消しゴム

 中学二年の時だったと思う。

 期末テストの日に、消しゴムを忘れた。


 普段は家で勉強することなんかないけど、テスト期間だけは別。さすがにその間だけは危機感を持って、家でも机に座った。

 が、それが仇になった。まさか机に置き忘れるとは……。


 と、ここで、ありがちストーリー展開として。

 それに気づいた誰かが私に向かって消しゴムを投げて、頭にぽかんとぶつかって落ち、先生に「なんだ。消しゴム落としたのかあ、ほら、拾いなさい」と言われて窮地を脱し、一瞬視線を交わした彼の口が「ばーか」と無音で動いて胸が高鳴り……、なんてのが定番だと思う。


 だけど、私と君の場合は違った。


 消しゴムを忘れた私に、君は気づいた。

 だって、視線が重なったから。

 私は期待した。

 これは少女漫画的な消しゴム貸してくれる展開だ!と期待した。……な訳ねえよな。だって君だもの。君がそんなありきたりルートを、進むわけがないもの。

 普通や常識を破ることが君の普通や常識。それが私の普通や常識になりはじめていた。


 私が消しゴムを忘れたことに気づいた君は、消しゴムを、なぜか中村の頭に向かって投げた。


「痛っ!」


 どうしてそっち!?


「こらぁ、中村。なにやってるんだ。早く拾いなさい」


「す、すみませーん」


 内心でそう思いながらも、私はテストどころではなくなったが、なんとか平均点以上は取れ、満足した。消しゴムなしでこれだ。十分だと思う。

 でも、君と中村は、クラスの一位と二位だった。


「これで同じ」


 君はそう言った、と思う。声に出してなかったから、確信はない。

 同じだからなんだよ。と私は思った。

 でも、ちょっとだけ嬉しかった。夏休みを前に、一ヶ月以上も君と会えなくなると知っていたから。そして、君もそのことを知っているのだと思ったから。


 ただ、それだけのこと。



「げ、まじ。消しゴム忘れたって、そんな漫画みたいなこと、ある?」


 と斎藤は私をなじった。


「はい、漫画みたいでごめんなさい」


 私は意味もなく謝った。


「いや別に責めてないし。あたしに謝っても仕方ないし」


「はい。反省しております。申し訳ございません」


「いやいやいや。とりあえずあたしのやつ、貸してあげるから」


 斎藤は優しい。



 斎藤から借りた消しゴムのケースの中に、あいつの名前が書いてあることを知っていた。そんな小学生みたいなおまじない。私は信じない。

 だって、消しゴムって、消すためのものだから。

 言葉や文字や絵を。誰かに伝えるために紡いだ、その言葉や文字や絵を、消すためのものだから。


 斎藤は無邪気に信じた。


「違うよ。消えちゃうのは知ってる。その名前がいつか消えちゃうって知っていても、それをずっと大切にしたいってことだよ。たとえ、百年後や千年後に、なにも残らないとしても。スミロドンと一緒だよ」


 斎藤にそう言われた時、その意味がよくわからなかった。

 斎藤のそんなおまじないが子供みたいだと思っていたけど、本当に子供なのは私だった。


 ほら、やっぱり。私はあの頃よりほんの少し、成長したのだ。


 だって、今ならわかる。


 私は、私たちの無意味を肯定したい。

 百年後や千年後に対して完全に無意味な私たちを、どこまでも肯定し切りたい。消えてしまうから。書いた文字を消しゴムで消すぐらいに、私たちのこの時間もこの体も、簡単に消えてしまうから。

 それでも私は、私たちの無意味を肯定したい。



 だから消しゴムに、誰かの名前を記す。



 今更。そう、今更。


 中学三年の三学期。

 私は消しゴムに、君の名前の代わりに、『スミロドン』と書いた。それが私にできる、精一杯の祈りだった。

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