第11話 来訪の目的
マルゴの歌は佳境にさしかかっていた。娘は意に染まぬ婚姻を父に強いられ、仮死状態になる薬を飲む。娘が死んだと思った父は嘆きながら娘の葬儀をあげる。ところが若者もそれを信じてしまった。娘が生き返るとも知らず、亡骸を見た若者は絶望して命を落とす。そして生き返った娘の方も、若者の死を知り、迷わずに自ら命を絶つのだ。
ロクサーヌ様とジョスリーヌ様はすすり泣いていた。わたくしは、マルゴの声が悲しい結末を歌い上げるのを聞きながら、再びこのこんがらがった事態に立ち向かう勇気をかき集めようとした。
やがて歌は静かに終わる。長い長い物語を歌い終えたマルゴは夢から醒めたように長いまつげを震わせた。
静寂の中、ジョスリーヌ子爵夫人が最初に拍手をした。その音にロクサーヌ様が我に返った。ロクサーヌ様はハンカチを取り落とし、熱烈な拍手を始めた。
「素晴らしいわ」涙声で彼女は叫んだ。「――素晴らしいわ!」
「ありがとうございます。お褒めにあずかりまして、光栄でございます」
マルゴは安堵の微笑みを浮かべた。部屋中に拍手が満ち、わたくしはホッとした。オリンピア様は盛んに涙を拭う様子を見せた。ジョスリーヌ様はハンカチに顔を埋めてしまっている。
――ジョスリーヌ様も、もしかしたらご存じだったのかもしれない。
それに思い至り、わたくしは少しホッとする。
手遅れになる前に事態を知ることができたのも、ジョスリーヌ子爵夫人の使いのおかげだった。こたびの企みに気づいて、何かと骨を折ってくださったのかもしれない。ということは、きっとロクサーヌ様は何もご存じないはずだ。
お肉やお魚が下げられて、次々にお菓子が運び込まれてきていた。お茶とコーヒーが準備され、甘い香りとこうばしい香りが混ざり合う。テーブルの上はがらりと色を変え、明るく賑やかな雰囲気に変わる。
ロクサーヌ様はハンカチでまだ時折目を拭いながら、「ああ」とため息をついた。
「もう……こんなに泣いたのは久しぶりだわ。魂を搾り取られるかと思った。この歌を、わたくしの音楽家にも覚えさせたい。後日、時間を作っていただけない?」
マルゴの主であるわたくしに向かってお訊ねになった。わたくしは微笑んでみせる。
「申し訳ありません、ロクサーヌ様。“あちら”の物語ですから、新たな音楽家にお教えするには王女殿下の許可が必要です。殿下が戻られたらそちらもおたずねしてみてくださいませ。殿下から許可さえいただければ、もちろんわたくしに否やはございませんわ。マルゴの歌をご所望でしたら、音楽家を派遣してくださっても構いません。王宮付の音楽家からのご教示をお望みならば、その旨を殿下にお話しくだされば」
「そう、わかりました。ああロジェさん、本当に素晴らしかったわ!」
マルゴは微笑んで頭を下げた。
また談笑が始まった。今まで昼餐を手伝ってくれた給仕たちは一礼して下がっていき、デザートのための給仕がまた現れる。デイモンと交代したのはアイザックという人で、この人もロクサーヌ様が王宮にお住まいだった頃からの古株だ。ロクサーヌ様は涙の余韻に少しお疲れのご様子だったが、アイザックの登場に、まあ、と声を上げられた。
「まあアイザック。まだ王宮にいたの? てっきりどなたかに刺されたものと思っていたわ!」
「お戯れを」アイザックはにっこり笑う。「ご無沙汰しております、ロクサーヌ様。ますますお美しくなられますね」
「呆れた。相変わらず、うわべだけの世辞をいけしゃあしゃあと」
「うわべだけとは心外です。お姫様方もそうお思いでしょう? 年を経るごとにますます美しさに磨きがかかっていくデュシュマン公爵閣下。以前からこの手の麗しさに心を痛め、この手に触れることさえできれば命さえ投げだそうと思い詰める貴公子のなんと多かったことか。それがお年を召せば召すほどますます美しくなっていかれるなんて、いったいどんな魔法をお使いなんです? 閣下の、お使いの石けん、香料、クリーム、果ては顔を拭う布に至るまで、同じものを取り寄せて同じ魔法の片鱗だけでも我が身に振りかけたいと願うご婦人方は増える一方と聞いておりますよ」
アイザックは蕩々とよどみなく話す。わたくしは感心した。よくもまあ、あんなに口が動くものだ。
彼はもう半分隠居している。話し方も身のこなしもキビキビしているが、実はデイモンより十近く年上、わたくしの曾祖父くらいのお年なのだそうだ。出会った女性には必ず親しく声をかけ、矢継ぎ早に褒め言葉をシャワーのごとく振りかける。彼と立ち話でもしようものなら、“スマートにエスコートされて”“あっという間にすごく楽しい気分にされて”“気づくとくるくる踊らされてる”――などという意味不明な噂を聞き込んできたのはマルゴだった。気づくとくるくる回っているなんて、あんまり経験したいとは思えないけれど。
ともあれ半ば隠居の身の彼を今回の給仕に抜擢したのはデイモンだ。アイザックが場を和ませて上手くつないでくれれば、わたくしの神経も少しは長持ちするだろう、とデイモンが考えてくれたのだろうと思う。
アイザックはデイモンの期待に立派に応えた。場を和ませ、ロクサーヌ様に次々と菓子を勧めた。「えいもうまったくお前は相変わらずね、わたくしを肥えさせてどうするつもりなの!?」「そんな恐れ多い、わたくしはただロクサーヌ様にアンリ自慢のデザートをひとつでも多く召し上がっていただきたい一心で……こちらはロクサーヌ様のお好きなベリーをふんだんに使いました、まるで遠き日の初恋のような淡くて甘くてほろ苦い一品でございまして……」「その良く回る口を閉じなさい! 味がちっともわからないわ!」――ロクサーヌ様もアイザックも、とても楽しそうだった。前言撤回、デイモンがアイザックを抜擢したのは、わたくしのためじゃなくてきっとロクサーヌ様のためだろう。
ロクサーヌ様とアイザックのやりとりで場が和み、わたくしも少しホッとして、チョコレートのひと粒を口に入れた。印象深い苦さと、ねっとり濃厚な甘さを堪能する。マリアンヌ様はどこまで戻ってこられているかしら。そう思った一瞬の隙を突くように、オリンピア様が声をあげた。
「――ロクサーヌ様、そろそろ今回の訪問の本題に入りませんと」
わたくしは凍り付いた。本題?
オリンピア様はまっすぐにわたくしを見ていた。怖いほどに美しい微笑み。
「たっての頼みと言うことでしたもの……ねえロクサーヌ様」
「ああ、そうだったわ。歌があまりに素晴らしくって、目的をすっかり忘れていた」
ロクサーヌ様はくすっと笑う。わたくしは動くことができなかった。本題? 本題って何? ただのお遊びじゃなかったの?
おふたりはすっかりわたくしから“本題”についての反応を待つ体勢だ。ジョスリーヌ様がおっとりとした優しい声を上げた。
「まあ、本題がありましたの? わたくしすっかり、王女殿下やテレーズ様との気の置けないおしゃべりが目的なのだとばかり……いったいどんな本題ですの?」
ああジョスリーヌ様! あなたの優しいお気持ちには今朝から感服させられるばかり!
しかしオリンピア様の方が上手だった。にっこり微笑んで、おっしゃった。
「とっても素敵なものを見せていただけるから、楽しみにしていらっしゃいな」
素敵な物ってなに? いったいどうしたらいいの?
もしかして、今建設中のシ・トレイユ宮殿のことだろうか。
あの宮殿の内装はわたくしがかなり口を出させていただいたから、もしかしたら――と思ったのだけれど、いえいえそんなわけがない。建築を始められたのはジャクリーヌ様だし、それを引き継いだのはマリアンヌ様だ。マリアンヌ様がまだお留守のこの段階で勝手にわたくしがご案内するわけにはいかないし、ロクサーヌ様だってそれはご存じのはず。
わたくしが、マリアンヌ様抜きで、勝手に、皆さまにお見せできる“素敵なもの”って何かしら? さっぱり見当も付かない。となりでマルゴが青ざめている。わたくしの顔色はもっと悪いだろう。アイザックの心配そうな視線を感じる。いかにアイザックであろうと、身分の違う彼は、貴婦人たちの会話に割って入ることなどできない。
「すみません、王女殿下がお帰りになってからでもよろしいでしょうか……」
それでももしかしたらシ・トレイユ宮殿のことかもしれないと、わずかな期待にすがってみる。延命を図るのが精一杯。まあ、とオリンピア様が声を上げてみせる。
「まあ、でもテレーズ様からのお願いと言うことでしたわよね。王女殿下がお帰りにならなくても……」
わたくしがロクサーヌ様にお願い? 素敵な物を見せたいと“お願い”したと言うこと? わたくしがロクサーヌ様に何を見せたがるって言うの?
ああ、もう、さっぱりわからない。モルト夫人がいったいどんなお願いをでっち上げたのか、皆目見当も付かない。胃がキリキリする。指先がしびれて顔から血の気がひいて、このままでは失神するかもしれないと思ったとき。
「――王女殿下、おなりでございます!」
扉がさっと開いて。
そこから、マリアンヌ様が現れた。
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