、山肌に注意しないと・・・」

「あの弘忍じゃ、たいしたことは考えられないだろうけど、空齋が一緒だから慎重に隠してあるだろうと思う」

「少し休憩しましょう」

紅彦たちは、手頃な岩に腰を下ろした。


その頃、倉敷に森下と狭間の姿があった。

大原美術館の隣に鶴形山公園がある。その一角にある阿智神社の境内に、三人の男がたたずんでいた。

「峠さん、無理なお願いだとは思うが、もう一度考え直しちゃくれないか?」

「俺は足を洗った男だ。いまさら、ここを捨てて一関くんだりまで行かねえよ」

峠は、肩幅が広く、分厚い胸をしていた。

「峠さん、組長は何もここを捨てろとは言っていねえぜ」

森下の表情に焦りが出ていた。

「俺には妻子があるし、大勢の弟子もいる」

峠が煙草をくわえた。

 すかさず、狭間がライターを点けた。

「それに、俺はその藤原という男には、何の縁もねえよ。そんなことで、俺がこれまで築いてきたものを捨てろというのかい?」

煙を吐き出しながら、峠が森下の顔を見つめた。

「峠さん、組長から預かってきた物があるんだが・・・。おい、お渡ししねえかい」

森下が狭間に顎をしゃくった。

「何だい、これは・・・?」

青紫色の綺麗な風呂敷には、細長い箱が包まれていた。

「それは、是非、峠さんに使って貰えと、組長から言われてきました」

「・・・」

中には、肥後拵えの源清麿が入っていた。清麿は江戸時代の刀匠で、四谷に住んでいたことから四谷正宗と呼ばれていた。現代でも好事家こうずかには垂涎すいぜんの的で、一口ひとふり三千万円はすると言われている。

「それを受け取っていただけますか」

「しばらく考えさせてくれないか」

峠が箱を返そうとするのを、森下が押し戻した。

「峠さん、それは預かっておいてください。私らも今日はそれを持ち帰れませんよ」

「・・・」

「なあに、時期を見計らってもう一度ここにお伺いいたします」

峠を残し、森下と狭間は足早に境内から姿を消した。まだ幼い娘の手を引いた母子が、社の向かっていた足を止め、怪訝そうに峠の姿を眺めた。夕日の逆光の中で、峠の影が凍り付いたように長くなっていた。


サクドガ森の天女岩では、二張りのテントが夕闇に浮かび上がっていた。

天女の顔が闇に白く浮かんでいる。

テントの前で、紅彦たちが賑やかに夕食をとっていた。阿修羅はさっさと食べて、姿をくらましていた。

「紅彦、阿修羅の野郎はどこへ行ったんだ」

「さあ・・・」

「さあって、それじゃ、霞さんのボディガード役目を果たさねえべ」

「先生、阿修羅は紅彦さんがいるときは、安心してほっつき歩いているんですよ」

霞が笑った。

「明日、昼前に見つからなければ、一旦帰ってから出直すべや」

「もう少し時間をかけて、調べてみたいことがあるし、そうしましょう」

「何だ、そりゃあ?」

「まだ漠然としているけど、タマさんの短刀や霞のペンダントのほかに、もっと具体的に書き残されたものがある筈だと睨んでいるんです」

紅彦が胸の内を話した。

「紅彦さん、阿修羅を呼んでくれよ」

「どうしたんだよ?」

「どうも、話がややこしくなってきたから、俺は阿修羅と風呂に入るかと思ってよ」

「おめえ、そんなこと言って、ほんとは一人で行くのが、おっかねえんだんべ」

宇多が笑った。

「そんなことはねえよ」

風呂は清水が湧き出ている所に、即製で紅彦がこしらえたのだ。たき火の中に拳より大き目の石を十数個入れて熱し、ビニールシートの中に水を入れ、真っ赤になった石を水に投げ入れるとお湯になる。紅彦が山窩の馬鬼羅に教わったものだった。

「サブ、おめえ、霞さんが風呂入っていたときいなかったけど、まさか覗きに行ってたわけでねえべな」

宇多がサブをからかった。

「先生、シャレにならねえよ。言うに事欠いて、そりゃあなかんべよ。そんなことしたら、阿修羅に噛みつかれるぞ。あんとき、あいつは霞さんの側にずーっといたんだぞ」

「ほーら、やっぱり阿修羅のこと知ってんじゃねえか」

「ひでえなあ、宇多先生じゃなくて、今度からエロ先生って呼ぶぞ」

霞がくすくす笑っていた。

「いいから、紅彦の仕込杖借りて、一人で行って来いって」

宇多は暇になると、おしゃべりなる。

紅彦が立ち上がり、闇に向かって口笛を吹いた。鋭く二度吹くと、間もなく樹林からのっそりと阿修羅が姿を現した。

「どこさ行ってたんだよ。お陰でエロ先生からひでえこと言われたんだぞ」

「この野郎、早く行って来い。もたもたしてると、阿修羅にケツを噛まれるぞ」

「何言ってんだよ。このエロ先生は・・・」

ぶつぶつ言いながら、サブは阿修羅を連れて闇の中に見えなくなった。

「紅彦、なんか、えらく複雑になってきたなあ・・・」

宇多が真面目な顔になっていた。

「全ては、杖林寺の財宝に繋がっているような気がします」

「そこが問題なんだ」

「今回のことで、サブやタマさんを巻き込みたくないんだけど・・・」

紅彦の顔が曇った。

「仙台のやくざ、それに得体のしれねえ奴らが関わってきたとすると、こりゃあ、ちっとばっかし厄介になるぞ」

「いつの間にか、先生も巻き込んでしまいましたねえ」

紅彦が宇多を見つめた。

「ああ、迷惑なんだが、仕方がねえや」

「先生、すみません」

霞が頭を下げると、宇多は慌てた。

「霞さん、いいんだよ。どうせ、たいしたことはやっていねえんだから」

「でも・・・」

「ところで、岩泉の病院に送った奴らだが、今日、無理矢理退院したそうだよ」

宇多が話題を転じた。

「ええーっ、酷い傷でしたよ」

「ああ、それがな、どうも公安が動いているようだぞ」

「公安が・・・?」

「あそこの外科医は俺の後輩なんだが、そいつの話しでは、二人を迎えに来たのは私服の警察官だったということだ」

「どういう関係なんだろうか?」

紅彦は天を仰いだ。

「不思議なことにな、そいつらは、まるでビップに接するような態度だったそうだ」

「・・・」

「分かんねえのか?」

宇多が悪戯いたづらそうな目で紅彦を見た。

「あっ・・・」

「そうだよ。黒幕はでっけえぞ」

「国家機関か・・・」

紅彦は目を閉じてうついた。

「やるしかねえだろう」

「先生は決断が速いですねえ」

「おおよ、俺は長いものに巻かれたくはねえんだよ」

宇多の双眸が輝いている。

「大体なあ、国が庶民の娯楽に介入することはねえだろう」

「でも、厄介やっかいですねえ」

「紅彦、腹をくくるべ。これからは何でもありだ。多少のことなら、奴らがうまくみ消してくれるはずだ」

「先生、悪戯っ子のようなお顔ですよ」

霞が微笑んでいた。

「そう見えるかい。でもなあ、紅彦、この話は俺たち三人の胸に納めておくべ。サブを巻き込みたくはねえしなあ・・・」

普段、破天荒な言動で人を惑わしている宇多が、珍しく真剣な表情をした。

「紅彦、今までは斬らなくてすんだけど、これからはそうもいかねえぞ」

「覚悟してます」

紅彦もたき火の炎を見つめた。

「まあ、あの阿修羅もいることだし、霞さんが無事なら、俺はそれだけでいんだ」

「先生、私だけ残っても、いいことは何にもありません。やっぱり、みんなが無事でないと楽しくありませんよ」

霞が宇多と紅彦を交互に見つめた。

「何が楽しいかって・・・?」

闇の中から、サブと阿修羅が姿を現した。

「サブがいれば、どんなことでも面白くなるって言ってたとこだ」

「先生が言うと、何か嘘臭うそくせせえぞ」

「サブ、野良犬は出てきたか?」

「影も形もねえや。やっぱり、阿修羅がいるとおっかねえんだんべ。出てこねえぞ」

サブが阿修羅の頭を撫でた。

話題はサブの彫金の腕前に移り、宇多の独壇場の世界になってしまった。宇多とサブは久しぶりのキャンプで、気持ちが高ぶっていた。漆黒の闇に小さな炎が揺らめき、幻想的な情景が、二人を別世界に誘っているのだ。

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