春の眠り

「三年の三学期。あと少しってのに遅刻するとはねえ」


 斎藤が呆れたように私を見下ろす。それを蔑みと解する人は、彼女とは仲良くやれない。彼女なりの信頼の証だ。


「だってもう春だし」


 孟浩然の『春暁』を習った日から、私たちの遅刻は、爽快な春のせいになった。

 寝過ごしてしまうのもくしゃみや鼻水がとまらないのも心臓がドクンドクンと音を鳴らすのも、すべて春のせい。


「春眠暁を覚えず。その続きは、誰も知らない」


「知らないんかい」


 と、とっさにツッコミを入れる斎藤も、同じく続きを知らない。

 斎藤はずば抜けて勉強ができるわけではないが、頭が良い。成績は私と大して変わらないけど、勉強時間は短い。というか、彼女が真面目に勉強しているところなど、見たことがなかった。


 対して中村は、アホなくせに勉強が得意だ。


「あんなん、スポーツと同じだろ」


 脳筋。

 筋トレと同じノリで、勉強もこなしてしまうからこそ、顔がめちゃくちゃカッコイイでもないのに、常にカースト最上位で、しかも女子からはモテる。

 脳筋とは、筋肉馬鹿を揶揄する言葉と見せかけ、脳を筋肉と同じ感覚で鍛えられるエリートを称揚する言葉。とさらに見せかけ、筋トレと同じく脳を鍛えることが知性だと勘違いしているアホを揶揄する言葉だ。


 いや、違う。これは嫉妬。


 私は中村が少しうらやましかった。

 私や斎藤は、勉強がなんの役に立つのだ、といつも考えてしまう。

 なりたいものもないし、夢もない。

 因数分解をする仕事に就く予定もないし、本能寺の変が何年に起きたか知らなくても困らない。

 という割に、孟浩然の『春暁』を遅刻の言い訳に使うしたたかさは身に付けていた。なんとも困り者だと我ながら思う。


 でも、もう少し勉強しておけばきっと、四人は同じ学校に通えたのだ。



 君は四月から、中村と同じ高校に通う。



 別に、君たちは特に仲が良いというわけではなさそうだけど。

 だけど、だけどね、中村にとって君が特別なのは、中村にとって君だけが特に仲が良いというわけではなさそうな存在だからなんだ、と私は思う。



「春眠暁を覚えず、処処啼鳥を聞く、夜来風雨の声、花落つること知る多少ぞ。僕は早起きだからね、君の知らない曙の空が美しいことを知っている」


 ——嘘だ。


 君は入学式の日、桜の木の下で眠っていた。

 三丁目の公園の、脚の一本折れた不安定なベンチに横たわって、眠っていた。

 私はそんな君に気を取られて、なにもない地面で転んだのだ。


 私は、君のいう「君」が私なら、曙の空が美しいことを教えてくれよ、と思わず声をあげたくなった。

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