第18話 王女の執務室にて
マリアンヌ・エステルは怒っている。怒りながら、ばりばり書類を片付けている。ブライアン・オークウッドは近くのスツールでやはり書類を片付けるふりをしながら、ほれぼれしている。
王女殿下は怒っているときが一番美しく見える。
テレーズ・ランベールは、彼女の本当の魅力を知らない。王女はテレーズの前では猫をかぶるから、テレーズが王女の本当の魅力に気づく日は来ないだろう。そう思って少しだけ溜飲を下げた時、執務室の扉がノックされた。
マリアンヌは椅子からパッと立ち上がった。執務机に両手をついて叫ぶ。「入って!」
入ってきたのはリュシアン。背が高くすらりとして、見目麗しいと言える若者だ。
王女殿下付近衛の見習士官という立場ではあるが、実際には王女殿下の専属護衛である。王女殿下と同じ十九歳という年齢ではあるが、数人の部下もいて、王女のための諜報活動なども担っている。将来の近衛隊長候補の筆頭だ。
リュシアンはブライアンを一瞥した。あいさつはない。マリアンヌには、恭しく身をかがめて挨拶をした。
「王女殿下におかれましては、ご機嫌麗しく」
「ああもうそういうのいいから! 何かわかって?」
アンリエットやテレーズがそばにいたら絶対に使わないであろう言葉づかいで王女はせっついた。リュシアンはさっと姿勢を戻して足早に執務机に近づいた。またブライアンを一瞥し、目をそらす。あいさつはない。
「裁判長は南方のシャイデン修道院へ視察に行ったというお話でしたが。実際は、昨夜のうちに消されたようです。顔をつぶされ歯を抜かれた、似た体格の人間が運河に浮かんでいました。襤褸を着せられてはいましたが」
マリアンヌは目を見張った。「もう?」
「下手人は調査中ですが、まあ出てきますまい。あまり大っぴらに探っては、罪のない浮浪者がもうひとり運河に浮かぶことになりかねません。引き続き、慎重にたどってみます。アランブール侯爵からはなんと?」
「いつもどおりよ。知らぬ存ぜぬ」
マリアンヌは椅子に座り、ふう――と背もたれに身を預けた。
アランブール侯爵はオーフェルベック公爵の実弟であり、オーフェルベックを抑える人質である。三年前に王宮にきた、今、たった十六歳の若輩だ。
本人は取るに足らぬ子供だが、その子供のお目付け役を任されている子爵はかなりしたたかな性格だった。オーフェルベックが問題を起こすたびに、アランブール侯爵の名を使ってのらりくらりとした返答をよこしてくる。ジャクリーヌ女王陛下亡き今、王女の要請になどまともに取り合う必要もない、と言っているように思える。
要するに王女は、舐められているのだ。
ジャクリーヌ女王陛下の唯一のお世継ぎは、その出生に秘密がある。父親が公表されていないのである。
その秘密はマリアンヌの立場を危うくしている。まだ婚姻前、地位を盤石にする前に、女王が崩御してしまったという事実が拍車をかけた。唯一の世継ぎ姫に対し、オーフェルベック公は今回かなり露骨にちょっかいをかけてきた。訳あり王女の地位を支えているのは宰相ランベール公であり、その愛娘であるテレーズ・ランベールの存在だ。テレーズは大変善良なたちで、また素直で天真爛漫な努力家で、貴族たちの評判も高い。王女の評判を貶めたくとも、テレーズがそばにいる限り、打てる手も限られる。今回の危機はまさに、その支えを狙い撃ちにしてきた。
ゆえにマリアンヌは怒り心頭だ。テレーズは王女殿下の唯一心を許せる存在でありかけがえのない友人である。その大切な存在に手を出そうとした相手を、どんな手を使ってでもあぶり出し断罪しようという意思が、王女の険しい眉間のあたりににじんでいる。
リュシアンは裁判長の死因とその下手人について、またジル・モルト夫人の企みについて、引き続きの調査を命じられて退出した。
マリアンヌはまだ眉間にしわを寄せたまま、何か考え込んでいる。ジル・モルト夫人の企みは潰えたが、このままオーフェルベックが手をこまねいているわけがない。次はどんな手を打ってくるだろう。テレーズは王女のこの苦悩に満ちた横顔を、見たことがあるだろうか。見たことはないだろうと考えて、ブライアンは唇を歪めた。
何しろテレーズは、マリアンヌがブライアンを愛していると思い込んでいる。本当におめでたい、お花畑の脳みそだ。
自らにも王位継承権があるにも関わらず、テレーズは、マリアンヌにとって代わろうなどと思ってみたこともないようだ。マリアンヌ出生の折に五公家が票を投じ、お世継ぎに定められた。たったそれだけで、王女の地位が盤石だと信じている。お花色の脳みその考えることは、本当に理解しがたい。
「革命の」
そう言うとマリアンヌはびくりと顔を上げた。「……」
「〈あちら〉では……革命の機運がいよいよ高まっているそうですね」
「……」
マリアンヌはじっとこちらを見た。その美しい大きな瞳がブライアンを見据える。
「何が言いたいの」
「あなたの背負っている重荷を……少し分けていただけないかと思ったのです」
革命とは、平民が武力で支配階級を倒し、実権を握るということのようだ。
〈あちら〉の状況は刻一刻と悪化しているらしい。それはマリアンヌの表情がどんどん険しくなっていくのをみればわかる。しかしブライアンはあまり心配していなかった。革命だなんて! 平民が実権を握るだなんて! 平民はただ与えられた仕事をこなし、幾ばくかの金を稼いで糊口をしのぐ存在だ。そんな輩どもがひとの上に立って、いったい何ができるというのだ。革命が起こったとしても鎮圧されるに決まっているし、よしんば成功したとしても、すぐに失敗するに決まっている。
一つ言えることは、混乱はチャンスだということだ。
「これは王族が背負うべきものよ」マリアンヌは小さな声で言った。「誰にも分けることはできないわ……」
「残念です。少しゆっくりなさっては。お茶でも準備させましょうか」
「いらないわ。自室に戻ります」
ああこの嫌そうな表情。ブライアンはなんだかぞくぞくする。二人きりでいるときに、マリアンヌがどういう目でブライアンを見ているかを知ったら、テレーズはさぞ驚くだろう。何しろマリアンヌは、ブライアンの用意した茶を飲むことさえしない。
マリアンヌはつかつかと扉へ向かった。ブライアンはマリアンヌの胸中を想像する。うまくいかないことばかりで気が滅入っているだろう。〈あちら〉では革命の熱気が渦を巻いている。ということは〈こちら〉でも何らかの動きが起き始める頃だ。準備を整えなければならないのに、婚約者のことは大嫌いだし、オーフェルベックからは横やりが入り、ジル・モルト夫人に有利な裁判を行おうとした裁判長は黒幕を吐く前に運河に沈んだ。いろんなことが滞っている、なのに、しばらくは自室に帰ってもテレーズはいない。あのお花畑のお姫様は、出産のためにタウンハウスにやってきた義姉をもてなすために実家に帰っているのだ。
――本当につくづくお花畑のお姫様だな、と、ブライアンはもはや感心する。兄嫁である。普通は、仲が悪いはずだ。家の中に年の近い女性が二人いるというだけで何らかの諍いが勃発してしかるべきである、というのがブライアンの常識だ。事実、マリアンヌの母であるジャクリーヌ女王と、先日王宮へ遊びに来たロクサーヌ・デュシュマン公爵の関係がそれである。ジャン王が崩御された時、義姉であるロクサーヌと妹であるジャクリーヌは王位をめぐって争った。勝敗が決しジャクリーヌが女王の座を勝ち取ったのだが、その前も、争いのさなかも、その後も、決して仲良しではなかったはずだ。
それがどうだろう。テレーズは心の底から自らの義姉を好いていて、まるで尾を振る犬のように実家に飛んで帰り、義姉のためにあれこれと気を配っているという。小姑たるものもう少し、敵愾心だの対抗心だのを燃やすべきだ。もしテレーズがジャクリーヌの立場だったなら、王位を勝ち取ろうとなど思いもせずに、のほほんとロクサーヌに王位を譲って、どこかの修道院で清貧の生活を送っていたに違いない。
そのような心根の人間が公爵家に生まれ王女の友人という立場になったのは、幼いころから父親不在の王女として様々な陰謀に晒されてきたマリアンヌにとって、福音であったに違いない。
神経をすり減らした王女が、テレーズのそばでどれほど安らいでいるのか、テレーズはきっと想像してみたこともないだろう。
「失礼」
マリアンヌは冷たい一言を投げて、婚約者を一瞥もせず、さっさと執務室を出て行った。
一人取り残された部屋の中、ブライアンは笑う。早いところ喪が明けて、王女殿下との婚姻を済ませてしまいたいものだ。そうすればマリアンヌには逃げ場がなくなる。テレーズの真心も、閨の中までは届かない。あの美しく気位の高い少女が王位や後継者や様々なしがらみにがんじがらめに囚われる日が、楽しみでたまらない。
ブライアンはテレーズとは違う。生涯女王を支える立場になるなどまっぴらだ、と思っている。どうしても、自分で王座に座り、王冠を戴きたいという野望を捨てることができない。何しろ王になれば、〈鏡〉を覗くことができるのだ。未来をこの目で見るという誘惑に、抗える人間などいるだろうか。
王位に就いたらやりたいことはたくさんある。〈鏡〉はもっとうまく有効に使うべきだ。
婚姻後数年して女王が不慮の死を遂げたなら、ブライアンは、オーフェルベックよりもランベール公よりも、ずっと有利な立場に立っているだろう。
ひと時だけでも自分の妻になる女性があれほど美しく気高い女性であるという事実が、とても、ありがたかった。
――第二章に続く。
次の更新予定
王女殿下の懐刀 天谷あきの @aizawaakino
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