第8話 デュシュマン公爵の来訪1/2
家政婦長は王宮の奥向きの一切を取り仕切る役職だ。普通ならば家令と呼ばれる殿方が勤めることが多いけれど、ジャクリーヌ様が王位に就かれたときに、奥向きのことは女性に任せたいと決められ、現在の家政婦長、ノアイユ夫人が迎えられた。ジャクリーヌ様のお眼鏡に適ったというだけあって、腰の据わった堂々たる女傑だ。この事態に取り乱していないのが、本当にありがたい。
有能であるが故に厳格なノアイユ夫人は、わたくしの召使い姿に眉を跳ね上げたが、協力を約束してくれた。いくつかの手配を終えたわたくしは即座に自室に戻り、マルゴと召使いたちの手で控えめなドレスに着替えさせられ、化粧をされ髪を結われた。今朝髪を切らないで本当に良かった。
わたくしの着替えが済む頃に、衛兵の吹き鳴らすラッパの音が聞こえてくる。さあ、いよいよだ。わたくしは深呼吸をした。ひとつ、ふたつ、みっつ。
部屋の外で召使いたちが控えている。どの顔にも隠しきれない緊張が現れている。充分な準備もなく重要なお客様を迎える彼らは、さぞ心許ない気持ちでいるだろう。あとでマリアンヌ様にねぎらいの言葉と臨時ボーナスをお願いしなければ。
わたくしはマルゴを見上げた。
「どう、マルゴ?」
「完璧ですわ、姫様。マルゴも微力ながらお側についております」
「ええ、頼りにしているわ」
なんて心強いのだろう。わたくしが兵士だとするならば、マルゴはわたくしの剣であり盾であり、もっとも信頼できる仲間だ。マルゴがいてくれれば、どんな事態にでも立ち向かうことができる。
わたくしはマルゴと一緒に、公爵を迎えるサロンへ赴いた。
「ロクサーヌ様! お目にかかれて嬉しいです……!」
精一杯の笑顔を浮かべ、デュシュマン公爵を迎え入れた。
ロクサーヌ・デュシュマン公爵は、マリアンヌ様にとって伯母様にあたる。わたくしのお父様より三つ年上だが、小さなお顔も優美な手も若々しく、年齢を感じさせない。
今日、お客様をお招きするのは特別なサロンだ。
サロンは王宮内に何カ所かあるが、ここはとっておき。なまなかなお客様では絶対に辿り着くことのできない、ごく限られた人だけが招き入れられる場所だ。以前王宮にお住まいだったロクサーヌ様はもちろん、ここのお部屋がどういう意味を持つかご存知だ。あまり広くはないのだが、とても優美で居心地が良い。暖かく、ほどよく潤っていて、ソファやカウチの周辺には良い香りのする花や見目麗しい観葉植物が配置されている。
「ごきげんよう、テレーズ。お久しぶりね、まあ、綺麗になられたこと」
特別なサロンの魔術のお陰か、ロクサーヌ公爵はご機嫌が良さそうだった。
一番奥の長椅子にはもちろんロクサーヌ様がおかけになる。そこで少し不思議なことが起こった。ロクサーヌ様から見て左側のカウチに、ジョスリーヌ・カヴェ子爵夫人が座ったのだ。右側のカウチにオリンピア・リッツィエリ伯爵夫人が座る。わたくしは表情に出さぬよう気を付けて、ロクサーヌ様の隣に腰をかけた。
「皆様、どうぞお許しくださいな。マリアンヌ王女殿下がお迎えできませんでしたのは、今朝、離宮から遣いが来たためなのです。どうしても殿下でなければ対処できない出来事が生じてしまったとのことで……でも、協議が終わりましたらすぐに戻ってこられるはずですわ、議会招集というほどの事態ではないようだということでしたから」
裏にたくさんの意味を含ませたわたくしの言葉に、ロクサーヌ様は鷹揚に頷いてくださった。
「ああ、それでなのですね。どうぞお気遣いなく」
次に口を開くのはどちらだろう。わたくしは固唾を飲んでそのときを待った。
身分から言えばオリンピア様のはずだが、席次から言えばジョスリーヌ様の番になる。
ジョスリーヌ様は、今朝王宮に情報をもたらしてくださった心優しい方だが、子爵夫人だ。大きな瞳がくりくりしていてお可愛らしい。以前は控えめな印象だったが、今日は堂々として背筋が伸びている。席次のとおり、彼女が先に口を開くとするならば――
「殿下でなければ対処できない出来事、と言いますと」
柔らかな綿が喉に詰まっているような声だった。控えめで優しい、ジョスリーヌ様の声。おずおずながら、彼女が先に口を開いた。ロクサーヌ様の後ろ盾が、それを可能にしたのだ。
わたくしはオリンピア様を見ないよう気を付けなければならなかった。
ロクサーヌ様の寵愛が、オリンピア様からジョスリーヌ・カヴェ子爵夫人に移った。公爵の友情を盾に、社交界の主役として君臨してきたオリンピア・リッツィエリ伯爵夫人の権威が、失墜しつつある。
社交界での力関係を把握しておくことは重要だ。中喪式が終わり、社交が再開されるまであと少ししかない。肝に銘じておかなければ。
「あの、詮索をお許しくださいな。わたくし、どうも“あちら”の物語に心引かれてしまうたちで」
ジョスリーヌ様が言い終え、ようやくオリンピア様が口を開く。
「わたくしもですわ。今朝方起こった出来事は、よほどの事件だったのでしょうねえ」
オリンピア様の言葉には、いつもかすかな毒がある。意地悪な意思、当てこすりの気配。当意即妙の受け答えを得意とする社交界の大輪の薔薇だ。彼女はずっとロクサーヌ様のお気に入りだった。身分も高いし、お洒落だし、大変な美貌だ。才色兼備というのだろうか、文学や世情に詳しくて、彼女の集めてくるゴシップを、ロクサーヌ様はことのほかお喜びだったはず。
その地位が揺らぐことがあるなんて思いもしなかった。――それもジョスリーヌ様のような方に敗れるとは!
内心の動揺を悟られないよう、わたくしは困ったように微笑んで見せた。
「……殿下もとても恐縮していらっしゃいました。でも、お茶の時間までには戻られるはずです。お戻りになられたら、何が起こったのかお訊ねしてみましょう」
「“あちら”では革命が起こりそうだという話ですわね。怖ろしいこと」
ロクサーヌ様はそうおっしゃり、美しい眉を優美にひそめた。
離宮には〈鏡〉がある。伝説では、エステル王家が神からこの地を賜った際、治世の指針として授けられたと言われる。
〈鏡〉は本質が水に似ているという。大きな音を立てると波紋が生じるのだそうな。エステル王家の秘宝中の秘宝であり、高位の聖職者のみが記録を許される。許可がなければ離宮に入ることはできない。わたくしは一度だけ〈鏡〉を見たことがあるが、それはとても名誉なことだった。戴冠式の際だけは、ごく少数の人が立ち入ることが許される。
基本的に〈鏡〉は王家のものであり、直系の王族のみがそれを継ぐ。今はマリアンヌ様が責任を負っている。映ったものによっては真夜中であろうと休暇中であろうと喪中であろうと重要なお客様をお迎えする寸前であろうと知らせが届き、王はその対処を最優先にすると決まっている。マリアンヌ様の不在をごまかす理由として、これ以上の嘘は思いつけなかった。本当は、もう少し穏便な嘘の方が望ましかったのだけれど。
〈鏡〉には、“異世界”が映る。
だから〈鏡〉に映る物事は、人々の興味を引きつけて止まない。
時折、音も届く。エステル王国は、“あちら”の世相を参考に、または反面教師にしながら発展してきた。“あちら”はこちらの存在など全く知らないだろう。交流は一切できない。一方的に覗かせてもらっているというのが現状だ。
建国当初、まだ治世のノウハウが分かっていなかった頃から、“あちら”で飢饉が起こる様子から学び、干ばつや冷夏に備えて穀物を蓄えたり水路を建設したりすることができた。“あちら”で凄惨な事件が起こるたびにエステル王国はそれを未然に防ぐための対策を施した。“あちら”に比べれば気候も穏やかで土壌も肥え、飢饉や疫病が起こりづらいらしいことも事実だが、現在の平和と繁栄には、“あちら”を反面教師にできるという事実が深く関わっているというのが通説だ。
“あちら”の歴史は本当に凄惨だ。諍い、略奪、戦争。百年ほど前からずっと、なにも悪いことをしていない(ように見える)人々が捕らえられては、拷問され、裁判にかけられ、様々な手段で殺される様子が映し出されているという話だった。今は下火となっているが、完全に納まったわけではないらしい。“あちら”ではこちらよりずっと宗教が絶対的で、それに従わなかったと言う理由のようだと結論づけられていた。百年近くも続いた戦争もあったし、疫病が大流行したときもあった。人々はバタバタと死んでいく。街中は汚いし人々も汚い。そして、そう、ロクサーヌ様がおっしゃったとおり、“あちら”では今革命の気運が高まってきている。マリアンヌ様が昨日たくさん書いていらしたお手紙の半分近くは、それへの対策だと聞いている。
「革命というのは、一体どういうものですの?」
ジョスリーヌ子爵夫人が無邪気に訊ね、ロクサーヌ様は幼子を慈しむような微笑みを浮かべた。
「革命というのは……そうね、わたくしたち貴族と、平民たちの区別が一切なくなると言うことのようよ」
ジョスリーヌ子爵夫人は目を丸くした。「それは、どういうことですの?」
「ふふ、わたくしたちは心配しなくても大丈夫よ。次期女王陛下はご聡明でいらっしゃるから、きっとこの国の舵取りを誤ることはないでしょうし。それに殿下のお側には、頼りになる側近がたくさん控えていますしね」
わたくしは呆気にとられていた。――この方は本当に、ロクサーヌ・デュシュマン公爵その人だろうか?
ジャクリーヌ様が王位に就かれる際、一番強硬に反対した方。近縁の子供を王位に就け、その後見を担おうと画策された方。ジャクリーヌ様とお母様とを最後まで苦しめた好敵手が、私的な場とは言え、マリアンヌ様を“次期女王陛下”とはっきり明言されるとは!
「テレーズ」
まっすぐに見られ、わたくしは居住まいを正す。「はい、ロクサーヌ様」
「そう目を見開くものではありません。女王陛下の女官総監という地位は伊達ではありませんよ。身分と愛嬌だけでその地位を得るならば、女王の邪魔となり足かせとなり得るほどの地位です。貴女の亡きお母様ならば、今この状況で、驚いた様子など微塵も見せたりはしなかったはず」
叱責され、わたくしは俯いた。「……はい。ご無礼をいたしました」
ぐうの音も出ない。確かに今この状況で驚きを見せるべきではなかった。即位されるその日まで、マリアンヌ様をオーフェルベックの魔手から守らなければならないのに、こんなところで下手をうつなんて不甲斐ない。
ロクサーヌ様が手を伸ばし、そっとわたくしの手に重ねた。柔らかく温かな手のひらの感触に驚いて顔を上げると、ロクサーヌ様は優しく微笑んでいらした。まるで人が変わったかのような、聖母のような慈愛に満ちた表情――
と、その笑みが、やや意地悪げに歪められた。以前の好戦的な王妃の貌が戻ってくる。
「もっとしゃんとなさいな。早くあの女に似た、賢しらでしたたかで可愛げのない娘に育ってもらわなければ、いじめがいがないじゃないの!」
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