第17話 密談
夜がきた。わたくしは今、石造りの階段をはるばる上がって最上階までやってきたところ。
辺りは寒々しく、静まり返っていた。暗がりの中に、弱い明りがぼうっと燈っている。
でも恐ろしくはない。マルゴが一緒だからだ。
マルゴは、もはや着慣れた感のある召使の制服に身を包み、大きな籠を提げている。マルゴにこんなものを持たせて申し訳ないけれど、召使を何人も連れてくると目立ってしまうから仕方がない。
鉄の扉の前に、見張りが立っていた。マルゴがすでに話を通しておいてくれたから、見張りは一本のワインを何も言わずに受け取って、一歩わきにどいてくれた。
「三十分でお願いします」
見張りはそう囁き、マルゴがうなずいた。もしワインを二本渡していたら一時間もらえたのだろうか、とわたくしは思う。
マルゴがノックをし、二呼吸待ってから、扉を開けた。
「失礼いたします。お食事をお持ちいたしました」
マルゴはそう声をかけ、わたくしに合図をくれた。マルゴの後に続いて、しずしずと中に入る。
と。
「……お下がりください」
マルゴが鋭く囁き、籠を床に落とした。衣擦れの音、激しい息遣い。マルゴは大きく一歩を踏み出し、鋭い悲鳴が上がった。「むざむざと……!」悲鳴はそんな風に聞こえた。ばしっ、と音がして、鋭い金属音が床に響いた。ナイフだ、とわたくしは思う。
マルゴの押し殺した声が聞こえる。
「おやめください。落ち着いて」
「……ロジェ、さん?」
囁いたのはオリンピア様。
わたくしは一歩前に出た。
オリンピア様はマルゴに取り押さえられ、目を丸くしてわたくしを見た。たった半日で、とても憔悴したように見えた。裁判の時には、あんなに堂々と美しく見えていたのに。
「まあ、テレーズ様……!」
「ごきげんよう、オリンピア様。夜分に失礼いたします」
わたくしは膝を折り、オリンピア様は、あえぐように息を吸った。
「ま、まあ、……まあ」か細い声だった。「何を……何をなさっているの、そんな、……お召し物で」
「最近、着慣れてきてしまいました。アンリのお見舞いにも、こういう格好で行ったのです。オリンピア様、驚かせて申し訳ありません。この時期に貴女をランベール家の娘が訪問するのには、差しさわりがあったものですから……」
マリアンヌ様にもアンリエットにも、やめた方がいいと忠告された。裁判でランベール公爵家に有利な発言をしたオリンピア様に、わたくしが今接触するのは危険だ。裏取引をして、裁判で有利な発言をさせたのだと、オーフェルベックにまた攻撃される材料を与えかねないと。
けれどわたくしはどうしても、オリンピア様にお会いしたかった。必要だと、思ったからだ。
「リッツィエリ伯爵夫人。ご無礼をお許しくださいませ。手を放しますが、どうか、早まったまねをなさらないでください」
マルゴは優しい声で言い、そっと、オリンピア様から手を放した。オリンピア様は、マルゴに握られていた右手首をそっとさすった。
「ナイフをお持ちだったとは」
マルゴはそう言い、屈んで、オリンピア様の取り落としたナイフを拾い上げた。ふふふ、とオリンピア様は笑う。
「持ち込むのには苦労いたしました。申し訳ありません、テレーズ様、ロジェさんも。オーフェルベックの刺客だと思ったものですから。……どうぞおかけくださいな。お目にかかれて嬉しゅうございますわ」
オリンピア様はそうおっしゃり、麗しく微笑まれた。
この塔は、高貴な身分の方を捕らえておくためのものだ。
来る途中こそおどろおどろしかったけれど、中はけっこう居心地が良い。石の床には柔らかなじゅうたんが敷かれているし、家具もひととおり揃っている。ソファも古びているがふかふかだ。
しかしここには、オリンピア様が頼りにできる人は誰もいない。自室でくつろいでいるときじゃないのに女官も、召使いすら一緒にいないなんて、成人以降、初めてのことではないだろうか。
オリンピア様は長椅子に座り、わたくしも、その隣に腰をかけた。そっと手を伸ばして、オリンピア様の両手を取る。とても冷たく、かさかさしていた。クリームを差し入れに持ってくるべきだった。そんなことを思う。
マルゴが簡易焜炉でお湯を沸かしてお茶の支度をしてくれている。三十分しかない。わたくしはそっと訊ねた。
「夜分の訪問を、どうぞお許しくださいな。どうしても、お聞きしたいことがあったのです」
オリンピア様は顔を上げた。
「その前に」小さな声だった。「お訊ねしてもよろしいかしら。今回の顛末は、どこまで知れ渡って、……いるのかしら」
「裁判も簡易的なものですし、あまり公にならないようにするとのことでしたわ。裁判長とその補佐についての調査はこれからです。彼らにもオーフェルベックの息がかかっていたかどうかは、これからはっきりすると思いますけれど……」
「ロクサーヌ様は」とても小さな声だった。「……ご存じなのかしら」
「なるべくお耳に入らないように取り計らわれるとは思います。ですが、保証はできません。人の口に戸は立てられないと申しますし」
「そうね……」ふふふ、笑いが漏れた。「あの方に、そういつまでも隠しておけるものではないわね」
「オリンピア様があの方のおそばを離れているのですもの、それは、異変に気づくなという方が無理ではないかしら」
オリンピア様は頷かなかった。
顔を上げて、小さな声でおっしゃった。
「わたくしはもうずっと、……あの方のサロンに呼ばれていないの。お出かけになるときにもジョスリーヌだけを伴われる。喪中だからと……理由を付けて」
「……」
「気づいていらっしゃるはずよ。あの時におわかりになったはず。ジョスリーヌ子爵夫人が、今はあの方のお気に入りなの……」
オリンピア様は両手で顔を覆った。すすり泣きのような音が聞こえた。
わたくしはオリンピア様の肩にそっと触れた。オリンピア様が囁く。
「あの方はもう終わりよ。伴侶が亡くなった後も王宮に残ろうと画策され、正当な王位継承者の前に最大の難関として立ちはだかったあの方……権勢をほしいままにした、あの美しい女傑は……わたくしの憧れたあの方は、もう、……身罷られたのよ。わたくしを残して逝ってしまわれた。あの毒にも薬にもならない、ただ善良なだけの女に介護されて、余生をうとうととまどろんでいらっしゃる!」
「……オリンピア様?」
「だから……だからわたくしは、モルト夫人の企みに乗ったの。貴女がお訊ねになりたかったのはそれでしょう? そう、そうよ。面白そうだと思ったのだわ。あの善良な女がどんな顔をするか見たかった。そしてテレーズ様、」くくっ、と喉が鳴った。「……貴女のお顔も見たかったわ。ジャクリーヌ女王陛下の“麗しく有能な右腕”ヴィオレット・ランベール……あの憎らしい女が遺した跡継ぎが、よりによって貴女のような、善良なだけのっ、取るに足らない娘だなんて!」
マルゴがお茶を持ってきた。捧げたお盆越しにオリンピア様を睨んでいる。オリンピア様は顔を上げた。涙の色は見られなかった。くくっ、とまた笑った。
「今宵は何をしに来られたの? 聞きたいことがあるなんて口実でしょう、敗れて全てを失ったわたくしを、嗤いに来られたのよね?」
「そんな、違います」
「ええ、違うでしょうよ」オリンピア様はまた嗤った。「貴女は……そしてジョスリーヌもそう。本当に心の底から善良で、麗しくて。敗者を嗤っていたぶるような心根とは無縁の存在……世の中の汚いものや醜いものとは全く関わりがないような顔をして。でもね、汚いものはこの世に確かに存在するの。貴女もジョスリーヌも、ただ遠ざかっていられるだけ。ただ境遇のおかげというだけよ。貴女自身の素質のたまものでも、努力の成果でもない! ヴィオレットがジャクリーヌ様についたおかげ、そして、ジャクリーヌ様が王位を勝ち取ったおかげよ! ジャクリーヌ様が敗れていたら……」
オリンピア様は夢見るような笑顔を浮かべた。
「あの時、ロクサーヌ様が勝っていたらどうなっていたでしょう? 今のランベール公爵家の繁栄はなかった。王女殿下の地位にいたのはロクサーヌ様の選んだお子、そして貴女の地位にいたのはわたくしの子、ジョナサンの花嫁になる娘だった。わたくしは……ロクサーヌ様と一緒に、その子のドレスを選んだでしょう。ひきかえ貴女は生まれてすぐに修道院に送られて、そのまま育って、自らの境遇を恨んで、……モルト夫人とともに、醜い陰謀を仕掛けていた……はず……」
話すうちに、オリンピア様はいつしかすすり泣いていた。わたくしは呆然としたままオリンピア様の泣き声を聞いていた。お母様くらいのお年の方が、こんな風に泣くところを見る日が来るなんて。
マルゴは側机にお茶の支度を調えてくれたが、お茶を飲むどころではなさそうだ。
オリンピア様の涙で嗄れた声が聞こえた。
「……ヴィオレットが憎いわ。本当に、大嫌い。わたくしが一矢報いる前に、さっさと亡くなってしまわれた。わたくしの憎しみはどこへも行けず、ただこの胸を苛むばかり……」
「残念です」わたくしはそっと囁いた。「母は……オリンピア様を好きだったと思います。夜会で何度もおしゃべりをしたのだと、面白い方だったと、いつか楽しそうに話していました」
「……そうでしょうとも。そういうところが嫌いだわ」
オリンピア様は顔を上げ、そっと涙を拭った。
なんて綺麗な人なのだろうと、わたくしは思った。オリンピア様はわたくしのお母様と同い年。お母様は、この方のことを好いていた。頼りになる方だと言っていた。本当に綺麗な方で、聡明で、ちょっと意地の悪いところがあって、それがたまらない魅力を醸しているのだと。
確かにお母様の言うとおり。オリンピア様は本当に美しかった。憔悴して、涙に暮れている今でさえ。
いや、今だからこそ、もっと。
オリンピア様は、さげすむように嗤った。
「ヴィオレットにとっては、わたくしなど憎むに足る存在ではないということよ」
「オリンピア様……」
「ヴィオレット・ランベール……あの方は本当に……本当に、奇跡のような人だったわ。ヴィオレットは……たった一人で。王女殿下をお支えして、じっと、じっと、長い長い時を待っていた。自分に取れる最善の道を探って。……そんな……人と……ことあるごとに比べられるつらさがわかる? わたくしにもあのような右腕がいれば良かったと、主に呟かれる気持ちがわかる? ジャクリーヌ様にはあの右腕がいて、ロクサーヌ様にはいなかった、だから王位を譲り渡さなければならなかったのだと、ことあるごとに囁かれる気持ちがわかる!?」
オリンピア様はわたくしの両肩をつかんだ。長い爪が食い込んで、わたくしは、表情を変えぬよう気をつけなければならなかった。もしわたくしが痛みに顔をゆがませでもしたら、マルゴがこのままにしておいてくれるわけがなかったから。
「わからないでしょう……だから貴女は清らかなままでいられるのよ。これほどの憎しみを胸に抱かず、悪事を持ちかけられても染まらずに毅然としていられて、心の底から、自分を善良だと……信じて、いられるのよ……」
「オリンピア様……」
「ロクサーヌ様は、最後の最後に、わたくしを捨てた。あの方も、ご自分を善良だと……正当な王位継承者の前に立ちはだかった愚かな負け犬という我が身を、なかったことにするために。あの日々を……忘れて……しまおうと、なさっている。……だから」
肩に食い込む爪の力が緩んだ。ふふ、と、かすかな声でお笑いになった。
「……だからわたくしは、刻んでやろうと思ったのです。あの方に、わたくしという存在を。簡単に捨てるなど許さない。だってわたくしはもう、自分を善良だなんて……信じられませんもの」
「それならばなぜ……裁判の時、わたくしの味方をしてくださったの?」
ようやく本題に入れた。わたくしが聞きたかったのはそれだ。
モルト夫人はオリンピア様が嘘の証言をすると、信じて疑っていなかった。孫を楯にとられた上に、嘘の証言をするだけでサタージェン鉱山の一部利権が手に入る。サタージェン鉱山はオーフェルベックの勢力地にある、最近開山したばかりの鉱山だ。希少な鉱物がざくざく取れると目されている。鉱山の利益があれば、ロクサーヌ様と決別して田舎の領地に引っ込んだとしても、余生を悠々自適に過ごすことができたはず。孫にプレゼントを贈ることもでき、ときおり友達を呼んでパーティを開くこともでき、楽しく過ごせたはずなのに。
オリンピア様は目を背けて、口元だけで微笑んだ。
「ええ、本当に、愚かなことをしたものです。魔が差したのですわ。あのモルト夫人の勝ち誇った顔を見ていたら、無性にイライラして、つい、口からぽろっとこぼれてしまったの」
「でも、証拠のお手紙を持ってきてくださったでしょう?」
「姫様」マルゴが囁いた。「お時間です。参りましょう。衛兵がやきもきしております」
見ると、確かに扉が開いていて、そこで衛兵が申し訳なさそうな顔をしていた。
「交替の時間が近いんです」衛兵は低い声でそう言った。「代わりが来るまでにあなた様方がお外に出てこの塔から充分離れるには、今すぐ出ないと間に合いません」
なんということ。まだわたくしは納得できていないのに。
わたくしの望みを受け入れてもらえそうかどうかの判断ができていないのに。
けれど、だだをこねないと言う約束を何度も重ねてやっとここまでやって来たのだ。今ここでぐずぐずして、この訪問が余人の知るところとなってしまったなら、マルゴは二度とオリンピア様への訪問を許してはくれないだろう。わたくしはため息を隠して、立ち上がった。
「オリンピア様。失礼をお許しください。今日はこれでお暇せねばなりませんが、近いうちにまた必ず」
オリンピア様はわたくしを見上げて微笑んだ。
「いいえ、いらしてはいけません。もうお目にかかることはございますまい」
「いいえ、参ります」
「もうお話しすることはございません。あなた様のご来訪を拒める身の上ではございませんが、わたくしを哀れと思し召すなら、どうぞこのままお忘れください」
オリンピア様はそっと立ち上がり、とても優美に一礼した。
「お越しに感謝いたします。あの方への恨み言を吐き出して、ようやく少し人心地がつきました。お耳汚しを、どうぞお許しくださいませ……」
また参りますと言いたかった。このままこの方が、この美しい方が、この塔で寂しい余生を送るだなんて許したくなかった。
けれどそれは言えなかった。また来るにしても、少し時間を空けるべきだろう。わたくしはそっと一礼をして、きびすを返した。
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