第10話 悪意

 マルゴは皆様に一礼して、テーブルの先の少し開けた場に進み出た。瞬く間に椅子が調えられ、マルゴはそこに座る。マルゴは歌も上手いし、あの物語はマリアンヌ様もわたくしも夢中になった、何千年も語り継がれるだろうと思うほどの名作だ。皆様もきっと夢中になってくださるだろう。


 ロクサーヌ様は果物を少しずつ召し上がりながら背もたれに身を委ねた。その呼吸をよくわきまえたデイモンがそっと椅子の向きを変え、マルゴの方に向ける。次々にチーズとお酒が配られて、窓の覆いが下げられる。“鏡の向こう”の芸術は素晴らしいと聞くわ。いったいどんな物語かしら。ひそひそと、期待に満ちた言葉が囁かれる。


 ぽろん。竪琴の初めの音は、悲しい物語を予感させる、情熱的で不安げな和音だった。いくつか和音を重ねた後に、マルゴは歌い出す。


 “遠い遠い昔 遠い遠い異国

  麗しき花の都に、二つの力のある名家があった”


 この二つの名家はどちらも裕福で、またとても力を持っていて、お互いにいがみ合っていた。何も悪いことをしていない人でさえ、敵対する家に関わりある人間だと言うだけで、狙われたり殺されたりした――と、歌は続いていく。不幸にも敵同士の家に生まれ、お互いに愛し合ってしまった若い二人の恋人たちが、その恋を貫こうと奮闘する。そしてその命を失うことで、両家の諍いを終わらせる――という、情熱的で、とても悲劇的な物語だ。


 この物語は“鏡の向こう”でも大人気で、幾度も劇場で上演されてきた。聖職者や王宮の音楽家たちが断片をつなぎ合わせて一つの物語にしたばかりで、こちらではまだほとんど知られていないから、ロクサーヌ様たちのおもてなしにはぴったりの演目だろう。あとでマリアンヌ様に、勝手に披露したことをお詫びしなければ。


 マルゴの、普段は凜々しい声は、歌う時には独特の艶を帯びる。優しく、時には鋭く、変幻自在に色を変えて聴衆を楽しませる。竪琴ひとつでこれほど陰影のある物語を歌い上げるなんて。ロクサーヌ様とジョスリーヌ様はもちろんのこと、オリンピア様でさえ、マルゴの歌う悲劇の物語に聞き入っている。わたくしは彼女の優しい声を聞きながら、心を落ち着けようとした。大丈夫。まだ致命的なほどの失態は犯していない、はず。


 それどころか、マルゴの発言のおかげで重要なことがわかった気がする。

 オリンピア様は、今回の訪問が不意打ちであったことと、それがモルト夫人の差し金であったことを、ご存じだ。――おそらく。


 曲がりなりにも公爵の地位にあるお方がお友達をふたり、侍女も入れれば四人もの貴婦人たちを連れて王女殿下を訪問するという出来事は、非公式とはいえかなり重要なイベントだ。テオの言葉のとおり、“両家の担当者たちが綿密に相談を重ねて実現すべきイベント”である。王宮側の担当者はモルト夫人――そしてデュシュマン公爵側の担当者は、オリンピア・リッツィエリ夫人だったのではないだろうか。オリンピア様がこたびの悪事に積極的に加担していたかどうかはさておくとして、モルト夫人の企みに、薄々気づいていたことは充分あり得る。気づいていてその企みを敢えて見過ごしたのだとすれば、オリンピア様も、王女に対し反逆の意図があったということになるのだろうか……


 モルト夫人は今どこにいるのだろう。初めて、それに思い至った。

 王宮に戻ってから今まで、事態をなんとか収拾することに忙しくて、モルト夫人の行動についてよく考える暇がなかった。けれど、考えなければならない。モルト夫人は何を思ってこの企みを起こし、そして今、どこで何をしているのか。


 あの籠を王女殿下に差し出したのが昨日だった。タイミングを考えても、あの籠はこの企みの下準備だったのだろう。なぜあの籠を王女殿下にお見せしようとしたのか――わたくしを悪者に仕立てるつもりなら、もっと他のやり方があったのでは。昨夜もそう思った。


 わたくしの悪評をばらまいていた事実があったから、つい一緒に考えてしまっていたけれど。昨日の籠は元々は、わたくしを標的にしたものではなかったのかもしれない。


 モルト夫人はもしかしたら、あの籠を王女殿下に見せて、わざとお怒りを買い、城から追い出されるつもりだったのではないかしら。

 そうじゃないと――今日のこの悪事が明るみに出た暁には、いくらオーフェルベックの後ろ盾のあるモルト夫人だとて、極刑は免れなかっただろう、からだ。


 わたくしは座り直した。一瞬、今すぐ近衛兵長を秘密裏に呼んで、モルト夫人とその配下を捕らえるよう命じた方が良いのでは――そう考えた。

 けれどすぐに、それは得策ではないと思い直す。家政婦長はすでに事態を知っている。わたくしよりよほど世事に長けた彼女のことだ、わたくしが思い至る程度のことはすでに指示を出してくれている可能性が高い。わたくしの戦場はここだ。大事な戦場を放棄して別の戦いに手を出すなど、愚か者のすることだ。


 ――よくよく運の良い方のようですね。


 テオはそう言った。確かにと、考えた。わたくしは運が良かった。本当に幸運だった。

 この幸運が、今日の訪問をつつがなく乗り切るまで続くことを心から祈ろう。




 マルゴの語る物語は、仮面舞踏会で、若者が娘に一目で心を奪われるところまで来ていた。ロクサーヌ様もオリンピア様もジョスリーヌ様も、侍女の皆様方も、皆うっとりとマルゴの歌声に聞き惚れている。娘の可憐さに若者は、それまでのどなたかへの恋慕をすっかり忘れて夢中になった。マルゴの歌い上げる娘の美しさは真に迫っていて、まるで、仮面をかぶって踊る美しい娘がその場に現れ出るようだ。


 わたくしはそっとテーブルを見渡した。セバスチャンの観賞用食材は、本当にどれも本物そっくりで、どれがそうなのか見分けが付かない。従僕たちは歌の邪魔にならないように密やかに、しかし的確に動き回って、使い終えた皿を取り替え、お茶を入れ、お酒を配り、テーブルを居心地良く調えている。皆様はもうだいぶお腹がいっぱいになったようで、それが本当にありがたい。今まで観賞用食材の存在は明るみに出ていない。このまま全てのお料理を下げてしまえれば良いのだが、あまり性急にしては帰宅を促しているように取られかねない。


 オリンピア様は、驚いただろうか。

 きっと驚いたはずだ。モルト夫人を呼べと言ったのも、事態を把握しようとしたからかも。わたくしは歌に聴き惚れているふりをしながら目を閉じて、記憶を探った。オリンピア様は、今朝から一度も、驚いた様子を見せなかった。貴族のご婦人として長年社交界で渡り合ってきた方だから、内面の驚きを隠すくらい、朝飯前なのかもしれないけれど。


 と。


「――……」


 ささやき声がかすかに聞こえて、わたくしは目を開けた。

 オリンピア様が、ご自分の給仕に何か囁いていた。

 そして、目が合った。その視線にわたくしは、ドキリとした。


 とても鋭い視線だった。


 オリンピア様はすぐに微笑んで視線をそらした。わたくしは固唾を飲んで、今オリンピア様から指示を受けた給仕を見つめた。オリンピア様の給仕はそっと部屋を横切りテーブルの奥側へ向かっていく。そこにあるのは、まだ手つかずの、こんがり焼けた鶏の丸焼きだ。


 ――知ってる。


 わたくしはその瞬間確信した。

 オリンピア様は、モルト夫人の企みをご存じだ。


 オリンピア様の取り皿には、豚肉も、白身魚も、果物やお野菜やチーズ、他の様々な食べ物も、まだたくさん残っている。全てのメニューを一口ずつ味見しているかのような召し上がり方だ。不思議でたまらないのだろうとわたくしは予感した。全ての食べ物が本当に全部本物なのか、確かめている。勘と言ってはそれまでだけれど、そうとしか、思えない。


 給仕が鶏の丸焼きにたどり着いた。ナイフが初めて鶏のお腹に差し込まれて。

 和らげられた窓からの明かりに、くっきりと、立ち上った湯気が見えた。


「……」


 わたくしは詰めていた息をそっと吐いた。驚いたことに鶏まで本物だった。鶏のお腹には、刻んだお野菜と香草がぎっしり詰められていた。かぐわしい芳香がわたくしのところにまで届いた。わたくしは自分の給仕を振り返って、わたくしにも一口くれるように合図をした。セバスチャンはこれほどの食べ物を全部、王女のために提供してくれたのか。それでは、今日のランベール公爵家の昼食はさぞ質素になってしまったことだろう。


 鶏の中に詰められていたのはジャガイモとにんじんとタマネギ、ベーコン、香草、それから様々なスパイスだった。口に入れると、果たして慣れ親しんだセバスチャンの味がした。かぐわしい芳醇な香りとみっちり詰まったうま味。肉もパサついたところがどこにもなく、一口噛むごとにおいしさが押し寄せてくる。


 大丈夫大丈夫。


 自分に言い聞かせ、そっと息を吐く。その息が震えている。手の震えに気づいて、食器を放し、膝の上で握り合わせる。

 オリンピア様の悪意が恐ろしかった。――そう、認めなければならない。わたくしは怯えていた。怖くて怖くて、たまらなくなった。到着されてから、いいえそれより遙かに前からずっと、何食わぬ顔で、企んで、ほくそ笑んでいらしたのか。それほどの悪意を受けなければならない理由が、マリアンヌ様にあるのだろうか。


 マリアンヌ様は今日、驚愕し、恥をかき、国中に無能さを喧伝されるはずだった――それを企んでいたのが、モルト夫人とその配下だけではなかったという事実が怖い。モルト夫人ならば、オーフェルベックの差し金であろうという動機を理解できる。オーフェルベックの動機はもちろん、王位の簒奪だ。でもオリンピア様の動機は何? 王女殿下に何か恨みでもあったの? それともこれもロクサーヌ様の指示? 到着されてからロクサーヌ様はずっとわたくしと王女殿下に好意的に振る舞ってくださっていると思っていたが、それも全て、演技だったのだろうか……?


 もう何もかも、信じられなくなりそう。

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