第9話 デュシュマン公爵の来訪2/2
いよいよ昼餐の鐘が鳴り響くときがきた。
わたくしにできることは、アンリを始めとする厨房の皆さんと、家政婦長を始めとする給仕の皆さんを信じて、女主人代理を務めることだけだ。できるだけ堂々と振る舞っているつもりだが、それでも足が震えるのを感じずにはいられなかった。あまりに無謀だったのではと、気弱な自分が執拗に言い続けている。何か取り返しのつかない失策をおかして、マリアンヌ様の顔に泥を塗るようなことになるのではと。
しかし、ここまで来て辞めるなんて無理だ。
マリアンヌ様が家政婦長から知らせを受けてこちらに戻って来ていることを信じて、それまで何とか持ちこたえるしかない。
公爵を迎える正餐だ。本来ならば四人以上の歌い手を呼んで唱歌を添えるべきだが、現在は喪中だから控えた。ごくかすかな音量で奏でる弦楽が似つかわしいだろう。たった三人の弦楽器奏者たちが優しい調べを奏でる中、席次どおりに着席が進む。和やかと言える雰囲気の中を、ゆったりとした四拍子が流れていく。滞りなく着席が済み、曲に合わせて従僕や給仕たちが動き回る。今のところはうまくいっている。大円卓の上に、色とりどりのご馳走が次々に並べられていく。
サロンでの談笑中も、ずっとハラハラしていた。アンリの腕は信じているが、どんな凄腕の料理人だって、こんな事態に備えるなんて不可能だ。
そもそも、喪中のおもてなしはただでさえ難しい。あまり華美で豪奢なものや、異国から取り寄せた珍味などをお出しするわけにはいかない。それなのに、貧相に見えてしまっても王家の対面が保てない。その上今日は用意する時間も足りなかったし、この日のために用意された食材は今朝まで何もなかった。アンリには頑張ってほしいと頼んだけれど、どうにか体裁を取り繕ってくれれば、という、わらにもすがるような気持ちだった。
――それなのに、この種類の豊富さはいったいどうしたことだろう?
次から次へと運び込まれ、所狭しと並べられていく、つやつやのお野菜、ぴかぴかの果物。それからもちろんアンリの得意なテリーヌと、透き通ったスープ。あのスープを作るのには丸三日かかると聞いたことがあるのに、一体どうやって用意したのだろう? あれが観賞用食材だということはない、と思う。
メインは豚肉のスライスと、鶏の丸焼き、それから白身魚の三種類。スライスはごくごく薄く、向こうが透けて見えそうに切り分けられ、こんもりと山になっている。白身魚はハーブと一緒にオーブンでローストされたものらしい。それからこんがり焼けた鶏の丸焼き――いやこれはさすがにセバスチャンのコレクションだろう。あんまり美味しそうで、わたくしは内心冷や汗をかいた。あんなに美味しそうに見えては、誰かが食べたいと声を上げられるかもしれない。
ともあれ、昼餐の彩りは皆様の期待に応えたようだった。
ジョスリーヌ子爵夫人は素直に微笑んでくださり、皮肉屋のオリンピア様でさえ辛辣なコメントをされなかった。ロクサーヌ様は、「老い先短い老婆をもてなすのに、こんなに様々なものを準備するものじゃありませんよ」と決まり切った定型句を上機嫌で述べられた。わたくしも、「皆様のお越しが嬉しくて、料理人が張り切ってくれましたの。どうぞ召し上がってくださいな」と紋切り型の口上をお返しする。主賓の三人とそれぞれの侍女、召使い、それから主人役のわたくしと、侍女のマルゴ。それぞれに給仕がつき、会食が始まる。
さあ、正念場だ。
マリアンヌ様が戻られるまで、なんとかこの場をうまく取り仕切らなければ。
初めのうちはあまりお話はせずにお食事に専念するのがマナーだ。わたくしは目をこらして、どれが本物の食べ物でどれがセバスチャンのコレクションなのか、見極めようとしていた。どれも本物に見えるけれど、全部が本物だなんてあり得ない。
今日は昼餐なので、晩餐とはルールが違う。着席している人全員に給仕がつき、食べたいものを小声で給仕に伝えて取り分けてもらうスタイルだ。ロクサーヌ様の給仕は昔から王宮に勤めている執事で、ロクサーヌ様の上機嫌はきっとそれも理由のひとつだろう。彼は有名人だ。名前をデイモンと言い、ロクサーヌ様がこの王宮に住んでいらした頃から、王宮全ての人員を取り仕切り、ジャクリーヌ様からの信任も厚かった。それでいて穏やかで、気さくで優しい人柄なので、マリアンヌ様もわたくしも、デイモンが大好きだ。
デイモンが、大きな鉢にたっぷり入った黄金色のスープをひとすくい、ロクサーヌ様の器に注ぎ入れた。光を内包しているかのようなとろりとした色合いだ。同時にわたくしの給仕も、器にスープを注いでくれた。マルゴに視線で促されて、スプーンを持ち上げる。到底喉を通るような気がしないが、わたくしがいただかないと、わたくしより身分の低い方たちは食事に手をつけることができないのだ。
黄金色のスープを一口飲んで、これほどの種類の食べ物をこんな短時間で揃えられた理由が判明した。
スープは、セバスチャンの作る味がした。観賞用食材だけではなく、ランベール家で準備していた分を融通してくれたらしい。
「まあ、美味しい」
一口飲んだジョスリーヌ様が声を上げられ、侍女が唱和する。優しい賞賛の声と軽い吐息や嬉しげな呟きがそこかしこで聞こえ始める。オリンピア様とその侍女も、嬉しげな様子だった。おふたりがまず召し上がったのは、アンリの作った豚肉のスライスだ。キラキラ光るソースとともに一口召し上がり、華やいだ声を上げている。
ロクサーヌ様はデイモンと低い声で何か話しながら、お魚を召し上がっている。わたくしは、ようやく、少し息をついた。幼い頃からよく口にしてきたセバスチャンの黄金スープのお陰で、胸のつかえを飲み込めたようだった。「いかがなさいますか」わたくしの給仕に訊ねられ、ロクサーヌ様の召し上がっているお魚を少し皿にのせてもらう。表面をバターでカリカリに焼いてあり、中身はほくほくとしていて、とても美味しい。
「姫様」マルゴが囁いてきた。「マルゴのことをお忘れなく」
茶目っ気たっぷりなマルゴの囁きに、わたくしは思わず笑みをこぼした。侍女は主人と同じメニューを食べてそのおいしさを分かち合わなければならないのだ。そしてマルゴの好きな食べ物は断然、お肉である。
豚肉を皿にのせてもらい、フォークで折りたたんでソースをつけ、口に入れる。ああ、とろける……。
「アンリを解雇するなんて、姫様、絶対におっしゃいませんわよね」
マルゴはそう囁いた。少し大きな、皆様にも聞こえる声だった。わたくしは慌ててたしなめたが、オリンピア様は耳ざとかった。「あら」身を乗り出すオリンピア様は、どんなゴシップも聞き逃さないという噂に違わぬ様子だった。「アンリ……というのは確か、王宮の料理長の名前ではありません?」
「え、ええ、それが」
「どうして解雇なんて? こんなに美味しいお食事ですのに!」
「いえオリンピア様、違うんです。わたくしは一度も解雇してほしいなんて思ったことはありませんし、そもそも王宮の人事に口を出せるなんて、思ってもおりません」
「すみません、姫様」
マルゴは殊勝に謝って見せた。けれど目が好戦的に光っている。昨日の召使いの言った言葉が、よほどに腹に据えかねていたらしい。
でもまさかこんな場所でそれを持ち出すなんて。わたくしはうつむいて豚肉に夢中になっているふりをしようとしたが、オリンピア様は当然許してはくださらなかった。
「でも、火のないところには……と申しますでしょ。テレーズ様が王宮の料理長を解雇するなんてお話が、一体どこから飛び出したのかしら」
「ロジエさん、何かあったのかしら?」
ロクサーヌ様までが身を乗り出してきてしまった。マルゴはもう一度、すみません姫様、と謝った。そしてにっこり微笑んでみせる。
「王宮内でそんな噂が流れているらしいということを小耳に挟みましたの。わたくしたち、ずっと憤慨しているんです」
ああ、ああ。マルゴったら……。
マルゴは勇猛果敢な性格だ。またわたくしに深い忠誠を捧げてくれているから、モルト夫人の召使が言ったわたくしへの悪口を聞いて、腹に据えかねているのもわかっていた。でもまさかこの場で、昨日の召使いのことを持ち出すだなんて。わたくしは生きた心地がしなかった。モルト夫人の画策が明るみに出ることで、いったいどんな波紋が起こるか、全く予測ができなかった。
「ただの噂に過ぎません。皆様のお耳に入れるようなことではございませんから、どうぞお忘れください」
「それでも、まさか公爵家のご令嬢に関する口さがない噂が流れるような状況になっているだなんて」
「下々の者は娯楽のために好き勝手なことを言い合うものですけれど、まさか王宮の召使いにそんな不心得者がいるだなんて……」
オリンピア様とその侍女は意味ありげに言い交わす。やっぱり、言外に、王宮内のそんな噂を許しているわたくしと、王女殿下への非難をにじませている。わたくしは皆様に悟られぬよう呼吸を整えた。喉の奥に棘が刺さっているような気がした。呼吸のたびにずきずき痛むいがいがの棘。
オリンピア様はそれはそれは麗しく微笑んだ。
「最近、王宮には新たな女官が採用されたそうですわね」
獲物を見つけた猫のような、とても楽しげな表情だった。
「その女官にも是非お会いしてみたいものですわ――」
冗談じゃない。この場にモルト夫人を呼んだりしたら、いったいどんなことになるかわからない。ただでさえ観賞用食材を使った綱渡りの昼餐だ。これ以上爆弾を抱え込んだら、わたくしの神経が保ちそうもない。
マルゴは今、明らかに責任を感じていた。自分の落とした波紋がまさかこんなに大きくなるなんて考えていなかったのだろう。わたくしは手を伸ばして、そっとマルゴの手に触れた。そしてオリンピア様に向けて微笑んでみせる。
「オリンピア様。モルト夫人はただいま、王女殿下に同行しておりますの。殿下が戻られましたら、モルト夫人もお呼びしましょう」
「あら? でも、今回の訪問の王宮側の担当者は――」
「オリンピア様。テレーズ様が困っていらっしゃいますわ」
優しい声がたしなめた。ジョスリーヌ子爵夫人だった。
静かで細い声だったが、口調はきっぱりとして、有無を言わせぬものがあった。オリンピア様は一瞬表情を硬くした。しかしすぐに微笑んで、「無理を申し上げるつもりはありませんでしたの」猫なで声で引き下がった。
やはり今はジョスリーヌ様の方が、オリンピア様より重用されているらしい。
わたくしはホッとした。ジョスリーヌ子爵夫人の優しい心根には本当に助けられてばかりだ。場を取りなすために、にっこりと微笑んでみせる。
「モルト夫人は王女殿下の女官ですから、夫人だけ呼び戻すことは難しいですけれど……ああ、そうだ。代わりと申し上げてはなんですが、マルゴが覚えたばかりの歌を披露いたしますわ。マルゴ、どうかしら?」
「ええ姫様」マルゴはうなずいた。「わたくしでよろしければ、喜んで」
ジョスリーヌ子爵夫人が身を乗り出した。「まあ、どんな歌ですの?」
「とても素敵で悲しい物語の歌なのです。本来でしたら何人かで演じる歌劇なのですけれど、今は喪中でございますから、ひとりでご勘弁ください。宮廷の音楽家がひとりで歌えるように編曲しましたから、皆様もきっとお気に召すと思います。――“鏡の向こう”の物語です」
“鏡の向こう”と聞いて、皆様はとても興味をそそられたようだ。
マルゴのところへ竪琴が届けられた。場を保たせるための余興として、心づもりをしておいたものだ。想定していたタイミングより少し早かったが、今はオリンピア様の発言の意味を、よく考えなければならない。
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