第二章 歓迎祭

第1話 枢機卿の来訪

 三月がきて、雪も降らなくなった。そこここで萌える緑とほころぶつぼみの上に輝かしい光が燦めいている。空気まで香しい春の光の中、わたくしはわくわくしながら王宮へ戻ってきた。


 もうすぐ中喪式。それが終われば、ようやく、シ・トレイユ宮殿の工事が再開できる。


 シ・トレイユ宮殿は、ジャクリーヌ様が発案された、王族のための建物だ。王宮には入れ代わり立ち代わり外部の人が来訪するから、余人がおいそれと立ち入れないプライベートな建物を所望された。残念ながらジャクリーヌ様がご存命のうちには完成できなかったが、工事は中止とならず、マリアンヌ様が引き継がれた。


 わたくしは、あの小ぢんまりした可愛らしい建物とその周囲の庭園のレイアウトや彩を考えるのが、大好きで大好きでたまらなかった。そう言ったことは、不思議とわたくしの胸をときめかせる。工事が再開されたら視察に行きたい。邪魔にならない時間を選んで中に立ち入らせてもらえたら、今考えている家具の配置がしっくりなじむかどうか、実際に大きさを見ながら考えられる。マリアンヌ様と一緒に配置をあれこれ試してみるなんて、ウキウキせずにはいられない。最高の春になりそうだ!


 輝かしいお日様の中で見る王宮は、どこもかしこもきらめいていて、二月の大事件の痕跡をうかがわせるものは何もない。しかし、モルト夫人の後釜はまだ決まっていない。早急に決めなければならないのだが、オーフェルベックの息のかかっていない人間を見極めるのに難航しているそうな。


 だから、馬車を降り門を抜けた先の大広間でわたくしとマルゴを出迎えてくれたのは、あの頼もしい家政婦長、ノアイユ夫人。それからマリアンヌ様の侍女、アンリエットだった。

 二人とも立っていた。ノアイユ夫人はいつもの制服姿。喉まで覆う黒いレース織りのシャツと、裾の長いワンピースに黒い靴。うーん、一寸の隙もない厳格さが素敵だ。アンリエットは喪中らしく灰色と紺色の飾り気のないドレス姿。彼女の知的さを際立たせているが、早く中喪式を終えて、もう少し華やかなドレスを着させてあげたい、と思ってしまう。


「長らく留守にしてごめんなさい。ただいま戻りました!」


 わたくしがそう言うと、アンリエットは微笑んだ。

 それから、静かな声で言った。


「お帰りをお待ちしておりました」


 その声は、普段どおりなのに。

 何か切実な響きが込められているような気がして、わたくしは戸惑った。知らず広げていた両手を、お腹の前で組み合わせる。


「……何かあったの?」


 アンリエットは目を見張った。

 それから目を伏せて、首を振った。


「いいえ、何もございません。ただ……」


 言いよどみ、ためらい、もう一度首を振った。


「ただいま、教会のブレソール枢機卿が火急の用とのことで……マリアンヌ様は、外の四阿で応対なさっているんです」

「……そうなの?」


 それはちょっと穏やかではない。来客があるのに、侍女がおそばを離れるなんて。一人きりで会わなければならない事態になったために、外の、見晴らしの良い四阿で応対なさることにしたのだろう。人払いができるし、同時に、護衛の仕事もしやすい。

 侍女さえ遠ざけて、聖職者と密談するということは、“鏡の向こう”の報告を受けているということと同義だ。報告書は月に一度提出されているはずなのに、わざわざ枢機卿が来訪するなんて、かなりの出来事が“見えた”と言うことだ。


「それだけでなく……ここ数日、マリアンヌ様は、その、少々塞いでおられて……。ですので、テレーズ様がお戻りになるのを、本当に楽しみにしておられたんです」

「そうなの」


 アンリエットは平静だったが、両手の指先が神経質そうに動いている。マリアンヌ様が心配でたまらないのだろう。

 わたくしはチラリとマルゴを見た。マルゴが頷くのを確認して、わたくしは微笑む。


「わたくし、今から四阿へ行ってみてもいいかしら? もちろんお話の邪魔はしないようにするわ。お話が終わるまで、庭園をお散歩しています。アンリエット、申し訳ないけれどご案内いただける?」


 そう言うとアンリエットはホッとした顔をした。ノアイユ夫人まで微笑んで、頷いた。二人の様子に、マリアンヌ様の気鬱は思う以上に深刻だったのかも知れない、とわたくしは考えた。

 荷物を召使いに預け、アンリエットに連れられて四阿へ出発した。家政婦長がてきぱきと指示を出してくれて、上着や日よけを持った召使いたちが後ろをついてきてくれる。今日はお天気が良いし、暖かいから、お話が終わったら猊下もお誘いして四阿でお茶をいただこう。


「ご実家はいかがでしたか」


 アンリエットがそう訊ね、わたくしは自宅での、三週間の休暇を思い返した。

 お義姉様が滞在しているから、休暇は本当に楽しかった。まず、これから生まれる赤ちゃんのためにたくさん準備を整えた。お義姉様は自然にわたくしを相談相手にしてくださった。お陰で貴重な経験を積ませていただいた。お部屋を整えたり、乳母の候補と面談したり、肌着やお洋服を揃えたり、教会と儀式の打ち合わせをしたり、皆様にお配りする内祝いの品物を考えたり。赤ちゃんとお義姉様の目を楽しませるために、お庭の方針を相談したりもした。


「とても楽しかったわ。今度、マリアンヌ様が我が家にご来訪くださるでしょう? もう来月だもの、その日のためにいろんな準備をしてきたの。いっぱいお楽しみを考えたわ! 詳しくはアンリエットにも秘密。その日を楽しみにしていて!」

「まあ、とても楽しみですわ。フランソワーズ様にもお目にかかれますし……お健やかでいらっしゃいます?」

「とってもお元気よ! つわりもだいぶ落ち着いたのですって。少し体が重いとおっしゃってはいたけれど。乳母の面接もさせていただいたの」

「まあ、それはよいご経験でしたね」

「そうなの。本当に、いろんなことを教えていただいたわ」


 マリアンヌ様は戴冠式に合わせてブライアン様との結婚式を執り行われる予定だし、そうなったら、お世継ぎにすぐ恵まれる可能性だってある。お義姉様がわたくしに授けてくださったこのたびの経験は、そうなればすぐにでも役に立つ。


「マリアンヌ様のご結婚式には、テレーズ様の婚約式も合わせるご予定なのでしょう?」


 アンリエットがおっとりとした口調でそう言い、わたくしは、うっ、と思った。アンリエットも知っていたとは。


「旦那さまはそのおつもりでございますわ。ただいま、候補を選んでいるところです」


 マルゴが打ち明けてしまう。わたくしは、扇に顔を隠した。おほん、と咳払いを一つ。


「まだ半年ありますもの……」

「まあ、とんでもない! もう半年しかない、と言うべきですわ」


 ああ……アンリエットもそう言うのか。

 まあ、そうね、そういう意見が多いことはわたくしも承知している。今までは喪中であるからと何とか逃げてきたのだが、そろそろ腹をくくらなければならない。それはわたくしもわかっている。

 しかしここは逃げの一手。わたくしはえへんおほんと咳ばらいをした。


「そういうアンリエットは? お手紙が山になるほど来ているのではなくて?」


 アンリエットはわたくしをじっと見て、矛を収めることに決めてくれた。穏やかに微笑んで、頷いてくれる。

 

「そうですわね、ちらほら、というところでしょうかしら。マルゴは?」

「わたくしはまだ考えられませんわ。まずは姫様のお相手を決めていただかなくては」


 うう、マルゴの視線が痛い。ちくちくと後ろから刺さってくる。

 マルゴも、わたくしが伴侶選びに積極的でないことを歯がゆく思っているのだ。


 それはわかるけれど、ああ、でも、どうしても乗り気になれない。生涯の伴侶って、どうして決めなければならないのかしら。

 いえ、わかっている。わたくしはランベール公爵家の娘だ。戴冠式に合わせて婚約式を挙げ、伴侶と共にマリアンヌ様の治世を支えていくという決意を内外に見せることは重要だ。近々、どなたかを一人選んで、共に生涯を歩んでいく覚悟を決めなければならない。そうしないと、この国の社交界では一人前と認めてもらえない。


 でも、どうやって決めれば良いのだろう。家柄? 財産? 王家への忠誠度?


 お母様はどうやってお父様と出会ったのだろう。お義姉様はどうやって、お兄様と生涯を歩んでいく覚悟を決められたのだろう。お義姉様に一度お訊ねしたら、お義姉様はお笑いになって、恋をしたからよ、と答えてくださった。初めは家同士の話し合いで婚姻が進められたが、逢瀬を重ねるうちに、いつしかお兄様に恋をしたのだと。

 胸がどきどきして、きゅうっと痛んで、その方の顔を見るだけで嬉しくなって、離れるとすぐにまた顔を見たくなる。嵐のように吹き寄せて、胸を終始さいなむのだと。


 恋ってそんなに恐ろしいものなの? その嵐を経なければ、伴侶を持てないの?

 お母様もお義姉様も、どうやってその嵐を飼いならしたのだろう。

 マリアンヌ様は、もう、ブライアン様に恋をなさっているように見える。その恋は、いつマリアンヌ様の胸に来たのだろう。嵐のような段階は、もう落ち着いたのだろうか。


 考えながら、ゆっくりと庭園を歩いて行く。馬車に乗るほどの距離ではないということは、宮から一番近いあの大きな四阿にいらっしゃるということだ。



 春を迎えつつある王宮の庭園は、とても美しかった。

 留守の間にだいぶ様変わりしていた。もうすぐ執り行われる歓迎祭に向けて、針葉樹が撤去され、ふんわりした印象の広葉樹が並べられていた。ネコヤナギやあせびの木が周囲に効果的に配置され、スズランや水仙、三色菫の植えられた大きな植え込みがパズルのように並べられている。きっと温室には、チューリップ、ダリア、ミモザ、キンポウゲなどの鉢が準備されて出番を待っているはずだ。わたくしは婿選びの圧力を少し忘れて、楽しくなってきた。自分で土いじりなどはできないけれど、植物を眺めるのはとても楽しい。


 広いスペースを抜け、刈り込まれた木立の中に入っていく。目指す四阿は、瀟洒な枝のアーチを抜けて木立を曲がった先にある。と、あちらから法服に身を包んだ背の高い方が歩いてくるのが見えた。枢機卿――ジャルジェ・ブレソール枢機卿猊下だ。

 こういう表現は聖職者に似つかわしくないのだが、ブレソール枢機卿はとてもスマートな方だ。秀でた額とすっきりとした目元。柔和で知的な笑顔。お年は四十の半ばとのことだ。まだ枢機卿の地位に就かれる前、彼の説法を聞きたいがために貴婦人たちが教会に詰めかけ、外にまであふれたと聞いたことがある。


 猊下はわたくしに気づいて、微笑んで歩を止めた。少し脇に寄って、道を譲ってくださる。

 わたくしは猊下に向き直った。


「ブレソール枢機卿猊下。ご機嫌よう」

「ランベール様。ご機嫌麗しく」


 ブレソール様は胸に手を当て、丁寧に頭を下げた。

 今でこそ聖職者だが、生まれはもちろん名家のご出身なので、所作や立ち居振る舞いがとても洗練されている。わたくしはこの方が好きだ。聖職者の地位にあぐらをかくようなことがない。神の名を楯に、周りに威張り散らしたりすることをなさらない。


 以前は、神に仕えるものの方が、王家や貴族よりも地位が上だという考え方が主流だったそうで、ご年配の方の中には貴族に対し、不遜な振る舞いをなさる方がまだまだいらっしゃるのだが、わたくしが思うに、そういう不遜な振る舞いが周囲に敵を作り、神の信奉者の地位が凋落するようなことになったのだ。わたくしたちもおごることがないよう肝に銘じなければならない。教会は未だに尊敬を集めているが、権力はだいぶ衰退しており、すれ違うたびにどちらが道を譲るかでもめ事が起こるような時期は過ぎている。

 

 わたくしは軽く膝を曲げて枢機卿の礼を受けた。


「今日は暖かくてよいお天気ですわね」

「まことに。歓迎祭もこのような陽気であればよいのですが」

「殿下とのお話は、お済みになりましたの?」

「はい。殿下には急にお時間を取っていただきまして。ランベール様のご帰還を迎えるご予定であったとか、大変失礼をいたしました」

「まあそんな、お気になさらないでください」

「重ねてお詫びをいたします。実は私のお話しした用件が、殿下の重荷になったご様子で……」


 アンリエットがはっと息を吸った。

 わたくしも驚いた。マリアンヌ様がお外に“重荷を受けた”と言う様子を見せるなんて、ただ事ではない。


「まあ……」

「恐縮ですが、殿下をお慰めし、心の重荷を少しでも軽くしてさし上げてほしい。その重要なお役目は、私のような無骨者よりも、あなたの方がずっとお得意でしょう」


 ブレソール様は申し訳なさそうにそう言い、「それでは失礼いたします」と一礼して行かれた。アンリエットが足を速めた。「アンリエット」マルゴが驚きの声を上げ、アンリエットははっとしたように振り返る。


「し、失礼いたしました、テレーズ様――」


 わたくしより先に歩き出したことにも気づいていなかったようだ。わたくしはアンリエットの腕に手をかけた。


「気にしないで。参りましょう、アンリエット」

「ええ――」


 わたくしは足を速めた。アンリエットとマルゴ、それから召使いたちがあとをついてくる。木立を曲がると、こぢんまりした美しい四阿が見えてきた。

 そこにマリアンヌ様がいた。


 わたくしは驚いて立ちすくんだ。

 マリアンヌ様の顔色が悪い。――まるで彫像にでもなってしまったかのよう。


 周囲の気温がさっと下がったように思えた。今日はうらうらと暖かくて、上着を邪魔に思ってきたところだったのに。マリアンヌ様は微動だにせず、テーブルの上のものを凝視していらっしゃった。わたくしたちが来ていることにも気づいていらっしゃらない様子だった。

 顔色が悪く、真っ白になっていた。唇から血の色が抜けて、小刻みに震えていた。


「殿下……!」


 アンリエットが声を上げ、マリアンヌ様は、はっと我に返った。ぱっと顔を上げて、アンリエットを、それからわたくしを見た。「ああ、」マリアンヌ様の口から喘ぎ声が漏れた。「ああ、テレーズ……!」


「はい、マリアンヌ様」わたくしは膝を折った。「先ほど戻りましたので……」

「待って。……来ないで」


 マリアンヌ様はテーブルの上に広げられていた帳面に震える手を伸ばした。

 手が、本当に震えていた。あれは枢機卿猊下が持ってこられた“あちら”の報告書ではないだろうか。びっしりと何か書かれているのが見える。マリアンヌ様はそれを閉じ、横にあった書類ばさみに挟んだ。銀色の鍵付きのケースにしまい、パチン、と留め金をかける。


 ふう――。


 呼吸を整えて、マリアンヌ様は、そのケースを遠ざけた。まるで忌まわしく汚らわしいものを扱うかのようだった。


 それから両手で顔を覆って、

 ぱっと開いた。


 そこに現れたマリアンヌ様の顔は、もう、笑顔だった。


「お帰りなさい、テレーズ。待っていたわ!」

「……ただいま戻りました。マリアンヌ様」


 わたくしは精一杯の笑顔を浮かべた。枢機卿猊下の持参した報告書がもたらした衝撃は、よほどのものだったのだ。――内心を、ひとまずは隠してやり過ごすしかないほどに。




 そのあと四阿でお茶をいただいた時も、夕食の時も、次の日になっても、その次の日になっても――マリアンヌ様は、わたくしに、報告書の内容を打ち明けてくださることはなかった。

 わたくしからはとても聞けなかった。“あちら”の出来事は教会と王族だけのものであり、わたくしが口を挟めることではない。マリアンヌ様はわたくしに笑顔を見せることに決めた。わたくしは、マリアンヌ様が衝撃をご自分の中で消化し、わたくしに打ち明けられるようになる日を、黙ってじっと待つしかなかった。

 

 そうこうするうちに、歓迎祭の日がやって来た。

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